さっきまで、ブログをする理由を①と②に分けて考えているなかで、もうひとつ考え事がでてきて、それは②に特に関わっていること。
最近よくする考え事でもあります。
ひとはそれぞれ自分の過去の経験から、いくつか「プライド」のもとになるものを選ぶのだな、ということ。
そしてそれに年齢は関係なく、どの年齢のひとでもわかりやすくそれを持っていること。
さらにいえば、その持ち方に気持ちの良いもの、と悪いものがある、こと。
プライドは強みとも言い換えられるし、特化した能力とも言えるし、そのひとをそのひとたらしめているもの。
ひとから認められると一番うれしいこと、かもしれませんね。
によによ。
私で言ったら、②の記事で書いたような「生きたいように生きる」ことを選んでいること、選ぶまでの経緯がそれにあたるでしょう。
(ひとのせいにしていたところから、自分の人生を歩み始めるまでのなが~い10代)
つけくわえるとすると、それを達成するための行動力も強みです。
特にラートをそれを実現するツールだと定めてからは、強みであることが顕著にあらわれているかな~と思い返したりします。
強みにしてくれてるのは周りのひとなんですけれど、それについてはまだ上手に言語化できません。
でも、ラートはプライドではないわけです。
ラートに関するプライドは、これから育つのかな。わからないところ。
わりと叱られて伸びるタイプではあるので、特に褒められても嬉しくはないのです、が、褒められて嬉しいことがあると「いてくれてよかった」という言葉ですね。
助かったよーとか、ありがとう、も似てる嬉しさをくれます。
だから、私の場合、プライドと承認欲求が結びついていません。
承認欲求というものがあるとしたら、どこで満たされてるんだろう。
大好きなひとたちに一言「よくやったね」「よくやってるね」と言ってもらえたら、わりかしそれでかなり満足です。
だから根源的な承認欲求としては「生きてきてくれてありがとう」と言われたときに、うわーーー生きててよかったーとなります。単純。
でも、この考え事ができるようになるまでは、わりとよく自分のことわからなくて。
過去の体験をエピソード化して使うことと、悲劇のヒロイン(たいした悲劇じゃないんですけれども)ぶるのと、何が違うんだろう、とよく悩んでいました。
くよくようじうじ。
やってらんね~~よ~~。
でもね、そうじゃない、本当にたぶん本当に向き合えた過去の経験って、味方にしかならない。
悲しい気持ちにもなりません。
あるのは、そのときそのときを生き抜いてくれた自分、いまの自分よりも幼いけれど強さを持った自分への「好き」の気持ちばかりです。
未だに、小さな自分、俗にいうインナーチャイルドというものなのでしょうか、その子が癇癪を起すときはあります。
というかさっきもだったんだけど。
だいたい目の前の出来事にイライラしたり悲しかったりいじけそうになるときは、昔あった何かと重ねて心が反応している、と捉えています。
その場合がすごく多いし。
だから、それが起きたあとは、自分とゆっくり話をします。
だって、その自分のことを嫌いだ!とか、憎んだりとか、うるさい泣きやめって平手打ちしたりしたらさ、同じことだから。
小さいころの自分がそういうときにどうしてほしかったのかを考えて受け止めます。
あんなにつらかったのに、あんなに悲しかったのに、いっぱい泣いてさみしかったのに、誰も味方になってくれる人見つけられなかったのに。
そうだね、よくがんばったね。おなかすいてたね。
眠るのが怖いときもいっぱいあったね、と話すわけです、自分と。
で、そうするうちに癇癪娘は泣き疲れて眠ります。
起きてくれたあとに、ぎゅーっと抱きしめて、「ありがとう、大好きだよ」を伝えてしまう。
そうするだけで、その昔の感情はちょっとずつ減っていく、癒されていくのを私は体験として持っています。
ちなみにできなかったとき、むげに扱ってしまったり、もーいいかげんにして、とうんざりしたときは。
それをしてしまった頃の小さな自分に対する扱いが「仕方のないこと」だったことを知れるので、それはそれでOKにしています。
ぜんぶまる。
これができるようになったから、自分のなかにある過去の自分への尊敬、その経験への「プライド」は柔らかく、いいものになりました。
人から何を言われても気にならないし。
褒められてもけなされても、自分to自分の評価は変わらない、満点です。満点。
まるっ!
まるつけられないときは、静かに味わう。
そう、それでね、最近感じる、いやなプライド、気持ちの悪いプライドっていうのは、ここがなんだか違うんです。
「私が」感じることだから、そんなものないのかもしれないけれど。
そのプライドは、なんていうんだろう。
欠乏をすごくアピールするようなもの、です。
あんなにしてもらえなかったのに、こんなこと言われたのに、あのひとのせいなのに。
こんなことをされたのに頑張ってきたから○○、というような。
こういうタイプのひとと話していると気づくとくたくたです。
自分もそうだったときがあるし、これからまたそうなるときもあるかもしれない、けど、でも、自分に×をいっぱいつけたうで、その×を外していくようなプライドの育て方はしんどいなぁ~って思います。
そもそも×をつける必要ないのにね。
そのままに○をして、その○をつけられた自分にプライドを持つ。
その○をつけることができるようになったきっかけをエピソード化して、ストーリーにして、それをわかりやすい「プライド」として持てばいい。
無理やり乗り越えると反動きちゃうもんね。
あなたはそのままで愛される価値があるんだよ、というのを教えてくれるひとが、タイミングよく人生に現れることに感謝しつつ。
そういうひとになりたいなぁ~
あつかましくないけど、いてくれて言葉をくれるとほっとする、みたいなひとになりたいなぁ~
と思う日曜日でした。
読んでくださってありがとうございます:) 幸あれ~
今日で人生が終わるとしたら今何をするんだろう
— 碇谷圭子 (@KeikoIkariya) 2016年9月18日
いかりんさんお会いしたいなぁ~。