まだまどろみのなかにいるような気がする。
誰かのためにではなく、自分のためにこれを書いている。
笑っちゃうくらい、という形容詞がとても好きで、そんな毎日を過ごしてる。
眠る前の気持ち良さのような、そんなにおいのするひとと、わたしのことをよくわかる冗談抜きで聖母みたいなひとだなと思ってるひとと、美味しいコーヒーとケーキをいただいた。
(わたしはカフェラテ飲んだ。)
忘れたくなくて、記憶が身体からすり抜けていくのが嫌で、パソコンを開いて文を打ちはじめた。
書き留めたところで忘れてしまう。
でも、忘れたくないという自分の気持ちも尊重したい。
いくつか大切な言葉があった。
ひとつめは「言葉にしなくてもいい」ということ。
たぶん、あのときは「話さなくていいんじゃない?」という言葉で伝えられた。
ほっとして身体が緩むのを感じて、なんだかすごく眠たくなった。
もうひとつは「名刺から会話をスタートする」ということ。
会話のきっかけをたくさん名刺にくっつけておいて、会話の糸口をつくりだす。
それってなんだかとてもエンターテイナーだと思った。
次に大切だと思ったのは、歯車の話。
島田紳助さんの話を教えてもらった。
左手の5本が「努力」、右手の5本が「才能」。
どちらか片方だけでもだめ、すかるべく努力と、それとフィットする才能と。
でも、この話で心が揺れたのは「この努力はこのターンが終わっても、自分を助けてくれるはずだ」というそのひとの力強さだった。
目も、言葉も、身体も、なんだかすごくしなやかな強さを持ったひとだと思った。
そして、次に大切だと思った話は、「きもちわるい」という表現。
なんでも来るもの拒まずにやっていくことはできるけど、大切にするべき軸がずれたとき「きもちわるい」と感じる。
そういう話だった。
すごく共感した、一種の「我」のような、世界の流れとは異なる自分の意地や、我、わたしだけしか幸福にならないものなんて、結局はわたしも幸福にならない、それと似てると思った。
帰りの車のなかで、雲のかたちをいろいろなものにたとえ笑った。
わたしから見えるそれと、隣にいるひとの見ているそれは違う。
当たり前なのに、その当たり前が面白くて笑ってしまった。
車の中もまだまどろみのなかだったわけだけれども、流してくれたJIMAMAというひとの歌がこれまた最高によかった。
(そのCDをラオスにおいてきたという話もすごくなんていうかよかった。)
「すこし寝そべって地球に甘えてみたら」
その言葉が身体を通り抜け心を揺らし、わたしのなかの水を綺麗にしてくれたような気がする。
最近「こうありたい」と在りたさをみせてくれるひとは男のひとが多い。
そんな不思議さもありつつ、女の人たちが仕事について書いたエッセイ集をお店でぱらぱらと読んだ、あれもよかった。
これは多くの人に読んでほしい。
決まった結婚の形なんてない。
結婚してからずっとすみかも別、通帳も別にしているという話がそこには書かれてた。
なんだかすごく、ぐっときた。
なんでその本を読み進めたかというと、最初のほうに書いてあった言葉がすごく素敵だったからだ。
「もし、決められた価値観や、生まれたときにはすでにあった競争がなかったら、わたしたちは自分の容姿や能力、生き方について悩むことがなかったんだろうか」
わたしはもっと美しかったらよかったのにと思うときがある。
もっと綺麗に笑えたらいいのにと思いながら口元を隠すときがある。
もっとスマートな声だったらいいのにと、話すのをやめてしまうときがある。
もっともっと身体を扱うのが得意だったらと、練習すら嫌気がさす時がある。
そんなの、みんなある。
それをくぐりぬけ、自分と向き合い「はたらく」姿をその本から感じて、なんだかすごくふわっとした。
それらの言葉と、今日もらったこのまどろみとがくるくるとくっついて、私を包んでいるような気がする。
「大丈夫だよ」
そういうことを伝えられている気がする。
今日も明日も誰かの優しさをたべて生きる。
わたしも誰かに何かをあげたい。