アメナルミチの言い出しっぺのひとと、子どもたちと、ラーメンを食べて、海でテオ・ヤンセンの作ったビーストが歩く様子を見て、働いてるカフェでおやつタイムをして、今、別れたところ。
他の仕事もあるのだけれど、今考えてること感じたことは今のうちにと思って、書き始めちゃった。
愛知から帰って来て、まだ4日しか経っていないとは思えないほど、いろんな仕事をが~っと抱え込んで、カオナシみたいにたくわえこんで、働いて働いて、何も考える隙間もない時間を過ごしてた。
そんななか、明日ビーストみにいこという、言い出しっぺの一言で、よし行こうと思い。
なんだかその約束だけでもやや元気がでながら、2時まで働いて、帰って来てからも5時まで働いて、パートナーのそばで少し眠り、朝また起きて少し働いた。
そんな暮らしから一転、子どもたちはいつもどおりで、ご機嫌かと思えば、ぐずぐずぐずぐずしたり、泣いたり、笑ったり、いそがしい。
その様子にもみくちゃにされながら、こちらの内面など御構い無しに甘えてくれるその様子に、なんだか勝手に力が抜けた。
子どもを崇拝する気持ちは自分のなかにないし、ひとりの人間だなと思いながら付き合っているけれど、その甘えてくる様子に、こう、なんか、ちょっと年上の人間として、頑張ろうって思える何かがあるよなぁって思う。
海のそば砂浜で、2歳の子どもとただ岩と岩との間をぴょんぴょん飛ぶ遊びをやって、勝った負けたのルールも曖昧な中、お互いに相手よりもたのしく遊んだ。
そんな時間のなかでやっと自分の気持ちに気づく。
ただこわかったんだなぁと、改めて握りしめたものを広げて見つめる。
ただこわかったんだなぁ。
これからどんな風に今ある家族の形が、在り方が変わっていくのか、変化しても、自信を持って歩いていけるとは到底思えなくて。
でも、このまま一人のパートナーにべったりと生活を重ねていって、もし沖縄を出たとして、やっぱりそれで何がのこるというんだろうと、なんかその堂々巡りのなかにいて。
そんな自分の感情の中に溺れてるから、「やりたいことやってね」というどの職場でも言ってもらうその「やりたいこと」が、浮き輪でわなく重しのようで。
「やりたいこと」なんて出てこない、というのが正直なところだった。
また心がスカスカとして、なんだか自分が頼りなく。
そんな自分とまた向き合うのがいやで、目をそらすために一生懸命頑張って働いて。
だけどやっぱり誤魔化せないなぁと思っていた次の日に、こうやって気づかせてもらう時間をもらった。
こうやって、いろんなひとと、まるで家族みたいに近い距離で生きていけたらいいなというのが、等身大の、今の自分の一番のやりたいことだ。
今近くにいるちっこい子どもたちが大きくなるのを見ていたいし、自分もそこに混じっていたい。
どんな暮らし方が楽しいのか、いろんな知識を身につけながら、体験しながら、その暮らしを実践していきたい。
それが「今」やりたいことで、それがお金につながるかも、5年後10年後どうなるかもわからないけれど、それでも、やっぱりそれがやりたいことだ。
さみしくても、めんどくさくても、あんまさいが溢れてても、やっぱりそれがやってみたいことだ。
涙をぽろぽろ流しながら、ほんとになんでやってるんだろうって思うって、でもやめたくないって話す姿を見て、やっぱりこのひとのそばにいたいなぁと思う自分がいる。
もう、年齢を言い訳にしない。
みていない人生の景色を言い訳にしない。
もう、今までの経験を言い訳にしない。
誰のせいにもしない。
やってみよう、一歩一歩。手がとどくところから変えてみよう。
もう、言い訳しない。
ありがとうって、いろんなひとに思って、いろんな場所に思って。
なんども右往左往して、進んだり戻ったりする自分をかるく笑って。
また、すすも!