今自分が感じていること
考えてること
こうやって書いていること
全部「なんとなく」それがしたくて
つい書かずにはいられなくて
全然計画的ではない発信だし
これはブランディングでもなんでもない
たとえるなら素っ裸で街を歩くくらいの
いやまだ下着はつけてるぐらいかな
そんな自己開示をしてる
自己開示というのは大げさかもしれない
ただ、たらたらと書いている
はじまりは「1000記事書いたら奇跡が起こるよ」っていう不思議な言葉だった
それを伝えてくれたのは、別に長年お付き合いをしている人生の師匠でも、かめかめ波を教えてくれるえろい仙人でもない
イベントでふらっと出会った鹿児島県のダンディなおじさまだった
私は出会って数十時間、それまでの会話もちょぼりちょぼりというレベルのそのひとの言葉が、自分の身体にすーっとなじむのを感じた
なじんでしまったら「信じる?信じない?」の脳内会議も行われない
なじむというのは、まっさらな麻に絵の具をたらしてそれがふわふわふわふわふわと波紋のようにひろがりつつ染めていくような、そんなイメージの言葉だ
なじむというのは、信じてしまうことだ
それから何の苦労もなくこのブログを書き重ねている
気づけばアフィリエイトも順調で、半年間で10万円もの経済を動かすほどになっていた
すげえな
(稼いだ、とは書いていない)
そう、でも
「1000記事書いたら奇跡が起きるよ」
だなんて嘘かもしれないんだ
そんなのは1000記事書いたひとにしかわからない
そして、そのひとのおかれている環境、つまり実験でいうところの「条件」は、この世に生きている限り、全く同じになることはありえない
だから「あのひとだからでしょ」というひがみが生まれる
つまり、「1000記事書いて奇跡が起きたのはあなたがもともとすごかったでしょ」と言えてしまう
何が言いたいかって
「1000記事書いたって奇跡なんて起きやしないよ」
というのもありうるということ
そして、それでいいと思っていること
なんなら、このブログが就職に不利になろうと、周りのひとからドン引きされようと、それさえもどうでもいいと思ってる
考え方がなじんでしまうということは、言葉にできないそれを言葉にできるひとに出会うのを待っていたということだ
私はただ、私の中にずっとあった「書きたい」「伝えたい」「言いたい」を肯定してほしかったんだと思う
そして、今
書いているのが楽しい
誰かに読まれるのが楽しい
反応をいただくのが楽しい
お金が動くのも楽しい
それでいいんだ
だから「1000記事書いたら奇跡が起きるよ」なんてなんで信じてるのばっかじゃないの頭おかしいなおい
と言われようと頭からバケツで水かけられようと
しゃんとしてればいいんだよ
あなたが信じたそれを
あなたが信じぬいていけば
それでいいんだよ
、、、ということを今日習った
今日ならったんかーい!とツッコミいれつつ
(自分に自分でハリセンね)
それを教えてくれたのはここ
まあ写真失敗しちゃって意味わからないだろうけど「アメナルミチ」という新しく見つけた自分の居場所
(気になったなら検索してよね)
この素敵な場所をつくってくれたあやこさんというひと
今日書いた話は全部↓の問答からわかったことだ
時々、自分の感じていること、選んでいること、話すこと、すべてが嘘なんじゃないかと思うときがある
そしてそれをいわゆる霊能力者とか、すごい成功してていろいろわかっちゃうひとに見破られるのがこわい
というのが質問
いや本当にこれを考えると私の膝は生まれたての小鹿になるぷるぷる
これに対するあやこさんの答えはさながら武士だった
最高、超かっこいい、シャキーンと教えてくれた
「そっちが嘘だ!」
「あたしはこれを信じてる!」
「だって幸せだもん!」
って言い返せばいいんだよ
、、、♡
わーいまじかよーう!
一瞬でそれがなじんでいくのを感じた
言葉は波動だ
あやこさんの言葉に揺らされながら、それがなじんでいく様子が心地よかった
嘘でもいい
今、私が幸せならそれでいい
これ「1000記事書いたら」の言葉を、信じたいのに信じきれない何かに置き換えて読んでくれるといいのかもね
とか言って
あなたが幸せでいること以上に必要なことは何もない
私が幸せ以上に重要なことは何もない
その上にすべてが積みあがっていく
失敗だらけだけどゆっくり進もう
ときどき慌てて走りながら
それでも何もしないで部屋のなかで泣いてるよりはましだから
部屋の外は、優しいひとだらけだったから
そしてまた疲れたら引きこもりに戻ればいい
あなたがあなたでいる以上に何も大切なことはない
私が私でいる以上に何も大切なことはない
信じていいんだよ、自分のこと
もっとね