何かに熱中すること、それはとてもかっこいい。
そんな簡単な一文にまとめられないんだけど、でもまとめてしまえと思うような感情がいっぱいいっぱい湧いた舞台だった。
なんで住んでいる場所からちょっと遠い場所に、大切なお金をお渡しして、舞台を見るんだろう。
単純に好きだからだ。
お金をわたすとき、どんなときでもわたしはたぶん「好き」を循環させたくて渡してる。
ひとつの表現方法だ。
琉大祭を思い出すのもある。
なんていうか、本当はたぶん、思い出したくて見ているのかもしれない。
真剣にお客さんの前で演技をすること。
よろこんでもらうこと。
そういう体験を思い出して、何を感じたいんだろう。
目の前で真剣に演じるひとを見ながら、わたしは一体どうしたいんだろう。
いっぱい考えていた。
舞台を見ているとき、いちいち驚く。
大きな声をあげ表現をする役者さんに、暗くなったり明るくなったりを繰り返す照明に。
いちいち驚きながら、いちいち感動する。
そのひとつひとつに一種の覚悟を感じるからだろうと思う。
演じずにはいられない。
めちゃくちゃ毎日悩んでても、それはさておき演じずにはいられない。
たぶん、そういう衝動的なものなんだろうと思う。
わたしは、それを感じたくて、その衝動を目の前に取り出してほしくて舞台を見るんだろうと思った。
舞台を見ている間、一観客でしかない自分は、たいして重要な存在ではなく感じる。
映画を見ているときもだ。
そういうのも、ちょっと好きだ。
役者さんひとりひとり演じているものは違うのに、その全ての役の要素が自分のなかにあるように思えて、なんだか可笑しくなってしまう。
「バカで、役立たずだから」
そう繰り返す姿に、なんでかわからないけど涙がでた。
ああ、同じような思いが、ずっと自分のなかにもあったんだなぁと、ちょびっとびっくりした。
要領が悪く鈍臭い。
空気が読めなくて、いらないことを言う。
わからなさすぎて一周回った行動を取ってしまう。
そういう自分のこと、大嫌いで、恥ずかしくて、ないものにしようしようとしていたなぁと。
でも、みんな、そういう自分のことを大切にしてくれているんだよなぁと、そこまで気づいて、なんだかちょっと、自分のなかのあの役のひとに「ごめんね」をした。
まあ、そういう自己受容のときでもあった。
小劇場って不思議な場所だと思う。
あの身内感は苦手だなぁというのも正直なところ。
でも、あれがなかったら小劇場でもないのかもしれない。
街のなかにおけるひとつのメディアなんだろうな、と考えてた。
それにしてもハンサムなひとはいいなぁと思う。
ハンサムというのはいいな~と思う。
わたしもハンサムでありたい、もう少しこぎれいな格好をしようかと考えつつゆいレールに乗ってた。
まあでも、帰る頃にはどちらでもよいかという気分に落ち着いていたんだけど。
何を書いておきたくなったのか忘れてしまったけど、、、
自分のなかの「とはいえ、やらずにはいられない」衝動を大事に大事に年をとれたらいいと、そういうことを思う日だった。
いい日曜日だった。
ゆるやかなつながりに感謝しつつ、最後までおなかいっぱい。
よい日曜日だった。
ちょっと、ラートをしたくなる日だった。