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あこがれのひとが教えてくれること

人生を大きく変えるような、つまり生活の大部分、じぶんを説明するキーワードの構成が変わるような何かを決めたあと、「あのひとはどう思うだろうか」という考え事をよくする。

考え事とも呼べないような、想像のような妄想のようなそれをしてしまう自分がずっと人の顔色を伺っているようで、好きな人から嫌われたくないという思いからそれをやっているようで嫌だった。

でも、最近ようやくなぜそれをするかがわかった。

まず「あのひと」として浮かぶひとというのは大抵、”好き”と”あこがれ”が混ざり合うような相手で、かつ”今のじぶんには手が届かない”(と思い込んでいる)相手が多い。今のじぶんの手には届かないが好きで憧れているというのはつまり、”こういう風になれたらいいな”と感じる人物像がそこにあることになる。

”こういう風になれたらいいな”を相手を頼りに更に深掘りしてみると、そこにはじぶんが”どう生きたいか”について様々なヒントが置かれている。どのような暮らしをしている人物なのか、どのような仕事をしている人物なのか、どのような恋人がいて、どのようなことに重きを置いている人物なのかなど、「あこがれのあのひと」はじぶんのある意味での未来を詳細に教えてくれる。

胸がきゅんとするような暮らし方をしているひとに、じぶんでも呆れるほど簡単に恋に落ちてしまうのは、そういう暮らし自体が好きだということのほかに、それを体験したいという欲求があるからだろうと想定している。

そして、鮮烈に”好き”を感じた数週間後、もうすでにどうでもよくなっているのを分析すると、その時点でのじぶんの定めていた焦点がずれ、じぶんの進み具合・中身の変化に合わせて変化した新しい焦点を言語化するための材料を新しく探してるのだろうと思う。じぶんでもその自己中さに引くけれど、10代の後半からずっと続いていてもう10年弱になる一種の"癖"のようなものなので諦めがついている。ちょっとずつ、そういう思いを内に静かに納められる術を身につけたいなとも思い始めたけれど。

さて、わたしが今あこがれ、とても好きだと思うひとたち(男のひともいれば、女のひともいて、子どももいれば、おじいさんもいる)、そのひとたちに共通しているのは「実態」というキーワードだ。

実態のある暮らし、このひとつのキーワードに集約されるそれにとても心惹かれる。実態のある暮らし。でも言い過ぎると嘘みたいになるから、これについての言語化はすごくすごく繊細に見極めないといけないものでもある。

実態のある暮らし、そこには明確なスキルが存在してる。家をつくれる、作物を育てられる、薬になる植物の効能を知っている、果実の食べるタイミング、適切な保存の仕方を知っている、衣を織れる、ぎゅっとまとめて言葉にすると二つの手で何かを生み出せる技を持つ、ということ。 

そう、大人になるというのは、じぶんで決めて生きていき、余裕があるときには余裕のないひとを助けることだ、とわたしが”大人”になるまで育ててくれた叔父さんが言っていた。

じぶんで選ぶっていうのは、誰かのせいにした人生を生きないということでもある。こないだ参加したアースデイ琉球で、さとうみつろうさんが言っていた「家をつくれちゃえばもう何もこわいものないですよね」という一言がなんだかすごく印象的で。そういう安心が欲しいのかもしれない。そろそろ根っこを下ろしたいのだ、地球に。

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(アースデイ、楽しかった〜〜〜!、公子さん最高ほんとに!あこがれ!)

「先々のことまで考えて決める」これはたぶん高校生のときに強烈に身につけてしまった思考の癖で、もしかしたら必要な癖だったかもしれないけれど、ある意味でとても足枷になる。知りたいと思った、やりたいと思った、でもそれに意味を見出せなくて表紙すら開かない。そんなのってやっぱり違う。

「学びたいと思ったらいつでもドアは開かれているのだから、あ、試験はあるけどね」と言ったあこがれのひとの姿が思い出される。

そういうことがきっとたくさんある。食べていけるかはわからない、次の4月のあとの暮らしもまっくらだしまっしろだ。でも、やってみたいし、何より、数ヶ月前に感じた「この暮らし最高じゃん!」が実現するのって素直に嬉しい。

深呼吸して嬉しいを鼻からいっぱいに吸い込んで、今まで溜め込んでしまった苦しさや惨めな気持ちとか、そういうものを口から吐き出す。少しずつ少しずつ。今はまだ”余裕”を育てるとき。きっといつか、ひとに分けてあげられるようになる。

少しずつ少しずつ。うちなーぐちで、それは「よんなーよんなー」だ。心地よいリズム。