わたしは、琉球大学の体操部に所属しています。
そして、「ラート」というスポーツの面白さに夢中です。
詳しくラートのことを書いた記事はカテゴリー「ラート」でまとめてあります。
(よろしければ)
今日はね、土曜日の練習でした。
土曜日の練習は、わたしにとって特別な時間なんです。
先生が来てくださるから。
右が先生。うちのおじいちゃんよりも年上です。
先生は、わたしにとって本当に大きな存在です。
三年前に初めての全日本大会に出場したあと。
「わたしにもあんな演技ができるようになるでしょうか。」
と、聞いたとき。
「あなたならできますよ。」
そう一言答えてくださったこと、
わたしは一生忘れないだろうと思います。
あの一言がなかったら、もうラートには触っていないだろうとも。
そして、今日の練習で感じたものは、
琉大体操部に入部してから初めて経験したものでした。
「恍惚」という言葉でしか表現しようのないような。
他になんていえばいいんだろう。
キラキラしていて、身体が軽くて、まるで魔法みたいな。
うるさい感じではなく、とても静かで、
あの時間、わたしは自分が「できる」ことを確かに知っていました。
動画を撮ることを頼む時間も惜しむような、そんな。
ラートで、というよりは、
ラートの上からする前方宙返りの練習中のことでしたが。
いつも練習をするときは、ななめに回る斜転、トランポリンでの前方宙返り・広報宙返りの練習、直転、跳躍、の順で練習します。
(それぞれの種目に関することは上のほうで紹介した記事で書いているので、もしよろしければそちらから。)
ちなみに、一番好きなのは斜転、
次に好きなのはトランポリン、そして直転、跳躍の順番です。
つまり、好きな順番で練習しています。
ちなみに気になって仕方ないシルホイールも斜転にはいります。きゅん。
これがシルホイール。がっつり練習したいなぁ。
話がずれました。
それでね、来週がインカレなわけです。
四年間で最後のインカレ。
たくさんのひとに出会えた場所であり、
初めて斜転の演技中に拍手をもらった大会。
あのときの拍手がうれしくて、斜転に更にのめりこんだんだよね、と自分とよく話します。
(ちなみにちなみに、ベルトレスの切り返しです。笑)
(これはねそのときのインカレの斜転の予選のあと。気持ちよく回れたのね。)
話がまたまたずれました。
それで、今日も斜転から練習していました。
自分なりに試行錯誤しつつ練習していて、
ちょいちょいうまくいく回もあって。
先生が近づいてきたので、「お、褒められるかな!」と思ったわけです。
そしたら先生は「大会一週間前なのにのどかな風景ですね。まあいいから楽しんでらしゃい。」と一言おっしゃいました。
もう、ひょえ~~~という気持ちでした。
たしかに、こう、たしかにインカレ一週間前です。
そして、先生にばれているように、あんまり気のりしていません。
それは、インカレだから、とかそういう理由ではなく、単純に今目の前の練習が楽しくて仕方がないからです。
どうしても「大会に向けて頑張る」練習ができなくて、そんな自分が嫌いになったときもありました。
そのときは、こんな感じでがっつりラートから落ちてケガをしました。
もはや懐かしいけれど。
そのケガから復帰?して練習を再開したとき、一回一回のトライが本当に楽しくて面白くて。
ああラートができるってなんて幸せなことだろう、と嬉しくなりました。
この記事にまとめていたと思います。たぶん。
それでね。
先生にそう言われたときに、それはもういろんな気持ちがめぐりました。
でも、一番大きかった気持ちは「そう言わせてしまったのはごめんなさいだけど、でも、仕方ないね。」でした。
あまり気にせず、次のトランポリンへ。
前方宙返りの練習をするもパッとしません。
何度やっても床に飛ばされます。
こんな感じ。これはずっと前のだけれど。
(あんまり成長してないということか。)
またまた見かねて近づいてきてくれた先生。
叱られるかなと思って、(ややびくびくしながら)お話を聞きに行きます。
いただいたのはアドバイスでした。
「もっと小さく丸まって、すっと伸ばしなさい。」
「見えるでしょう、前が。」
の二つ。
何回同じアドバイスさせてるんだろう申し訳ない…と思いながら、
トランポリンを置いている台にのぼります。
そしたら、なんでかよくわかんないけど、できちゃったわけです。
もう超いい宙返りが。
びっくりしすぎて降りたあとに口をぱくぱくさせていたら、
先生はもっと嬉しそうでした。
「宙返りと言って想像するとき通りの宙返りでした。」
「すばらしい。」
って言ってくれました、うれしかった。
そして何本も何本も繰り返しそのあとに宙返りを。
2回目、3回目と台にのぼるうちに、
心の底から楽しくて仕方がないのを感じました。
思考はもう完璧にOFF。
なにも考えられません。
とにかく回るのが気持ちいい。
身体を開放して着地するのも、そのあとにもう一度台にのぼるのも。
あんな気持ちになったのは本当にはじめてのこと。
ずっと前に読んだ、いまもときどき取り出して読むこの本。
この本に、人生はエクスタシーだ、という言葉がでてきます。
今日のあの時間はまさにエクスタシーだったわけです。
びっくりしすぎて先生に「こんな風になれると、一度も思ったことはありませんでした。」って言っちゃいました。
先生、ただ一言「私は知っていました。」と。
そのあとの練習もいろいろあったけれど(落ちたり)(打ったり)(先生に痛いというから痛いと言われたり)
でもでも、とにかく超幸せな2時間でした。
(打撲はケガじゃないっていうけど、ケガだよねって会話のときに思い出す。)
(まさかのサークルオリエンテーション本番で頭を強打した私のことを。)
(みんな爆笑。)
それでね、何を書いておきたいかっていうと。
信じてもらえるってすごいことだなと思ったわけです。
大学まで一度もちゃんと運動をしてこなかった私です。
いうたらどうやって体育をさぼるかしか考えてこなかった私です。
沖縄にきて先輩方がラートをする姿にひとめぼれ。
体験してみたら楽しすぎて「センスある」と褒められ調子にのった私です。
でも、同じ時期に入部した誰よりもへたっぴで。
気持ちにはムラがあり、運営面でも先輩方に迷惑をかけ続けた私です。
何回も何回もラートなんかもうやめたら、と家族に言わせた私です。
何回も何回もその質問を自分にぶつけた私です。
でも、やめられなかった。
やめなかった。
それは、先生のおかげ、先輩方のおかげ、同期のおかげ、後輩たちのおかげ。
書き出したらきりがないほど「ひと」のおかげです。
(琉大体操部に、だけじゃない気持ち。)
そのなかでも大きな大きな「先生のおかげ」は「信じてくれた」こと。
ただただそこに尽きます。
なんの運動もしてこなかった気分屋な私のことを信じてくれた先生のおかげです。
「世界大会に行く姿を見せてほしい」と何度も言ってくれた先生のおかげです。
それはできることだ、と言い続けてくれる先生のおかげです。
今日までは自分の能力について見切りをつけていました。
もうこれ以上は無理だろう、と。
あんなふうにうまくはなれないだろう、と
体操出身のひとの演技を見ながら思っていました。
あんなふうにはなれないだろう、と
ストイックに練習される先輩方を思い出しながら自分に言っていました。
でも、そんなふうにネガティブに思っている自分を全く見ず。
先生はただ、「あなたなら、できますよ。」と言ってくれます。
微笑んで肩をたたいてくれます。
どうして、そんなことを言うんだ、といじける日もあったけど。
自分なんかには無理なんだ、とすねる日もあったけど。
ああ、そうじゃないんだねってやっとわかったのが今日でした。
「いつか」はわからない。
でも、ちゃんと、ちゃんと方向があっていたら努力は実る。形になる。
それは自分が思っているような形ではないかもしれない。
自分が思うタイミングでもないかもしれない。
でも、そこまでの道のりがなかったら。
そこまでの練習をしなかったら。
この気持ちは味わえなかった。
この先に待っている気持ちも味わえなかった。
私はずっと「先生が信じてくれている自分」になりたがっていました。
なれない自分を責めていました。
だけど、そうじゃなかった。
先生が見てくれていたのはいつでもそのままの自分。今の自分。
今のそのままの自分ができる練習を積み重ねていくことで、
「いつか」はわからないけれど、花ひらくと。
そう思ってくれているのが今日やっとわかりました。
遅くてごめん、とこころのなかで言いました。
待っててくださってありがとう、とも言いました。
どこまで行ける選手なのかはわかりません。
才能もセンスもないだろうと思っています。
だけど、楽しい、嬉しい、ラートが好きだ、という気持ちは、
身体の中にとどまってくれません。
溢れ出て「練習したい」という気持ちや、
「だれかに見せたい」という気持ちに変わってしまいます。
その気持ちに素直に従おうと思います。
その先に望む未来がなくたって構わないわけです。
だって「今」しかない。
先のことはわからない。
明日死ぬってわかってたとしても、
やっぱりラートをしたいし、ラートを人に見せたい。
ラートを楽しんでいる姿をみせることで、自由に生きられることを伝えたい。
(というようなおこがましいことまでちゃっかり思っています。)
うまくかけているのかな。
それでね、私はとにかく思いました。
ああ、続けようって思いました。
トライすることも。
外にでることも、やめません。
本当に世界大会に行けたらいいね。
でも、いけないかもしれないね。
努力は実ります。
でも、いつかはわからない。
そして望む形かもわからない。
だけど、ぜったいにその努力という名の道のりは消えたりしない。
そして、その努力というのは「がんばる」ことではなく、ついやってしまうこと。
気持ちが先に走って身体が勝手にうごくならそういうこと。
先に待つ何かのために必要なこと。
ぜったいにぜったいに必要なこと。
今「つい」やってしまうことに不安にならないで、と言いたい。
今夢中なことを非効率だから、非生産的だから、「将来の」役に立たないからといって切り捨ててしまわないで、と言いたい。
そんな刷り込まれた価値観に埋もれさせてしまわないでと。
もしかしたら、私は「やめない」という選択肢のせいでのたれじぬかもしれない。
でも、この「つい」のこと見ないふりしたら、
たぶん、もう生きていても仕方ないんだと思います。
今日わたしは自分のなかにあるキラキラとした宝石のような美しいものを見ました。
あれは、「好き」だったんだろうとわかっています。
あんなに美しいものだとは思わなかったからびっくりしました。
(ほんとにきれい、そしてすごく「自然」な明るさだった)
ラートが好きです。
ただただ大好きです。
きっと、これを読んでくださっている方の「好き」の気持ちも。
このブログを読んでないひとのなかにある「好き」も。
今日道ですれちがったあのひとの「好き」も。
みんなみんな同じように美しく透き通った色をしているんだとわかります。
そして、その「好き」を信じて進めば、
きっと生きたい未来を生きられるんだと思います。
まだわからないけれど。
一生かけて証明していくほかに持つ術がないけれど。
でも、たぶん、きっと、そうなんだと思っています。
その「好き」の対象は、ものでもひとでも行動でもないかもしれない。
毎日の暮らしのなかの何かかもしれない。
ひとからみたら小さいかもしれないし、大きすぎるものかもしれない。
正解なんてなくて、
本当に「つい」してしまう好きなこと、それがそれなような気がします。
音楽もそれだなぁ。
私はもう、先生に見えている自分を信じます。
出逢わせてくれてありがとうの気持ちでいっぱいです。
読んでくださってありがとうございます。
だれかに「あなたなら、できます。」といえるような自分になるために。
そう言える自分であるために。
月曜日からの練習も、楽しく、夢中になって取り組みたい、という気持ちです。
本当に本当に読んでくださってありがとう。
あなたの「好き」が身体の外にあふれてしまって、
つい、動いてしまうタイミングがきたときに、会えたらいいなと思います。
応援させてください。ぜひ。
不安になったら教えてください。
たぶん「あなたならできます。」か、
それたぶん自分のやりたいことじゃないから努力というより、
ただただ「がんばる」になってますよと言います。
だれかのために生きてる時間なんてありません。よ。
本当にやりたいことをやれるひとが増えちゃえば、
世界は平和になると思っています。
ね。
だから、わたしの夢のひとつは世界平和です。
でも、たぶん、もう世界平和です。うまくいえないけれど。
とにもかくにも、きょうもわたしはしあわせでした、ありがとう。
みなぽよの固定ツイートにあるポリアモリーの記事読んでそのあとにその方が書いてるたくさんの幸せや愛や本に対しての考え方をよんだら涙がとまらなくなった….
— おんちゃんはTSUDOI (@ananashu) August 19, 2016
たくさんのひとにブログの感想をいただく一日でした。
ありがとうでいっぱいです。