好きの話をいっぱい書いていますが、嫌いももちろんたくさんあります。
むしろ人より多いような気がします。
でも、好きと嫌いは対極の関係にはありません。
好きの反対は、興味がない。
嫌いの反対も、興味がない。
嫌いも好きも、どちらにせよ、その程度と同じぐらいの関心があり、一定の価値(いいところや素敵なところ)がそこにあるわけです。
私からの矢印はそんな感じ。
だいたいの嫌いな人のことをすごいなと思っているし(嫌味ではなく能力が高いひとが多いから)、だいたいの好きな人のこともすごいと思っています。(これはもう全部!笑)
興味がない状態にあるっていうのは単純にご縁がまだないか、それかタイミングが合わずに知り合えていないだけ。別にマイナスなことでもありません、むしろ中立かな。
それに、出会える人、出会いを深められる人には、ちゃんとそのように会えて来ているので、これから先の人生もそうでしょう。
これは思い返すと3歳のピアノの先生から、そういうご縁の形が始まっています。
(まあ過去への解釈次第だなとも思うけどね。)
ひとつひとつの出会いが「何を意味してるのか」を考えると、「そういうことね!」とふっとその出会いによってしなくちゃいけない学びを終えられたりします、終えられるとすっきり爽快。
話がそれちゃった。ご縁の話はまた今度。
ちなみにご縁は握手で結べます。
時々、ものすごく私のことを好きになってくれる(恋愛感情とは別にね!)ひとが現れます。これは、何か目立ったことをしたあとではなく、大きな流れのなかで「好き」を感じてくているような、「在り方」を気に入ってくれるタイプの方が多いです。
ものすごく、でなくとも、私のことを好きになってくれるひとは、私の生き方や発言の内容、ラートをしている姿や、勉強の話、いろんなところから「好き」になる要素を見つけてくれて、その方のタイミングが終わるまで一緒にいてくれます。
反対に、時々ものすっごく、いやあなたに何かしましたっけいやしたんでしょうね無意識にねごめんなさいってレベルで私のことを嫌いなひとにも出会います。これは、好きの場合と違って、何か目立つことをしたあとに嫌われることが多いです。そして、一通り裏でも表でも批判されたあと、そのひとはまた別の「嫌い」な対象、つまりバッシングできる対象を見つけて去っていくことが多いように思います。しかもたいてい徒党を組んでくるので、ひ~~~~と思います、いやちょっと面白がってるけど。
にやにや。
というように、自分が「好かれる」状態「嫌われる」状態を分析してみると、ああどっちでもいいな、に着地します。
だって、もしだよ、もし、自分が「やりたいこと」をしていなくて好かれてしまったらそれを維持するのって超大変だし、自分がそのひとの怒りポイントに触れないように嫌われないように過ごすのも超大変。
この考え事の根本にはモットーにしている素で生きること、そして素のまま愛されること、つまり生き方・在り方の次元で自分を裏切らないこと、があります。
つまり、自分が自分の「在り方」を気に入っていたら、その「在り方」に合うひとが近くに来てくれるし、出会うこともできる。それに嫌われたとしても、それはそのひとが勝手に反応しちゃってくれちゃってるだけなので、考えなくてよし。
嫌われて批判されてってあとに「ああこれがだめだったのかな」とかくよくよしなくてよし。変わりたいなら変わればいいけど。
↑は相手から自分への感情の流れの話。
自分から相手への感情の流れの話は、少し変わってきます。
好きだ、は単純に好きだから良し!として、問題は嫌い。
これまた単純に嫌い!な場合は生物的な理由が含まれてることが多いのでスルー。
嫌いだ、のなかには「合わない」もありますよね。
大事な材料が隠れてるのは、この「合わない」嫌い。
このひととは、「合わない」と感じたら、すぐにすっと離れるのが一番だと思います。
嫌いだ、をずっと感じ続けているといつのまにか反応も大きくなってしまって、結局自分がくたびれます。
私はずっとクリスチャンの学校にいたので、「隣人を愛しなさい」「汝の敵をも愛しなさい」と言われ続けて言われ続けて13年くらい。
ばっかやろ~、ですよ。無理無理。ていうか根本的にはみんなのこと愛してるから実現しちゃってはいるんですけどね、ちゃっちゃっ。
とにかく、うわ、無理、と思ったらすぐ距離を置く。
そして、距離を置いた場所から冷静に冷静に、「なぜ嫌いと感じたか」を分析。
自分の気持ちが何に「嫌い」と反応しているのか、を分析していくと……。
たいてい、うわ、はずかし!となります。
(私の場合はね、という話。)
だって、「ひとは〇〇であるべきだ(あったほうがいい)」とか、「こういう状況ではこういう行動をとるべきだ」とか、「こういう言葉は人に言っちゃだめ」とか、そういうのがずるずるずるずる出てくるからです。
それと、目の前のひととを照らし合わせて「(私の生き方規範と)合わない」なんておこがましいことを思っているわけです。
で、そのあと。
もし変わりたいとおもっているなら、そのひとを参考にして変わればいい。
真似て、自分の生き方規範にあるタブーを犯せばいい、いっぱい。
いつのまにかへっちゃらになってるはず。
でも、変わりたくないと思っているなら、変わらなくていい。離れればいい。
というか、「合わない」場合で、しかも自分も「変わりたくない」と思っている場合は、その目の前にいる嫌いな人に何らかの形で傷つけられた、もしくは以前(これちっちゃいときの場合もあるように思いますが)傷つけられた過去を思い出させるような何かがあることが多いように思います。
そんなときは、まず一番大切にしなきゃいけないのは自分のこと。
傷ついたね、悲しかったね、と寄り添うこと。
時々、頑張れてないからそんな風に優しくできないって思っちゃうときあるけど、それとこれとは別。
悲しいときは悲しいし、苦しいときは苦しい。
ちゃんと癒せばまた頑張れるから大丈夫。
まあ全部自分の話なんですけどね!
この分析と考察を繰り返すうちに、もうあんまり嫌いな人に出会わなくなってきた。
一緒に分析してくれる師匠のおかげでもあります。
あとこの考え方の根本をくれたぢんさん、心屋仁之助さんのおかげでもあります。
生きやすさをありがとう。
この考え方の根本にあるのはこの本たちかなぁ~もし気になればどうぞ。

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