生きていくこと、仕事をすること、食べること、眠ること、誰かを好きになること。
舞台の上に立つこと、舞台をつくること、光をあてること、光をあびること。
何かを書くこと、読まれること、読まれるために書くこと、書くために読むこと。
いろいろなことが混ざり合っていく様子が面白く、じぶんの人生がまるで”じぶん”の力によってコントロールされていない様に笑う。
ちっぽけすぎる一つの点であるじぶんが、同時にこれらすべてをあますことなく観測できる唯一の存在であることを笑う。
数日前から頭を離れない”成功”の意味。
何を持って成功というのか。
誰に認められれば満足なのか。
こないだのブログにこう書いた。
迷いながら、でもじぶんで考え、たくさんの知識やひとの考えに触れながら道を模索し、ひとつひとつ答えを出しながら、葛藤を解消しながら、一歩一歩進んでいく。
たのしく生きよう - 0→1000
それは”成功”じゃないの?と聞かれてはじめて、じぶんの中に存在していた負い目のようなもの、”大学を卒業したのに就活もろくにせず就職もせず不安定に生きること”や”やりたいことを的確にポイントで言い表せないこと”がほどけた。
この短い一言が発された場面を、繰り返し繰り返し、大切に頭の中、胸の奥で再生する。あたたかなものが身体に広がっていくのを感じる。
もっともっと”表現”をする。
昨日見た舞台のなかで、主人公の男のひとが、認知症が進みコミュニケーションすら満足に取れない母親との暮らしのなか、線が切れ、母親を罵倒するシーンがあった。
セリフのなか、妙にちらついた言葉が、舞台の意図とは別に印象的だった。
「タバコも吸えない、酒も飲めない。女も抱けない。こんな暮らしになんの意味がある。」
母親は何も言わない。でも、我に返ったその男のひとは、誤りながら母を抱きしめる。そういうシーンだった。
でも、印象にのこったこの言葉は、なぜか舞台そのものの意図とは別に浮いて剥がれて目の前でちらつく。
何をもって生きるとする?
どのような意図のもと、創造を行う?
少し前、このコラムを読んだ。
お金を稼ぐために働かない勇気を持て! サティシュ・クマールが考える、ローカル経済を実現するために必要なこと | greenz.jp | ほしい未来は、つくろう。
勇気を出して、週に3日働くことを選べ、という具体的なアドバイスが書かれていた。空いた時間に「2本の腕をつかい、創造しなさい」と。
いつものようにサラサラと流し読みしていたけれど、ある文章から目を離せなくなった。
「そしてスキルを学ぶ時間ができたら、まず自分のために何かつくりましょう。次に、あなたの家族や友人のためにつくりましょう。自分や周囲の人のため以上につくることができたら、売ってみてはどうでしょう? 私たちは、知り合いの人がつくった服を着るとき、知り合いの人がつくったお皿や椅子を使う時、人とのつながりを感じ、そのつながりを取り戻せるのではないのでしょうか。」
https://greenz.jp/2018/02/26/satish_kumar_forum
(サティシュ・クマール)
何をもって生きるとする?
どのようにも生きられるとしたら、どのように生きる?
繰り返しまっすぐじぶんに問う。
問い続けることしかまだできない。
問いを忘れて生きることはとても簡単だけれども、誰かのくれた目的のため生きることはとても簡単だけれども。それに順応、適応してしまったら、まるで生きていく意味がない。
わたしがわたしとして生きることに意味があるからこの身体があるのなら。
きっとすべてに意味がある。