イラっとすることや、もやもやすること、嫌いなことには本当に「好き」へのヒントが隠れているなと思います
ほんとにね
明確な「好き」だけではなく、ぼやぼやとした「好き」もある
そのぼやぼやとした「好き」の形をハッキリと見させてくれるのが「嫌い」に含まれるようなネガティブなものたちです
たとえば、このブログを日記といわれるとき、気持ちがちくっとします
「日記」の持つ言葉の意味は人それぞれですから、別に誰も悪気があって言ってるわけじゃない
でもその「日記」に反応している自分がいる
そこから考えてみると、「ああ自分はこのブログを日記として書いてないんだ」ということがよくわかります
タイトルにあるように1000記事までの過程であって、1000日間の記録ではないわけです
そして、その違いにはハッキリとした区別があり意味があると捉えている、その自分は自分らしいなと思うわけです
また、その違いというのは自分だけがはっきりとわかっていればいいことなので、特にそれを言うひとが嫌いだとかそういうことではありません
自分がつくったツールではないのに、それを使って何かを組み立てているような発信の仕方も嫌いです
でもそこには「自分ひとりで何もかもちゃんとしたい」という自分の幼さも隠れている気がします
そして、そういった要素を含む発信にはたいてい「自分はこんな風に決めつけられたくない!」というような内容が書かれています
そこでやっぱり自分は自由でありたい、自分らしくありたい、自分というものを大切にしたいという「自分」と出会うんです
遠まわしに誰かへのメッセージを書くようなものも嫌い
それなら個人名を出すか、メッセージで直接送ればいいのにって思いながら読んでしまいます
そこには「誠実」でありたいという自分の気持ちが隠れているし、一方で「正義感(自分の)」が強すぎるという側面も見え隠れします
これらのことは「嫌いだからしないでください」という意図で書いたものではなく、ひとの行動によって動く気持ちが自分についてはっきりさせてくれるのってすごいしありがたいなという気持ちで書いています
つまり「嫌い」をくれる他人は宝物というか、自分の人生を生きる上で大切な道しるべです
そう、だから「嫌い」はすごく大事
だいたいそういうものは一目で、一回聞いただけで「嫌い」がでてくる
そしてその強烈な嫌いは意識していなかった「好き」を再認識させてくれるわけです
一度「嫌い」を見つけてから再構築される「好き」ほど強固なものはありません
頑丈です、裏付けがあるから自信も持てます
「好き」を説明するには「嫌い」が手っ取り早いんです、とっても
バズらせるならこういうタイトルなほうがいいよ、とアドバイスをいただくこともあるけれど、バズらせることを目的にしたらずれてしまう
このブログを主の収入源にしたいと考えていない今それは、自分にとってとても悪影響を及ぼしてしまうこと
毎日素直にその日に感じたことから発生する考え事を文章にしてアウトプットしていくことで、私の体の中はすっきりとするし、頭の中もスッキリとする
出会わなければならないひとにこのブログを窓口にして出会えることもある
それに、「主」の収入源ではないだけで、このブログは本を買ってくださる皆さんや、アクセスしてくださる皆さんのおかげでりっぱな収入源になっています
加えて言えば、他のお仕事を連れてきてくれる呼び水的な、なんかそういう役割も果たしてくれています
それでいい、今は
これからどんどん進化していくのも楽しみですが、今はこれが居心地いい
自分の経験
自分の感情
自分の気持ち
自分の価値観
そういったものをしっかりぎゅーっと抱きしめて、大切にする
それができると、なぜか人のそれについても大切にできる
「嫌い」というのは私の中のことであって、わざわざ伝えにいく必要ないから、それで相手が傷つくこともない
(わざわざ伝えてくれるひとに関しては、なんかもうほっとくしかないし、傷つくんだということをアピールするのもありと思うほんと・・・ほんと・・・・・・)
そう、自分を生きていると、ひとの人生が気にならなくなる
半年前は言われてもわからなかったその言葉の意味が今ならわかるような気がします
そしてそれがしっかりと根付いた今はとても生きるのが、毎日息をすることがなんだか楽ちんだなとホッとする、それが今の等身大な私のようです
読んでくださってありがとうございます
あなたの「好き」がさらに輝き
あなたの「嫌い」がその好きの形をはっきりとさせるのを
私は応援しています
「嫌い」って思っちゃダメってそんなことないんだよという気持ちを、半年前の自分に伝えたいな
大丈夫、いっぱい嫌いになれ~~
その分たくさんの「好き」に出会えるから、大丈夫
そのまま