「なんでそんな風に、生きたいように生きられるの?」
と、聞いてくれたひとがいた。
その顔はちょびっとしんどそうで、わたしはなんだかばつが悪かった。
答えはシンプルだ。
「わたしが、わたしだから」
最近大学を卒業して、改めて大学生活がこれだけ豊かだったのはそれぞれの人との出会いや場と繋げてくれたひとたちのおかげだなと思って、それをよく口にしている。
そうすると、それを伝えた相手のひとが言う。
「あなたは、わたしに出会っていなくても楽しんでいたよ」
「あなたは、わたしに出会っていなくても機会に恵まれていたよ」
そんなことないと思いながら、とっても嬉しい気持ちになる。
こういう「わたしゆえ」のラッキーって、自分の人柄や、愛嬌や(じぶんで言うか)、才能や(じぶんで言おう) 、そういうもろもろのおかげでもある。
でもそれって、自分のコントロール外だ。
だって、人柄も愛嬌も才能もぜんぶ、22年間の人生のおかげで培ったもの。
そしてそうやって耕してもらったのは、自分が望んだ出来事よりも、むしろ苦しくてしんどくてドロドロした経験によってだった。
つまり、したくてしたわけじゃない苦労のおかげで、今の自分の素敵さってあるのだ。
だけど、あなたにはあなたのその年数分の経験がある。
実は、もう必要な経験って全部しきっていたりするものなんじゃないのかと思う。
わたしが生きたいように生きられているのは、自分のことをたくさん観察したので自分のことを良く知っているから、自分について知らないことがあるのを知ってるから、そして、わたしがわたしであるからだ。
わたしがわたしであるというのはとても単純で、何か行動するときの基準が世の中の今ある価値観や、規範や、価値、誰かの視線や、今まで受けた教育による常識とか、そういったものを超えて、自分の直観を信じてあげるということ。
「なんでそんな風に生きられるの?」の答えはとてもシンプル。
「わたしがわたしであるから」
それは、本当は、「あなたも、あなたであるから」が含まれている答えだよ。
あなたは、今のあなたが生きたいように生きている。(はずだ)
だけれども、もし苦しいのなら、たぶん、あなたはあなたについてよく知らないのではないかと思う。もしくは、よく知ったうえでそれに対して、自分の直観ではなく、教えられた知識によって「こっちがいい」という自分を罰しているのではないかと思う。
ほんとは、生きていくのって、しんどいけどけっこうたのしい。(ようである。)
長い間自分の声に蓋をしてると、その蓋の下をみるのはなんだかちょっと、冷蔵庫の中に忘れていたおかずのタッパーをあけるのがこわいのと似てるこわさがある。
だけど、意外と腐ってなかったりするし、腐ってたらちゃんと捨てて、きれいに洗って、乾かしたら大丈夫。
わたしがわたしである、あなたがあなたである。
そういう生き方がいっぱい増えていったら、世の中は勝手にもっともっと住みよくなるんじゃないかと想像して、日々ときめいている22歳6か月のひとりごとでした。
言葉にするのをあきらめず、でも、無理しない。