近頃は、”外面”ばかり考えている。
お化粧は数ヶ月に一度、特別な相手に会いに行くときだけ。ヒールのある靴を履くのも同じような頻度。
それは、お化粧もモラルのうち、というのはなんだか気持ち悪いなと思ったから、まあいいだろ、と考えてのこと。
着るものも朝見てパッと目に飛び込んでくるものを着るので、だぼだぼのジーンズにTシャツのときも、ピタッとパンツにブラウスのときも、ワンピースのときも、するするのズボンのときもある。
"男の子" "女の子" "男のひと" "女のひと" 容易にカテゴライズができてしまうそれぞれの要素が自分の内にあり、その割合がバイオリズムのように波打っているので、日々着たいものが異なるのだと思う。
ときどき、カテゴライズしづらい、強いていうのであれば"動物"だとか、"ただ存在している何か"とか、そんなキブンのときもある。
これは、裸でお布団のなかに潜るか、湯船(があれば)本を何冊も持ち込んで引きこもるか、そんな風にして過ごす。
そんな自分なのだけれども、ここ最近もっぱら考えているのは、さっきも書いたけど"外面"についてなのである。
要因はいろいろある、、、でも、たぶんおそらく、いつも褒めてくれていたパートナーのひとが東京へ行って、日常的に自信をつけられていない→努力せねばというようなネガティブ発なのももちろんある。
だけど、もっとも大きいのは、なんだかじぶんの内側がもぞもぞと変わり始めたのを感じていて、そのもぞもぞにぴったりの"皮"を被りたいのだと思う。
変わり始めたのは23歳になってから。石垣島の途中でなんだかもぞもぞが始まった。
そういうことってあるのだきっと。
もぞもぞに任せて、ラートを再開し、もぞもぞに任せて新しいお仕事をお引き受けするために環境を整え始めている。
夏ぐらいには、新しい皮が馴染んで、今よりもっともっと素敵になれているといいな。
どう在りたいのか、と、どう見られたいのかが交錯する"外面"という言葉が面白い。
外面よくしよ、ついついベロが出ちゃう考え事だね。おほほほほ。
Tシャツに短パンでも、美しさがにじむようなひとになりたいし、ワンピース着てても、いやぁ似合うねと言われるひとでありたいし。
どんな人で在りたいかな、どう見られたいかな。
お化粧したらどんな印象になるかな。
髪を整えたら。
女の身体に生まれた意味は、この顔に生まれた意味は、なんだろな。
新しい皮をつくるときの感覚って細胞が分裂していく過程と体感が一緒。だんだん分化していくのが楽しい。
こっちになろうか、こうしてみようか。
マクロもミクロも同じこと。愛おしい細胞分裂。核と核が出会ってスパーク。命の始まり。
笑っちゃうくらい、今は生きてるのがたのしい。明日がどうかは知らないし、落ち込むのも好きだけど。センチメンタルは贅沢。
考えて感じて動いて。
明日は森でお散歩。
起きれるかな、もう眠ろう。