さて、さっきの「プレゼント」にいれられなかった出来事があった。
尊敬and大好きで、何度も学びとか、きもちが斜め下にさがったあとに上がるきっかけとなったこのブログを書かれている坂爪圭吾さんにお会いできた。
なんていうか、もう包み隠さずいえば、めちゃファンで大好きで「すんげーひと」だと思ってて、あえて嬉しかったのだ。
だけど、そのゆんたく会のなかで「嘘っぽい」と、言うのやめようかなって迷いながらも、その言葉を届けてもらった。
は~~~~~ん。
と思った。
「嘘っぽい」の一言をきっかけに芋づるで出てくるいろいろな記憶。
「天真爛漫ぶってる」「明るいふりをしてる」「目がこわい」「人をバカにしているのを隠してる」などもろもろ。
久しぶりに思い出すなという記憶ばっかしですよ本当に。
やだわ~~と思った。
なんでこんなこと人に言えるんだろうすごいなと思った。
それはなんていうか、すごいことだと、感心している自分もいた。
で、今日も同じようなことを沖縄から移住してしまうということで会いに行った最近知り合った年上のひとにも言われた。
そっか、と思った。
何かこのタイミングで理解するべきことがあって、これは伝えられているんだと直感的によくわかった。
イライラしながら、もやもやしながら、うぇ~って思いながら、「嘘っぽい」という音と向き合う。
裸になりながら、悪態をつきながら、どろどろしているものと対峙してみる。
ちょっとエネルギー足りなくなっておばあちゃんに3ヶ月ぶりに電話をかけたくらいにこれはしんどい。
今も、またよくわからなくなってしまって、でもこれは感じ切りたくてこないだ出会った不思議な愛bonに連絡した。
そしたら、愛bonが坂爪さんに出会ったときのことが書かれたブログを送ってくれた。
そこに書いてある言葉に何か腑に落ちた。
ここと、
・鎧つけてない? 熱海へと向かう車内で、不意に圭吾さんがわたしに放った一言。「なにか壁を感じる」と。「あいぼん素直なときってある?」と。ドキッと刺さったその言葉は、しかしわたしを傷つけるものではなかった。自分でもわかっていたから。圭吾さんさすがだなあと思った。わたしは圭吾さんに「なんかすごいやばいひと(?)」というレッテルを貼り付け、自分と彼の間に境界線を作っていたんだと思う。 圭吾さんは《相手が何と言っているか(言葉)ではなくどんな思いで言っているか(音?)》に耳を傾けると言っていた。表面上の言葉だけでは測り得ないその奥に、その人の本音は眠っている。 この感覚を言語化するのはとても難しいのだけれど《透明で純粋だと感じるなにか(純度の高いもの)》と対峙するとき、無意識のうちに怖さを感じて、とっさに鎧をまとう自分がいるように思う。「自分が壊れてしまうのではないか」というような怖さから自分を守ろうとして、ある種の防衛本能が働くのだろうか。純度の高いものは破壊力があるから(とわたしは思っています)。でも、自分を守ろうとして身につけた鎧が結果的に「自分自身を傷つける」ことになると感じた。
進化とは今までの自分を殺すこと。 - あいぼん哲学
ここだ。
・いいこちゃんでいなくていい 「あいぼんは自分自身に対して無価値感を感じているように感じる」。グサリと刺さるようなこの一言も、わたしはすんなり納得ができた。これも自覚していたのだ。「まだまだそのまんまの自分を愛せていない」と。「愛さなければいけない(愛する必要)」ことはないのに。「価値」なんてどうでもいいのに。「価値があるから愛する」のではなく《「価値がどうだこうだとかそんなことはどうでもいいんだ」と心底腑に落ちたときに「そのまんまの自分をまるごと全部愛せている」》のだろう。 もっと嫌われていいし、場を盛り上げなくていいし、ちゃんと話を聴かなくていいし、無理やり感謝しなくていい。いいことをしようとしなくていい。自分だけを楽しませればいい。自分が楽しませたいのはいつだって自分なんだから。 「がんばってる感がすごいし相当疲れているだろうから、どっかりしっかり休みなよ」 一見冷たく映る圭吾節のシャワー(笑)は、実はめちゃめちゃあたたかい。そのときのわたしには、そして今のわたしにも、全部がありがたい言葉たち。圭吾さん本当にありがとう!!
進化とは今までの自分を殺すこと。 - あいぼん哲学
「循環の輪から外れちゃってる気がするんだよね」
たしかに坂爪さんはそう言ってくれてた。
そう、だ。
なんであのときみんなの前で言うのやだなって思ったかというと、そこはもう終わったことにしている設定だったからだ。
(それもみんなに言っちゃった気がするけど)
わたしはなんていうか。
なんていうか。
うーん・・・・・・・・・・・。
坂爪さんあと何言ってくれてたっけ。
「なんか気持ち悪いな~」だ。
それは、わたしのなかに嘘があったから、だろうと思う。
ああもうやだなぁ。
やなんだもん。
わたしは、なんていうか、もうそこは終わったことにしたい、と思ってたところがあった。
本当は、
ここまで書いて、今、先輩からこう言われた。
「はるなは「生きる」その姿でたくさん周りの人にはるなしか与えられないものプレゼントしてると思うな。私もはるなの「生きる」姿にたくさんもらったものあるよ。言わないけど。だからさー、そのまま「生きて」てよ。」
「はるなの、いろんな人におごってもらえたり助けられたりとかって別に才能じゃないかも、はるなの「生きる」姿からもらったたくさんの物を、たくさんの人が形として返しているだけじゃないかなぁと書いてて思った。「才能」って言葉のほうがかっこいいけどね。」
ずっとでなかった涙がば~~って出た。
こわい、と思っている。
愛され始めている自分にびびっている。
そして、ひとを思うように愛せない自分とどう付き合えばいいかわからなくて戸惑っている。
わたし「なんか」を愛してくれるひとに何かを返さなきゃ。
そういうことだった。
わたし「なんか」だった。
今、ひとから「生きて」と言われただけで、こんなに溢れてくる涙は、あの日、あのときに「死にたい」と言った自分を癒す。
もう終わったことにしたかった。
そのほうがいっぱいのひとの役に立てる気がしたから。
死にたくて、寂しくて、そういう自分は嫌だった。
そこを思い出すと、またお仕事でおおきな失敗をして、もっと嫌いな自分になりそうで嫌だった。
もう、自分のそういう空っぽなところを人に見せて、そこを「愛そう」としてくれる男の人と会いたくなかった。
そのひとたちを「男の人」として求めていないことをうまく表せなかった。
だから、心だけじゃなく、身体も傷ついた。
わたしは病気じゃないし、強いし、未来に向かって歩いて今を生きていて、だから「大丈夫だ」ということにしたかった。
この世に存在している理由があるのだと、あの日言われた言葉に、大きく自分の方に伸びた影に向かって叫んでいた。
もういつまでもそこにいるなと諭してくれた新しくできた家族に顔向けできる自分でいたかった。
うーん。
そう、だから、結局は人生のぱいせんである愛bonが言ってるこの言葉がそのままそうなんだ。
「あいぼんは自分自身に対して無価値感を感じているように感じる」。グサリと刺さるようなこの一言も、わたしはすんなり納得ができた。これも自覚していたのだ。「まだまだそのまんまの自分を愛せていない」と。「愛さなければいけない(愛する必要)」ことはないのに。「価値」なんてどうでもいいのに。「価値があるから愛する」のではなく《「価値がどうだこうだとかそんなことはどうでもいいんだ」と心底腑に落ちたときに「そのまんまの自分をまるごと全部愛せている」》のだろう。
進化とは今までの自分を殺すこと。 - あいぼん哲学
ひとの言葉を借りて自分のきもちを説明するなんて、最高にださいけど。
そういう気持ちだ。
死にたいと思う、生きていたくないと思う。
こんな世界くそくらえと思う、男も女も嫌いだと思う。
「母親」という存在にも「父親」という存在にも心のなかで中指を立てている。
血の繋がりも、血の繋がらない繋がりも、全部を憎んでいる自分がどこかにいる。
だけど、そんな世界で生きていくために、わたし「なんか」が必要だった。
なんだろう。
うまくいえないけど、そうだった。
だけど、ここ最近の出来事や、お仕事や、出会うひとたちのおかげで、ああおそらくわたしの0~20歳までの間の人生の意味はそこにあったんだろうなと思うことがよくあった。
別に被害者ぶるわけでもなく、ただ淡々とそう思った。
まださー、気づいたからといって、嘘を一瞬でなくせるわけでも、自分「なんか」をどうするかもぜ~んぜんわからないんだけど。
だけど、このわたしのまんま、今の日高春奈のまんまで、生きようと思う。
そのまま。
そのまま裸のままで。
そのままで今できることをしよう、そして、できないことを喜ぼう。
ひとに助けてもらう自分を責めずに歩こう。
なんていうか、もう、無理に言葉にすることも、無理に在るのもやめよう。
うまくいえないんだけど、わいてくるありがとうは、本当のありがとうだと、たぶん思う。
坂爪さんのゆんたく会のあと、帰りの車のなかで送ってくれたゆる猫サロンのえくちゃんが「坂爪さんに爪痕をのこされたね笑」と言ってたのを今思い出した。
憎しみと同じ量だけ、わたしのなかには愛がある。
それを、それは嘘じゃない。
わかったふりもしない、わからないふりもしない。
まっすぐ生きよう。
もう、わたし「なんか」をやめよう。
ほいで、たいしたことないやつでもいいやを始め、すごいやつだを始めるよ。
すぐにはやめられないかもしれんけど、でも、たぶん明日から何かが変わるんだろうなぁと、そういうことを思った。
坂爪さん、愛ぼん、ありがとうって思った。
出会いをつくってくれたいろんな偶然にもいろいろ思った。