子どもは、もういっちょまえの人間なのに、人間として扱われないことがときどきあるので、見ていてときどき不憫に思う。
昔は、逆で、もちろん今もこの瞬間も地球のどこかでそういう子どももいるんだろうけれど、昔は、労働の担い手だった子ども。
ひとつの労働力として数えられていた子ども。
「子供服」の誕生と、今の「子ども観」は密接に結びついていて、それはとても面白い。
何が面白いかって、子どもを労働力、家庭のなかでの資本としてではなく、愛でる対象へと設定を入れ替えた。
昔、労働力だった頃の親子関係というのはどういうものだったんだろう。
わたしは、想像することしかできないけれど、もっとサバサバとしていたんじゃないかと思う。
今よりもよっぽど理不尽の多かった時代、もっともっと「仕方がない」と割り切ることは、ある意味で簡単だたんじゃないかと推測する。
「子どもが好きだ」
というひとが苦手だ、とても苦手だ。
「犬が好きだ」
まあわかる。
「猫が好きだ」
これもまあわかる。
でも、これが「子どもが好きだ」になると、なんだか違和感がある。
子どもってなんだ。
何歳から何歳まで、どんな性格でも好き?
やんちゃでも、ませてても、返事全然しなくても好き?
子どもが好きだから、いつか子どもが産みたい、という女の人がとても苦手だ。
子どもが好きだから、いつか子どもを育てたい、という男の人もとても苦手だ。
もしかしたら、試行錯誤しながら良い家族になるのかもしれないけれど、てん、てん、てん。
子どもと大人に差はあまりない。
大人は、少しだけ賢くなっただけの子どもなんじゃーないかと思うときもある。
「子どもが好きだ」
その言葉に違和感を持つのは、別にいいことでも悪いことでもない。
ただ、なんとなく、苦手な言葉は、わたしをうまく説明するなと思う。
「子どもが好きだ」
そういう言葉をつかうひとで、子どもと友達になっているひとを見たことがない。
親になったら変わるんだろうか。
なにか、わかるんだろうか。
もちろん、全部の大人が子どもと友達になったら、ネバーランドみたいになって、大変かもしれない。
ので、「子どもが好きだ」のひともいてちょうどいいのかもしれない。
でもまあ、わたしはあんまり「子どもが好きだ」という言葉が好きじゃない。
あの子も、彼も、彼女も、みんな大好きで、なにかあったらすぐに飛んでいくけれど、でも、それは彼らが「子ども」だからではない。
一生懸命に生きてるからだ、と思う。
赤ちゃんも、2歳も、6歳も変わらない。
みんな一生懸命に、毎日新しいことができるようになることを喜び、ときどきこの世の仕組みとぶつかり泣く。
一緒にいてめんどくさいこともいろいろあるけど、でも、ほんとに、やっぱり、一緒にいて楽しい。
それは「子ども」だからではない。

概説 子ども観の社会史: ヨーロッパとアメリカからみた教育・福祉・国家
- 作者: ヒューカニンガム,Hugh Cunningham,北本正章
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