琉大祭の舞台と、癒されnight?を終え、ふぬけきっております。
そんな今日は「単位登録票配布の日」です。ひぃ~~~。
どれくらい時間割が組めたか(どれくらい駆け込まないといけないか)がわかる日。
あんまり好きじゃない日です。
だって、学校が始まる感じがするから。
私は卒業ぎりぎりなので(ぎりぎりでも厳しいのではないかと思うよ)講義いっぱいです。
でもね、そんな「単位登録票配布の日」よりも、もっと大事な日が今日。
だって9月が終わります。
10月1日からは、本当にもう戻れない。
昨日はすばらしい歌で「出発」を祝福していただきました。
なっちょんさんありがとう、大好きです。
飛び入りをゆるしてくださった佐々木さんも、皆さんも。
今日は10月1日、明日からどう生きるかの話。
40日前にこんな記事を書いたけれど、あれからずいぶん変わりました。
9月が終わるということは、もうそろそろ自分が生きる世界が決まってきたよね、ということ。
誠実な言い方をしたら、この数日は、ふぬけた、というよりは、大きなエネルギーの流れのなかで、その転換の音を聞いているような、そんな時間でした。
(ねこのエネルギーはびりびり、ひとよりも感じやすいびりびり)
どう生きていきたい?
誰と一緒にいたい?
何をしたい?
どこにいきたい?
全部できるよ。
と教えてもらったのも、9月は世界の分岐点だから、「お別れがいっぱいある」と教えてもらったのも、数か月前のこと。
この記事を書いたくらいだね。
この数か月、じっくり時間をかけて、上に書いてあるようなこと、要は「生き方」のところに答えを出せたように思います。
「好きだ」と思えるひとたちと「好きだ」と思えることを「好き」なように「好き」な場所でする。
それが答えでした。
やりたいことをやる。
やりたくないことはやらない。
自分ひとりで抱え込まず、ひとにお願いする。
ひとにお願いされたら、快く引き受けられそうなときは引き受ける。
ご機嫌で出来ないことは引き受けない。
それができる世界を選んでいくことになるんだと、そう思います。
具体的にどうしよう、というところ、実はまだわからなくて。
なんていうか、本当にまだわからない。
わからなくても進まないといけないんだ、と思って、就活もしかけましたが、でも、うーんってなっちゃって断念。
せっかく楽しいこともいろいろあるし、もう成人もしてるし、「うーん」ってなっておなか痛くなるのやだなと思ってやめました。
ひとつ進んでいる話も、あるような、ないような。
どうなるかなぁ。
でも、どうにでもなるんだろうなぁ。
とりあえず大学を卒業して、それからいろいろ考えてもまあいっか、くらいの気持ちで生きています。
頭おかしい気もするというか、「何にも所属していない自分」はとても怖いんですけれど。
だって、最近の挨拶はいつも「琉球大学の」とか「琉大体操部の」とかが枕ことば。
卒業しちゃって、まだそのときに次の組織が決まっていなかったら「」のなかは空白です。
日高春奈です、と言ってご挨拶するときに、どれくらいのひとに面白がってもらえるのか。
長期的なスパンで考えると、やっぱりラートから離れたくないし、もっともっと大勢のひとの前でラートがしたい。
これはね、心屋仁之助方式のやり方で判明しました。
これね。
「ラートやめなよ、向いてないよ」
って言われたら、もうすっごく悲しくて悔しくてどうしようもない気持ちになるの、あのときよりも強いです。
そのラートと一緒に生きられる道はなんだろうって考えるために立ち止まっています。
この記事に、
こう書いたような、やりたいことたちをやるためには、どうしたらいいんだろうって考えています。
考えて考えて考えて、ぽ~~~いって投げちゃいました。
もういいや9月までいっぱい考えたし。
とりあえず来年の2月にちゃんと卒業して、おじいちゃんとおばあちゃんに安心してもらって、叔父さんたちにありがとうって言って。
それが今のところの生きる意味。
ラートの舞台が決まるのもうれしいけど、その「卒業」を考えると、わくわくしてたまりません。
泣きたくなっちゃうくらい。
本当は、もっときっちりしっかりやれて、卒業と同時に就活おわりました報告もして安心させたかったけど、それは無理みたい。
まだまだよくわからない。
でも、どうにでも生きられることは、この4年、沖縄にいて感じたので、どうにでも生きていこうと思います。
宙ぶらりんこわいけどね。
あ~~こわいなぁ。
できることなら、、、、。
できることならどうしたいんだろう?
できることなら、ゆるされるなら。
って誰に許可をもらおうとしているんだろう。
結局責任をとるのがこわいだけ。
言い出しっぺになるのって面倒だし。
お仕事いっぱいになって。
でも、実は、一番楽しいのって言い出しっぺだし、責任とるひとだよなぁっていうことも、9月末の二つのイベントで感じ切りました。
うーむ。
もうわかってるんだよなぁ、こわいだけで。
琉大祭の舞台は死ぬほど楽しかった、もう本当に楽しかった。
大会よりずっとずっと楽しかったし面白かった。
感動も大会よりずっとあった。
どれだけ美しく演技をするかよりも、どうしたらお客さんが喜ぶか考えるのが面白かった。
もっともっと魅せたいと思ったし、もっともっと魅せられるような演技がしたいと思った。
今年の構成は斜転がいれられなかったけど、斜転もいれたいと思ったし、シルホイールも見せたいって思った。
これね。
パフォーマーになりたいのはもう明らかすぎるくらい明らか、もうぴっかぴかの希望で、ぴっかぴかの夢。
そして、そのために必要なことがなんだかも、もうよくわかってて。
でもこわいわけです。
もう21年も生きてるのにね。
まだまだやね~。
いまのままじゃね、パフォーマーとして足りない、全然足りない。
ラートのおねえさん、にはなれるけど、パフォーマーになれない。
私がなりたいのはラートのおねえさん、じゃない。
そうわかってしまったから、こわい。
大好きで、本当に尊敬しているパフォーマーの先輩方、「はるなちゃん」「はるな」「ひだかさん」と呼んでくれるその先輩方みたいに、あんな衣装をきて、あんなステージで、お客さんたちの前で演技がしたい。
いったら、あのシルクドソレイユの、まっしろ四兄弟みたいに、私が私でないようなお化粧をしてもらって、お客さんの顔ひとりひとりみて、びっくりされて。
(ライオンもたのしかったけど)
でも、いまのままではできない。
もっといろいろな演技ができるようになるためには、もっと美しく回れるようになるためには。
もっといろんなひとに求めてもらえるようになるには。
もっとラートが上手にならないといけない。
当たり前のこと。
ああこわいなぁ。
だってどれだけやっても足りないかもしれない。
認めてもらえないかもしれない。
大会の演技の度に緊張に負けてしまう自分ではだめかもしれない。
舞台でもだめなのかもしれない。
ダンスのセンスもない。
こわいなぁ。
2年間、ラートに打ち込んだ後、もし今の夢がかなわなかったとして、その世界に自分の生きていく隙間はのこってるのか。
それなら、最初からトライしないほうが。
あ~あ、本当にのたれじぬのかもしれない。
でも、いけるところまで選手としてやってみないと、次の扉はあけられないや。
どうしたらその道を選べるのか、模索、もうし終わってる、仕上げてプロジェクトにして出すだけだ。
あと2年はとりあえずのたれ死ぬことなく、ラートができるだろうと思う、「決め」れば。
昨日の夜にね、尊敬してやまない大好きなひとが、「そう思ったらもう目的が変わっちゃうからね」とつぶやいて。
それにすごく気持ちが震えて。
その言葉は「もう十分ひとからも好かれてるし、信頼もされてますよね」みたいな言葉の返しだったんだけれども。
それを聞いたときに、ああ負けたなと思ったし、このひとのそばにいたいなと思ったんだけれども。
さらっとつぶやいたその言葉、本当にすごいと思うんだもの。
すごいと言われるためにではなく、人から好かれるためにでもなく、褒められるためにでもなく。
ただただ目の前のひとの役に立つために力を注いで。
それが社会をよくすることになると信じて生きて、自分の役目を全うする。
それって、かなり、かっこいいし、すごいこと。
大好きなんだよなぁ。
今日で最後だし、言う気もさらさらないけれど。
幸あれ!
私は、今できそうなお仕事で、それができない。
ラートなら、できそう。
あ~あ、がんばろう。
大好きないかりんさんが、頑張りどきがあるよってブログに書いていたけど、本当だ。
がんばりどき、きたんだね。
とりあえず、12月10、11日の全日本大会だ。
すごくこわいし、この選択が私をどこに連れてくのか見当もつかないけど、これをするといろんなことのつじつまがあう。
あ~~~~~、がんばろう!
9月の最後、最後に本当にわかってよかった。
よかった。
ありがとうございます。
ありがとう。
こんな長い自分の話、読んでくださってありがとう。
今日はマヤだとこんな日ですって。
2016/9/30 Kin25 わーっってエネルギーが充満するそんな感じです。わーってエネルギーをどこに向けるかが大事だったりします。
— マヤ暦|神聖暦ツォルキン (@mayarekibiz) 2016年9月29日
すべてのモノには役割があります。風には風の役割。雲には雲の役割。それは人間も同じこと。
引用:今日はサイトからコピペです。
今日も日高春奈を生きよう、命を活かさねば。
読んでくださって本当にありがとう、がんばるので、見ててもらえたらうれしいです。
この写真ほんとに好き。ありがとう。