今日の午前中は社会学の講義があった。
社会ってなんだろう。
文化ってなんだろう。
規律って?規範って?
、というようなことを考える講義。
大学を卒業する前に、あの先生の講義はとっといたほうがいいよと先輩に勧められて受講を決めた。
今日の講義の内容は「社会を構造的にみる」という話。
社会の構造は、時代的な分析と、地域的な分析ができる。
時代というのは「前近代」「近代」「ポスト近代」「現代」というような区分け。
前近代では、封建社会でイエ制度(家父長制ともいうね)、百姓がいて、、、みたいな感じ。近代は、これががらっと産業革命によって変わって、消費の時代。個人主義だったりナショナリズムもこの頃ぐわわと発達した。
ポスト近代だとか現代だとかのくくりは人によって違う。
でも「現代」の持つ特徴として「製造からサービスへ」という変化があるとされてる。一方で、核家族化や、少子高齢化みたいな面もある。
でね、大事なのはこういう知識の話だけじゃないっていうのを教えてくれるのがこの講義のすっごく良いところであり、社会学の素晴らしいところだと思ってる。
時代の区分けの話は、世の中の様子や、良きとされた価値観がどのように移り変わっているかをよく教えてくれる。
自分が社会に対して感じる違和感はいつから始まっているのか、その背景には何があったのかっていうのを理解するための手段のとして、学習は本当に効果的だと思う。
たとえば、基地問題についてだって、第二次世界大戦の話があって、戦後の沖縄があって日本があって、そういうものの果てに今の沖縄の抱えているものがある。
これを知ってるか知らないかで「自分にはどうすることもできない問題」と「自分でなんとかできるかもしれない問題」をまず選択できる。
問題をちっちゃく切って対応していくことができる。
巨大な山(選挙や日常的な消費行動だけではどうにもできない社会の構造)を前にするともう何もできない気がしてきちゃうけど、その山もちっこくしていけば、「選挙」や「日常的な消費行動」でなんとかできる内容だったりするんだよね。
(っていうか、それをしないことには始まらないっていうかね。)
(一番小さな塊は、考えること、知ろうとすること、だと思ってる。)
話がそれちゃったかな。
で、先生が言った言葉のなかで、いや~本当にそれだ!と思った素敵な言葉があって。
言葉は違うかもしれないけど、二つ書き残しておきたい。
「属人的な批判ではなく、社会学的な批判ができることの大切さは個人責任論から抜け出す道につながる。その道を歩くことは自分自身が個人責任論によって罰されることから守ってくれる。」
「ここにいる学生みんなが「達成」できること、しかも自分のできる「達成」をしきれるようにと強く願う。それは「業績」になる。でも、自分がなぜ「達成」ができたのかを見つめる視点も持って欲しい。それはどこかで「業績」があったからに他ならない。この視点を忘れた時、陥るのが「個人責任論」になるから。」
個人責任論って簡単に言っちゃえば「なんでできないの、頑張ってないからでしょう、もっと頑張りなさいよ!」っていうこと。
「あなた」を理解していないのに、同列のものと捉え批判をすること。
「あなた」のなかにその状況の責任が全てあると判断し、本当は「社会」の問題かもしれないこと、それに向き合い改善することが社会を良くすることにつながるかもしれないのに、それを放棄すること。
そして、個人責任論に基づいて批判をするとき、発信者は「マジョリティー」に自分を属させるという面もあるよね。
「わたしは(みんなは)できるのに、なぜあなたはできないのか。努力が足りない、頑張りが足りない。怠けるな」という批判は、実はすごい暴力的だ。
個人責任論は、誰かを簡単に殺してしまう。
そういう考え方だなと、そして簡単に選んでしまえる手段だなと、この考え事をしているときいつも思って、しんどさを感じる。
「個人責任論」がなぜしんどいのか。
なぜ先生がこれだけ気づいて欲しいと呼びかけるのか。
あの教室にいたほかの学生はどんな風に受け取ったんだろうなと、一番後ろの席に座っていたのもあって、なんだか考えてしまったお昼すぎだった。
みんなと話してみたいなぁ。
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