どんな言葉が正確なのかまだわからないのだけれども寝付けなくて、頭のなかにはそれがあって、考えると少し泣きたくなったのでとりあえず文章に起こしてみようと思って今書き始めた。
こうやって文章にそれを変換できること、そしてそれを誰かに読んでもらって、その人の視点からこの考え事に対する一つの解をもらえること。
それはある種の救いだなと思う。
私は単純に彼が傷ついたことが悲しかったのと、私の発言は同じように彼を傷つけただろうかと思い出しただけだった。
そして、その話題の発端が、自分が関わりをかつて深く持ち、今でも尊敬するひとが多くいる場であることが少し悲しかった。
それを直接伝える勇気のない自分の不甲斐なさももちろん情けない。
それでも、今の自分の気持ちを整理し、毎日ブログを読んでくれている100人のひとは何を考えるだろうと、そう思って書くことにした。
この記事は誰かを批判したくて書いたような大層なものではない。
こういうことがあったんだという話をするような気持ちで書いている。
話題自体を簡単に説明すると、SNSに投稿された一つのアンケートの話。
「彼氏・彼女」をつくることを大学入学後のひとつの「夢」として「わくわく」している新入生に紹介することを目的に、県内大学生に向けて「女性は男性に連れて行ってもらいたい」「男性は女性を連れていきたい」お店についての情報を収集するためのアンケート。
そのアンケートフォームへの誘導の入口自体が「男性」はこちら、「女性」はこちらと書かれていたこと。
ここまでで、まず何かを感じたひとはどれくらいだろう。
この内容について腹が立ったという反応に対して「なぜ腹が立つのか」という質問も出た、ということもあわせて聞いた。
別に正しい正解があるわけではないけれど、まず一つのステレオタイプ「男性が女性を誘導し、女性はそれについていく」が書かれていること。「男性と女性の恋愛」が当たり前とされていること。そして、「男性」「女性」以外の性の選択肢はないこと。「恋愛」が「わくわくの対象である」というステレオタイプも隠されている。
ここまでで、めんどくささを感じたひとがどれくらいいるんだろう。
はいはい、多様性多様性。
みんな違ってみんないいじゃん。たまたまこの投稿がこういう書き方だっただけで、いちいち目くじら立てなくてもいいんじゃない?暇なの?
反応するってことはそれがコンプレックスなんでしょ?まだ乗り越えられていないんでしょ?自分の問題じゃん。
そんなこと思うひとに出会ったこともある。
「めんどくさい」
それは誰目線で出てきた言葉で、どんな経験をしてきた人の言葉で、どんな思考を経て口から発されたんだろう。
なぜこういうことを考えることが「めんどくさい」んだろう。
この文章について誰も疑問符をうたなかったんだろうか。
どうして女性が男性についていくの?なぜ男性は女性をエスコートするの?女性と男性しかいないの?恋愛ってそんなにいいもの?
くだらない話と思うかな。めんどくさいと言われるかな。
読んだひとの気持ちを考えて、という種類の思いではない思いが自分のなかにある。
これはなんだろう。
正義感ではない、正しさの剣を振りたいのではない、なんだろう。
瞬間的に腹が立ったと話してくれたひとの「腹が立つ」というのは、単純にマイノリティーが排除されているという点にだけ怒りを覚えているのではなく、それが批判の対象にもなっていないことや、これらの文章が出てくる思考の構造についての怒りなんじゃないかと思う。
私は、ただ、びっくりして呆れてしまって、そのあととても悲しくなるという順番で気持ちが動いた。
みんな、誰しも、特別で。
特別ではないひとはいない。
それぞれの経験に大きさも小ささもない。
苦しみも喜びも比較できるものではない。
だからこそ、それぞれの人生は特別で。
だからこそ、たくさんの人と生きていける面白さがある。
その特別さをかき消してしまうような大きな手。
それが効率化、平準化、一律化、「均等に、平等に、より豊かに」
これ以上どう豊かに?
誰に何を伝えたくてこれを書いてるんだろう。
意味はないんだろう。
でも、悲しいというペラペラの言葉では表せない、静かな悲しさがどうしようもなく。
どうしたらいいんだろう。
「自分にできることをしていくまでだ」と言った強さに改めて惚れなおす。
私のできることはなんだろう。
何気ないひとつの広告が「世間」をつくる。
その「世間」はやがて誰かを傷つけ、傷ついた誰かは居場所をなくす。
居場所をなくした誰かは、居場所をなくした誰かはどこに。
ひとは誰しも特別で、マイノリティーではないひとなんて一人もいない。
みんな何かしらのマジョリティーに属していて、でもその一方で確実に誰にも理解してもらえないような何かを持っている。
持っていないようにみえるあなたも、持っている。
そのひとだけの座標で、そのひとだけの視点で、そのひとの人生を生き抜くというのはそういうことだ。
そこにいることを、どこにでもいることを忘れることは、ここにいることを無視することは「排除」だということを、どういえばうまく伝えられるだろうか。
あなたもそうであることに気づいてもらうには、どんな文章を書けばいいんだろうか。
説き伏せたいわけじゃない。
「一切禁止」をしたいわけじゃない。
そうじゃない。
ただ気に留めていてほしい。
あなたが傷つけた誰かは私にとってとても大切な人で、あなたのつくる「世間」はそのひとにとって私にとっては「社会」で。
その「社会」なしでは誰も生きられないということを、少しどこかに気に留めていてほしい。
「理解」や「受容」なんてほしくない。
「寄り添う」や「同等の」もほしくない。
当たり前にしたい。
違いがあることを、違っていいのだということを当たり前にしたい。
何がこんなに悲しいのか自分でもよくわからない。
でも、きっとそれは、自分が同じようにしてきた軽はずみな一言が、自分が当たり前にしてきた行動が、ゆるやかに誰かの首を絞め誰かを殺してしまったんだろうということへの後悔や、大好きな友人たちの声や、「当たり前」がこなせない日常の自分の感じているささいなことが積み重なった何かが喉につかえているだけのこと。
先天的な何かに生き方が規定される時代はもう終わったのだ。
構造によって生き方が規定される時代も、もう終わりにしよう。
構造は変えられる。
ひとりひとりの用いる言葉が、思考が、行動が変われば、構造は変わる。
誰にとっても生きやすく、競争ではなく、共に創る社会はつくれるはず。
もう、こんなのは終わりにしたい。
「めんどくさい」を除いて行って、できるだけの効率化をし、より大きな利潤を求めていったその先には一体何があるんだろう。
「別にいいじゃん」「そんなの気にするほうに問題があるんじゃない?」「「配慮」しないといけないわけ?」「私は・僕は「理解」しているから」
本当に?
「みんな違ってみんないい」
その言葉は、思考なしに用いられていい言葉じゃない。
自分とは、他者とは、社会とは。
それらに対しての思考の先にあるもの。
こんな文章意味がない。
本当に意味がない。
たぶん誰にも届かない。
でも、自分はそう生きる。ただそう決めるだけ。
私は、日高春奈として、自分の考える人生を、自分の考える性を、自分の考えるパートナーシップを、自分の考える仕事を、自分の考えて生きていくだけ。
「生きたい社会はつくれる」
「生きやすさは自分で生み出せる」
本当の意味での多様性は、もっともっと深い。
今うたわれている「多様性」は、ほんとに薄っぺらいものでしかない。
なぜ。
読んでくれてありがとう。
すべてはグラデーション、そして流動的。