身体ぜんぶを使って何かを表現できるヨロコビ
で、観ている側の、つまり私の身体も震えさせられ理由もなく涙がでた、という経験を人生で三度しました。
三度目が昨日の夜。
そんな経験をした夜のあとの今朝の朝日は、ちょうスペシャルに美しかったです。
一度目は、EMPIREというサーカスを観たとき。
二度目は、サムライロックオーケストラの演技を目の前で観させて頂けたときに。
どちらも、演技を観ている最中から身体の真ん中、芯のところが熱くなり震える、という感じがすごくして。
EMPIREのときは、ラートってこんなふうにもなるのか、とその可能性にものすごく感動しました。
サムライのときは先輩がラートと一緒に登場したときに、ただただ幸せと震えから泣いてたのよく覚えています。
あのときは、琉球大学の体育館で練習をしていた先輩がそこで演技をしている、そしてその演技ができる幸せというのが観ている私に伝わって、私はとてもとてもそれが嬉しくて、羨ましくて、そういうキラキラしたものと自分のなかにあるキラキラしたいものが混ざって涙になったように思います。
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— 山城秀彬 (@HideakiCyr) 2016年9月15日
これが終わったら#ビューン と… https://t.co/sxYEuKV4fp pic.twitter.com/jfxaQ8ek8I
大好きなひでさん、一回あったらみんな好きになっちゃうよ。
昨日の夜は、演劇ユニット「Hash Tag」による「TableCharge vol.3」を観ました。
演劇について詳しくわかるわけではないのですが、即興演劇というジャンルのもののようです。
とにかく舞台との距離感が絶妙で、お客さんにどんな気持ちになって帰ってもらいたいのか、何を受け取ってほしいのかがよく考えられているすごい舞台でした。
それでね、昨日身体が震えたのは、ちょうど前座の次の劇が終わる頃、セリフセリフのなかに役者さんごとに込めている気持ちが違うのに、ひとつの大きな感情「楽しませたい」というものだと思いますが、それは三人が絶対に持っていて。何があってもそこはぶれない、というのを言葉ではなく演技から感じたときに、身体が震えて気づいたら泣いていました。大笑いの場面のすぐあとに。
(ほんとにおもしろかった、また行きます。)
どちらも、舞台を観ているときにも泣いて、帰り道にも泣くという点でも同じでした。
帰り道に泣いたのは、理由が最初はよくわからなくて、泣いているのに気付いて、ああ泣いてるな、という感じ。
これね、どうしてかというと、なかが喜んでいるんです。
生きていることを喜んでいる身体が、自分のなかの「生き方」を定めてくれる芯のようなものが、それはきっと魂と呼ばれているのでしょうが、それが喜んで泣くわけです。
とにかく嬉しい、生きていてよかった。
出会えてよかった。
そして、悔しい、とても悔しい。
あの場所に立ちたい、あの場所からお客さんを喜ばせたい、あの場所で自分がどんな顔をするのか感情がわくのかにすごく興味がある。
EMPIREも、先輩の出演しているサムライロックオーケストラの舞台も、今回縁が紡いでくれたおかげで観られた舞台も、共通していることは「その場でしか観られないもの」だということ。
お客さんと演者の一瞬の共有、それが舞台なんだと感じています。
そしてその「一瞬」を強烈に意識させられるというのは、それは生きるということと同じだと、そう思います。
同じ舞台は二度と観られない、同じ舞台は二度と演じられない。
なんてカッコいい世界だろうって、本当になんてカッコいいんだろうってそればっかり。
(はじめてスポットライトをあびたときも感じたワクワク。)
そして、そこは同時にすごく怖い世界でもあって、失敗と隣り合わせで。
メンタル力もない、打たれ弱くて、やる気にもムラがあるような、人よりも優れた容姿も身体能力も持つわけでもない私がそこに立つことはできないだろうと、5月に一度目の体験をしたあとに、私はそう結論づけていました。
ならサポートの方に回ればいいじゃないかとまで考えていました。
どちらにせよラートが好きだ、触れていたいという気持ちは変わらないから。
でも、今回の即興演劇を観たときに変わった、何かを理解したのが頭ではなく気持ちでわかりました。
それは「失敗してもいい」ということ。
今、毎日、今週末の土日にある琉大祭で行う「ラートdeサーカス」のために体育館で6時間以上練習をします。
(ぜひぜひきてね!)
そしてね、すごく怖かった、失敗することが。四年次という一番上の学年で失敗するのがこわかった。
大会で後輩に総合順位で負けてしまった(これ初めて悔しいと思ったラートやっていて)、それに加えてパフォーマンスでもうまくいかなかったら、なんだかもう自分の存在価値ってラートに関してないんじゃないか、と思っていたんですね。
だからとにかく怖くて、本番が来ることが。
あとはお客さんが全然こなかったらどうしよう、みたいなのもあったなぁ。
でも、そうじゃない、そうじゃないんだってことを昨日すごくすごくわかったんです。
「失敗してもいい」
「お客さんが来なくてもいい」
そして、「ありのままの自分でいい」ということ。
失敗してもお客さんはわかってくれる、それさえもまるっと楽しんでくれる。
PRにかける時間が思うように取れなくてやりきれなくて、お客さんが来なくても、みんながこれだけ楽しんで準備できたならそれでいい。
後輩のほうがうまい、と思われたとしても、「はるながラートしてるとこ観に来たよ」と言ってくれるひとがいてくれればいい。
本番が楽しみだな~~ラートの練習風景です:)当日はもっともっとかっこいいですよ!!きてね!24日&25日12:00~、14:00~、18:30~第二体育館でサーカスします。 #ラート #琉大体操部 #琉大祭 pic.twitter.com/VFtGqsgtNj
— 日高春奈-pidakaparuna (@pipapapipapa) 2016年9月20日
(こんな感じだよ、白いTシャツが私です、曲付きだよ~)
極端なことを言えば、この世に私は私しかいないわけです。
そして、この世を観て感じて生きられるのも私だけ。
私の人生です。
(決して完璧な存在にはなれないし、聖人君子にもなれないけど、でもひとが大好きな私です。)
即興演劇のなかに存在する「間」。
意図的につくられるそれもあれば、役者さんが頭をフル回転して「どうしたらお客さんを楽しませることができるか」を考えている間でもある。
その「間」こそが、役者さんごとの色味を変えていて、そして、それが「らしさ」になっていて。
それって、誰にでもできることじゃない、役者さんごとのキャラクターを取り換えて演じてもらったとしても再現はきっとできないもの。
そして、それって、誰もが思うような「完璧」から生まれるものではないということ。
努力して努力して努力して。
我慢して我慢して我慢して。
そうやって磨いた「能力」ではないということ。
毎日何を考えて、何を食べて、誰と話し、何を愛してきたか、というものが出てくるところ。
その人「らしさ」ってその人の生きてきた毎日そのものなんだと、舞台が終わったあとにお礼を伝えたときにそう思いました。
だって、舞台を観ているときに感じたそのひとの深い色が、そのまま、そこにあったからです。
演じていない時間にもあったからです。
(目がとてもきれいなひとだった。)
連れてってくれた萌子さんの車のなかで帰り道、自分にはできないと思っていた、でもやりたいと思う、舞台の上に立ちたい、ということを話しました。
続けて話した言葉もよく覚えています。
舞台に立ちたい。
舞台に立ってお客さんの前でラートをしたい。
喜ばせたい。
自分を喜びたい。
ラートの選手の環境向上にも力を尽くしたい。
もちろん競技の普及もいろんなひとの役に立てることだからやっていきたい。
一番の柱である「虐待をなくす」こともしたい。
でもそのためには好きなように生きられるひとを増やすのが遠まわりのように見えてすごく近道だと思うから、それを実践したい。
だけれどやっぱり制度的な改革も必要だと思うから、そこもやりたい。
全部「やりたい」だけど、「できる」と知っているからやりたいと感じるような気がする。
まだ何もできていない自分が言うのも変な話かもしれないけど。
そう言いました。
萌子さんが返してくれた言葉は宝物です。
はるなはもう踏み出していると思うよ。
目標って達成した瞬間に、もう次の目標を見据えているものだから、今の地点から見たら何も達成しているようには見えないかもしれない。
だけど、私からみたら、はるなはもうさっき言ったこと全部やってると思うよ。
それに、できると思うよ。
そう言ってくれて、もっといっぱい嬉しいことも言ってくださったんだけれども、これが一番嬉しかった。
(龍のおなかみたいな不思議な雲もみたね)
本当はね、家族のことを幸せにしたかった自分がいます。
小さい小さい自分。
でも、何もできなかった。
むしろ足を引っ張るような、もっと不幸にするような原因をつくりだすことしかできなかった。
守らなければいけなかった存在を自分の手で傷つけることさえした。
そんな弱い自分がいます。
家族の元を離れて、沖縄にきてもういちどひとりぼっちになって。
そのときに、「もうこんな自分は要らない」と思っている自分と出会いました。
家族のことを幸せにできなかった自分なんて要らないと。
頼ってくれた周りの友人のことを助けられなかった、支えられなかった自分なんて要らない、と。
でも、そういう自分と全く違う自分に出会わせてくれたのが「ラート」でした。
大学一年の春に初めて生でみて触って動かしたときから、ラートは私の生活の中心にありました。
ラートをしているとき家族のことなんて考えなかった。
今の技、次の技、練習ができる自分、練習ができない自分、まわりの部員のこと、ラート界のこと。
そういうことをたくさん考えていました。
気づいたら、元気がもどっていたんです、ラートのおかげで。
一番幸せだった3歳の頃、父がいて、母がいて、姉がいて、妹がいて、ときどき来てくれるおじいちゃんおばあちゃんがいて。
周りのひとにうんと愛されていて、笑ったり笑わせたりしているだけでみんなが嬉しそうな、あの時間。
あの時間のような、安心しきった自分のことをラートのなかにいるとき、私は確かに感じています。
そして、これなら、そういう生きる力をくれた「ラート」なら、一緒にひとの幸せを増やすこと、誰かに元気をあげることできるんじゃないかって。
そんなことを考え始めたんです。
それが「ラート」をお仕事の柱にしたい理由。
誰かを元気づけることが、何もない自分だけど、ラートとならできるんじゃないかってそう思えるから、です。
ちなみに、ブログをしている理由もそこにあります。
その過程をのこしておくことで、誰かが誰かの「ラート」に出会える気がして。
ここについてはまた次の記事に。
とにかくね、そんな気持ちで私は今週末の土日、最後の琉大祭に臨みます。
今日は「癒されnight?」の本番でもあって、昨日は別のお仕事もあったりして。
(飛び入り参加も大歓迎ですよ~~!!琉大北口ね!)
何が本当にやりたいことなの?全部できるの?全部中途半端にならないの?って言われたりするんだけど。
全部ね、同じ気持ちです。
誰かの役に立ちたくて、自分が喜ぶことをしたくて。
「ラート」にもらった勇気を、たくさんのひとに注いでもらっている愛を、別の形に変えて次のひとにわたしていく作業。
「ラート」だけに力を100%注いでいるわけではないけれど、そのときそのときは100%目の前のことを考えていられている今の自分が好きです。
まだまだ体力とか能力が追い付いていなくて、全部中途半端になっちゃうときもあるけどね。
もうすぐ全部できるようになると思っています。
(信じてほしい、信じたい、できるかなぁ。)
今夜20時~24時まで琉球大学の北口にあるトポセシアで開催する「癒されnight?」は、私に「やりたいことは全部できるよ」と教えてくれたトポセシアで最後にやりたかった「やりたいこと」です。
いっぱい迷惑をかけてきましたが、最後もただ迷惑をかけるだけで終わるのかもしれません、すみません。
でも、なっちょんさんの歌と、春翠さんの歌、そして優しい灯りの空間と、おいしいお酒。
それがトポセシアで働くきっかけになった朝ヨガのイベントが開催されたスペースと同じ場所でできるの、すごく嬉しいです。
今生きていることがとても嬉しい。
今生かされていることがとても嬉しい。
今日の「癒されnight?」でも、琉大祭の「ラートdeサーカス」でも、そんな気持ちを込めて、精いっぱい今の自分ができること表現してみます。
どうぞよろしくお願いいたします。
どっちも来てね!笑
読んでくださってありがとうございます。
愛をこめて。
もし沖縄に住んでいる方でこれを読んでくださって、少しでも「わ」ってなったら、ぜひ会いにきてくださいね:)
今夜の「癒されnight?」でもいいし、土日の「ラートdeサーカス」でもいいし。
ハグか握手かハイタッチかわからないけれど、縁を結ばせてくださいね。
泡瀬に新しくできた素敵なコーヒー屋さんにて。
がりゅうやのよこだよ!
カフェモカとってもおいしいです、チョコのかけらがね、いっぱい。
さ、イベントの準備追い込みと、ラートの練習追い込みの一日です、ちばるよっ!
2016/9/22 Kin17 ♪やさしい気持ちで 目覚めた朝は 大人になっても奇跡は起こるよ カーテンを開いて 静かな木漏れ日の 優しさに包まれたなら きっと すべてのことが メッセージ♪
— マヤ暦|神聖暦ツォルキン (@mayarekibiz) 2016年9月21日
やさしさを持って今日も一日しっかり生きませう。
だってよ。
そして、
この地球の二十一世紀は、みなさんが何かを学ぶために、もがき苦しむ必要のない時代です。by バシャール https://t.co/CLkqHoOMoR #バシャール
— Bashar Spirit (@bashar_spirit) 2016年9月21日
なんだってよ。
やったー!