こないだ、恋愛観について思うところがあり、ぽろぽろとこっそり書いた。
これを書いたきっかけになった出来事、つまり、「好き」という気持ちを持った相手に伝えたいタイミングではなく、かつ、伝えたい言葉ではない言葉で伝えてしまった、伝える気もなかったのに、ということがあった。
ぎゅっとして伝えると、こんな感じのもやもや。
本当はもっとひとりひとりの好きな人のことをピュアっピュアに大好きで、本当にそこに性別もないし、なんか、もう、そういうんじゃないのに、今知っている言葉でこの感情を説明できなくて、いつもなんか本当に悲しくなる。
しっくりくる恋愛観に出会いたい - 0→1000
2、3日たって、今のわたしのことを大切に思ってくれるひとに話を聞いてもらって、すごくよくわかった。(わからなくなってしまったときに、その「わからなさ」も大切にしてくれる相手に話を聞いてもらうというのはとても大切なこと、自分をいたわる感覚に近い。)
この気持ちは「好き」という世間的な概念をいっぱいまとった言葉では表せない言葉だということ。そして、この気持ちはもう本当にわたしに元気をくれるもの、生きていることがもっともっと嬉しくなって、ただくるくると踊りたくなるような、そんなウキウキをくれる想いなのだ。
ぎゅぎゅぎゅっと表現するなら「氣」という漢字一文字だ。
四方八方に、エネルギーがバーって広がっていく感じ。
日常的に使っているほうの「気」は、しまってるのだ、なにかがね。
だからほんとに「氣」を持つことは、エネルギー源を持つみたい。
そんな氣持ちを相手の姿に抱いてたわけだ。
だから、なんだか「好き」という言葉はしっくりこない。
好きには、あたたかさも感じるけれど、一方でベタベタした感じや、強い枠みたいなものを感じてる。
四角だったら四角、まるだったらまる。
自分から見える形以外のそれは、まるでそこにあってはいけないかのように責められたり、責めてしまったり。
そう、だから、ほんとに。
無理して言葉にしなくていい。
無理して言葉にあてはめなくてもいい。
きっと、たぶん、言葉が少なすぎるのだ。
無数にあるこの感情を、湧き上がる氣持ちを表現するのには、あまりに少なすぎる。
だから、本当はその言葉ではないのに、とりあえず知っている言葉に当てはめて自分の氣持ちを話してしまったとき。
その「言葉」に当てはまりきれなくて、溢れてしまってこぼれてしまった何かが、きっと、その何か分自分から減ってしまって、それでとても悲しかったり、そんなことをしてしまう自分に苛立ってしまったりする。
だから、ほんとに、無理して言葉にしなくていいんだ。
言葉にできるときはきっとくる。
ぴったりの景色とともに。
今はまだ、そのときじゃない。
それって、別に、悪いことじゃない。
何色っていえない色合いみたいな、そんな感じの話だよね。