佐々木ののかさんのこれを読んだ。
自分も少し色の違う似たような経験がいくつかあって。
なんで途中でやめてって言えなかったんだろう、とか。
すごく嫌で気持ち悪かったのに、逃げられなかったんだろう、とか。
そして、どのエピソードも、信頼している女性たちからは「つらかったね、悲しかったね、悪いのはあなたじゃないよ、わかるよ」と言ってもらえるのに。
どうしてだか信頼している男性たちからは「どうして嫌なのにそんなところいったの?声をあげなかったの?あなたにも原因があるんじゃない?」、と二言目には言われて、すごく悲しい気持ちになったのをよく覚えている。
悲しいというのは正確じゃない、冷める感じ。すーっとね。
時代は人工知能や、ITで、本当にどんどん自由になっていくのに、セックスや性に関する話は未だに日本では「恥ずかしい」ことのまま。
明らかなレイプではない、近い関係、もしくは上下関係のようなもののなかで起きるそれは、往々にして「女性側に責任がある」とされちゃう。
女性側もそう思われることが怖くて、周りの人に黙っていることが多い。
私自身もそうだったし、友人にも、先輩にも、近いひとにもいる。
みんな、いつまでもその記憶に縛られて生きるのは嫌だから、忘れたふりをする。
けじめをつけたふりをする。
でも、身体性の伴う記憶というのは、なかなか忘れられない。
ネガティブな感情を伴うものも、ポジティブなそれも。
どちらも、忘れようと思っても忘れられない。
おかげさまでもうそういう目にはあっていないし、もう車でも部屋でもどこでも、少しでも変な感じがしたら近づかないのを徹底してる。
好きだったら別にいいんだけどね。
意味わかんねーなぁ。
と今では言える。
意味わかんねー、のだ。
そういう意味で、ああこの悲しさというよりも哀しさに近いものを感じる文章を読んだときに、すごくなんていうか、そうなんだよなぁっていう気持ち、つまり共感したんだろうな。
そして、もうひとつ。
自分の気持ちのフックに引っかかったのはこのくだり。美術の先生から作品について講評されたこのくだり。
先生の説明がひとしきり終わり、お礼を言おうとしたとき、先生は付け加えるようにしてこう言った。
「あと、僕は女性性を武器にしたような表現が好きじゃないんだ。それから“社会問題”として、それをテーマに選ぶ必要性もわからない」頭を鈍器で殴られたような衝撃を感じ、思わず目を見開いた。
これは政治学を勉強するなかでもたびたび触れるもの。
そしてそれはたいてい男性、もしくはフェミニズムを掲揚する女性に対する批判を行う女性によって発信される。
「本当に女性は差別されているの?」
「虐げられているのは男性のほうじゃないの?」
「こういう女性(フェミニズムを掲揚する女性)がいるから、女ってめんどくさいって言われる」
「育休は女がとるものでしょ?」
「そういうのめんどくさい」
どれも、実際にフェミニズムに関する話をしているときに耳にした言葉。
最近は「そういうのめんどくさい」と言うようなひととは付き合いがないので生きやすいですが。
なんていうんだろう。
理解しようとする前から理解することを放棄するような姿勢。
あったまわるいなと思います。
それはあまりにも雑な返しだからしないし、自分もかつて一度そういう姿勢で大失敗したことがあるからわかること。
なんていうのかな。
うーん。
なんていうんだろう。
やっぱり
意味わかんねー
になるんだよなぁ。
その姿勢が意味わかんない。
権利を持っているひとはその権利に気づかない。
「当たり前」だから。
権利を持っていないひとには、その権利がまぶしく映る。
だって、それは生きたいように生きるため、自分の人生を描くためにマストで必要なアイテムのようなもの。
でも、そのまぶしい権利について「それがほしい」と言ったら、「そんなの大したことないよ」「あれもこれももう持ってるじゃない」「むしろそっちがいいなぁ」と言われる。
私は視野が狭いんです。
自分が持っているものに気づかないんです。
と表明しているようなものだと思うのですが。
意見を聞いたらその意見をいったん受け止める。
受け止めて自分に照らし合わせて、自分の中から出てくる意見を返す。
そういうコミュニケーションができるひとばっかりの世の中になったら話が早いのにな、と、そんなことを考える夜でした。
佐々木ののかさんすごい!
かっこいいです、ありのままさが。
一回あってみたいな。
ポリアモリーの記事も素敵だった覚えがある。
すっかりファンです。
考える機会をありがとうございます。