わたしにはできないこと。
わたしにはできること。
わたしは、合理的に考えて感情を隠し、見たままのことを写実的に誰かに伝えたり、マーケティングや様々な技術を効果的に用いることはできない。
わたしは、心のままに明るく暗く心地よい生活を送ることや、ひとのなか自分を隠さずありのままに生きていくことができる。
できること、できないこと。
どちらにも意味がある。
電話が苦手、連絡をすぐ返せない、オンラインのコミュニケーションよりもオフラインのコミュニケーションの方が得意で重要。
音楽を奏でているとき歌うとき色に触れているとき、誰かを抱きしめるとき撫でるとき。
自分の能力が一番きらきらと輝くときを知っているわたしは強いなぁと思う。
同時に、とても弱いなぁとも思う。
できないことがどんどん増えている。
嘘をつくこと、本音と違う行動をすること、嫌なのにその場所に出向くこと、人に頼まれたことを嫌だけど引き受ける事。
それは「いい」「わるい」のラインで見ると、いいこともあればわるいこともいっぱいある。
でも、これらのことっていうのはそのラインで見る考え事じゃない。
あえて言語化するなら「心地よい」「嫌だ」の二つ。
自分の感じ方は自分だけのもの。
大げさにいえば、すべてのものが何かによって与えられ誰かや何かに支えられているこの世界のなかで、本当の意味で自分のものだといえるのは「感じ方」だけなんじゃないかとさえ思う。
感じ方は言い換えられる。
解釈、捉え方、めがね、とかかな。
わたしがどう現実をみているか。
その「見方」が現実であって、事実なんてものはどこにもないんじゃ~ないか、ということを日々実感中。
あのひとのそれも、このひとのあれも、ぜ~んぶ「わたし」を通して見てること。
不幸そうにみえるひとも幸せそうに見えるひとも、「どう見えているか」というヒントをくれているだけ。
恐ろしい事件も、悲しい出来事も、楽しい話も、面白い映像も、全部「どう感じるか」を通して、今の自分を教えてくれているだけ。
だからそれでいい。
そして、その「見え方」を否定することもしなくていい。
見え方を見え方として受け止めること。
そういう解釈の「くせ」のある自分を知る事。
それを繰り返し繰り返し、今の自分になる。
今の自分は心地良い。
より気持ちの良い生き方をする。
その目的はまだわからないけど、でも、その生き方の実践は面白い。
面白いからやめられないんだーこれが。
するめ的な。