なんかちょびっと、じぶんが無敵であることを忘れていた。
そもそもこの文章を打っているこのパソコンちゃんも、超無敵なあのひとからのプレゼント。いつも、ついうっかり忘れてしまう、愛されていること、応援してくれているひとがいること。
わたしのことをすきだと言ってくれるひとって、わたしが何かをしたからすきだというわけでもなく、わたしが何かできるからといってすきだというわけでもないようだ。
ハウルの動く城で、ハウルがドロドロに溶けてしまって、階段をずるずるとソフィーに引きずられながら上がっていくシーンがあるのだけれど、わたしは疲れるとあんな風になる。
生きていくのがいやになって、続いているようにみえるじぶんの道から目をそらしたくって、ごはんを食べるときも水を飲むときも、その行為とは相反する思いでいるから、すごくだらだらとその行為を行い、行ったあとはあとでいやな気持ちになる。
でも、いくとこまでいくと、なんだか勝手に元通りになる。なんでそんなに元気がなかったのかももう思い出せない。わたしは無敵で、なにもないけれど、今生きているのがたのしく、信号待ちをする間もそわそわとしてしまうほど、次の場所へ向かうことを面白がっている。
どうして無敵であることを思い出せたんだろう、どうして生きているのがまた楽しみになったんだろう。カルボナーラとハンバーグを平らげたから?それにプラスしてガトーショコラまでぺろりといったから?
いやいや、そういうわけじゃない。よくよく知っている。落ち込みきったからだ。とことん嘆き、おーまいごーっとと叫び、じぶんのついてなさを恨み、あのときのあの出来事のせいで、と恨みつらみを吐きつらねて、とことんドロドロを味わったからだ。
味わいきると、不思議だけれど、ま、そんなに悪くないかこの人生、そう思って自然と胸をはれる。なんでかわからないけれど、笑みがくちびるのはしっこからこぼれていく。落ちたところから、また別の笑いが生まれ、まわりのひとにうつっていく。
(これを想像するときに、いつも浮かぶのは金子みすゞの「わらい」である。とても美しい言葉の連なりに、小学生だったわたしは胸のあたりがくすぐったくなり、ずっと、ずっと、ずっと本を眺めていた。)
目の前にいるひとが、どんな状態でも大丈夫だとただ知っているのは、じぶんがそうだから。彼が、彼女が、どんなに寂しさのなかにいたとしても、そこから抜け出し、もしくはその寂しさと抱き合い、まっすぐ明るいほうへと歩く様子が、もうすでにあることを知っているからだ。
今のわたしも、もしかしたらこれを読んでいるあなたも、同じように、もうその道のなかを歩いていて、でもときどきくたびれてしまって、力が入りすぎてうまく足を動かせなくなって、小さな石にもつまずいて、受け身も取れないまま怪我をすることがあって。
でもやっぱりその怪我さえも、その道をすこしいったところで待ってくれている絆創膏を持ったすてきなひとと出会うためのアクシデントだったりするわけで。
不格好な生き方も、全部ひろげてみると、あのひとの染め物みたいに美しい(のかもしれない。)そんなのはこの世を卒業したあとじゃないとわからない。
体温が上がってきた。生きている、生きていく。なんとかかんとか、生きている、これからも、生きていく。
感情の揺れを抱きしめる。
よくよく考えるこの頭をなでてみる。
ぴんと張った空気のなか、しーんと身体が静まる瞬間がくる。
そのときに聞こえる本当の声が、本当の声なのだ。
その声を聞きたくて、その声を見極めたくて。
だから、こんなに回り道をしてしまう。
「おねーちゃん、よんなーよんなーで行くんだよ~」
タクシーの運ちゃんがそっと小さい声で言う。
同じくらいの娘がいるそう。
ぐったりとしたわたしの顔を見て、とても心配していた。
遠くにいる家族を思う。
近くにいる家族のようなひとたちを思う。
隣にいるあのひとを思う。
きっと、きっと、たぶん。
このひとたちは、あの運ちゃんと同じように。
わたしが何を”する”かではなく、どう”在る”かを思うはず。
そして、そのうえでDOの内容を喜ぶはず。
今はまだ土作り。
でも、もうじき完成する香りがたっている。
やりたいことはたくさんあるのに力がないと嘆いたら、
「きづかないうちに、"ある"になっていると思うよ」と。
今日の最後にもらった言葉はとても勇氣をくれた。
きっとそう。
ひとつひとつを形にしていこう。
進もう、まっすぐ。

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