ヨガを習ったばかりの頃、去年は呼吸をするのに必死で何も楽しくありませんでした。
瞑想やヨガは、浅いところにいる自分と、深いところにいる自分がくっつく(分離しすぎない)ためにとても重要だ、ということを実感しています。
今年に入ってからするヨガや瞑想は、どれもとても心地よく、素晴らしいスピードで私を癒し勇気づけてくれています。
(うさんくさい?)
・朝の瞑想
・カタヨガでの経験
・「よくわからん」ものに身を委ねる
ちなみに今日のBGMはこれ!
朝の瞑想
朝5時30分~6時の間に起きて、スタバへ行く、という生活も今日で1週間?2週間目くらいになりました。
一昨日の朝活のときから、瞑想をスタートしました。(なんとなく)
youtubeで適当に誘導瞑想のBGM(できたら下に書くカタヨガの智子さんの声がいいなぁ~と思っている)を選んで、聞いて。
最初の日が5分の瞑想、昨日が10分の瞑想、今日は15分の瞑想をしました。
10分が一番心地よいかな~という印象。
長ければいいってもんじゃ~ないんですね、おそらく。
瞑想は、最初にゆっくりと呼吸をして、気持ちを静かな状態、波のない状態にします。
そのあともずーっとゆっくりの呼吸、鼻から吸って口から出す、をゆっくりする呼吸を続けて。
その状態で、その大きな海みたいな気持ちに、何かしら(たいてい思考の種か感情)が「ぽちゃん」と落ちてくる様子を眺める作業、です。
その「ぽちゃん」に対して、なぜ「ぽちゃん」と落ちてきたんだ、と考えない練習。
す~っと眺めて受け止めて「そうだね~」と言ってあげる時間です。
今日は初めて、その大きな海の上には空があって、そこが朝焼けで、そして私は浮かんでいるという状態になりました。
(文章にすると意味わかんない・・・)
でも、これ、ちゃんと考えてみると、おそらくですけれども、だんだん気持ちも安定してきていることが現れてるなぁと思うんです。
だって、最初に瞑想というものをした高校生のときは真っ暗な空間を落ちていく様子が浮かびっぱなしだったから。
(あの頃は寝る前にしていました。だからかもしれないね!)
出てくる感情も、つらい、わからない、生きていたくない、しんどい、きらい、息をすいたくない、はきたくない…えとせとら。
まぁ大変だったもんなぁと今では笑えます。
そう、それでね、今のこの状態!
自分自身の魂か何かがイメージ化された大きな大きな海、しかもたくさんの大きな生き物が生きている海。
そして大きな太陽によって色づけられるまだ淡い、でも少しずつ強くなる朝焼けの空。
その真ん中にふわふわと浮きながら、ときどき海のなかに潜りながら。
何かメッセージを受け取るとかそういうのはないけど、でも、この状態を感じるだけですごく気持ちが楽になってる。
でもたぶん、これを続けていけば、この状態が変化したとしても「そうだね~」と流せると思います。うんうん。
沖縄という自然のパワーいっぱいの土地で3年半暮らせたおかげと、たくさんのひとの愛のおかげだと思います。
本当に本当にすごく心地よい。
瞑想をするたびに、気持ちがゆるゆる解けて、いろんなところに分散していた「自分」がひとつに固まるのを感じます。
瞑想は楽しいです。
いよいよ地に足ついてないんじゃないかと自分に突っ込みいれつつ。
ポリアモリーの本にも瞑想の話でてきて嬉しかったなぁ~。
「今ここ」を生きる技術のひとつなんだろうと思います。
なんにせよ、情報が多すぎるから!このブログにはあんまりないけど!
(今回の記事とか、もう読んで何を思うんだろう読んでくれたひとは・・・ちょっとこわい。)
カタヨガでの経験
7月のまんなからへんの月曜日に「カタヨガ」というイベントに参加しました。
ヨガの先生をしてくださったのは心屋智子さん。
とっても華奢で、しっかりとした声の、かわいい感じの女のひとです。
体がかたいひとでもヨガを楽しめるように、とヨガの教室を始められたそう。
すごく自然にその場に存在するタイプのひとだなぁーと思って、いいなぁー、あんな風になりたい、と思いました。
ずっとブログを読んでファンで、沖縄にいらっしゃるということで絶対会いたい!と思ってすぐ申し込み!
ブラジリアン柔術の教室でヨガをするという、ちょっとへんてこな経験をしました。
楽しかった!
そう、それで、そのときにエネルギーヨガというものをして、そこでした経験がすごかった。
呼吸をして、身体の七ヵ所でも呼吸をして、そのあと身体全部で呼吸をして、という感じだったんだけど、身体の上のほう、みぞおちとかの呼吸らへんで、身体全体がぴりぴりして、そして、ふわっとして、そのあと身体感覚、というものがなくなったのを覚えています。
そう、もう頭が下で足が上で、でも頭も足もなくて。
最初はめっちゃこわくて、いや~~どうしよう目をあけたい、目をあけたい、と思って、でもそれでも呼吸を続けるうちに楽になり、頭の上で呼吸をする、という段階で、自分という存在は大きいもののなかのひとつだ、というのを実感しました。
映像でいうと宇宙ぽかったけど、なんだかよく知ってる宇宙とは雰囲気が違った。
とにかくなにをしてもなにを望んでも大丈夫で、うまくいくようにしかできてない、という感情がぶわ~~っとでてきた!
で、その経験に大興奮!な私はその次の日、またまたガンガラーの谷で行われたイベントに参加して、そのイベントにも登壇してた智子さんに尋ねるわけです。
「こんな経験をしたけど、これはどういうことなのか、また経験できるのか」と。
智子さんは、うんうん、と聞いてくれました。
そして、
素晴らしい経験をしたね。
これからもヨガや瞑想を続けていけばそういうものに出会えると思う。
でも、それさえも手放す対象だよ。
すごい、と感じたあとに、ゆるゆると流す、離す。
そうなんだ~、そういうこともあるんだ~、って流してあげる。
その経験をぎゅーっと握りしめたままにしないでね。
と言ってくれて、私はすごく腑に落ちました。「何が」というわけではなく、強烈に腑に落ちました。
そう、まだ時間かかってるけど、あの経験はあの経験、もう終わったもの、と思うようにはなりました。
今大事なのは今ここにあることだから。
(朝日もいつかは沈んでしまうし、ね。)
「よくわからん」ものに身をゆだねる
今日ここまで書いてきたことは、わかってもらえる話とわかってもらえない話と、どっちでもありうるなーと思いながら書きました。
でも、自分のなかでひどく大切なことだなぁと思いブログに記録しておこう、という気持ちで書きました。
「よくわからん」もの、は偉大だなーと思います。
今まで出会ってきたお仕事をくれるひとや、何かを教えてくれるひととの出会い、言葉との出会いは、私がお金を出して買ったわけでも、それを強く望んで引き寄せたものでもありません。
言語化の段階に入っていない思考がそれを欲していたことは予想できるし、理解もできるけど。
でも、とにかく「よくわからん」わけです。
瞑想も、瞑想中にみえるビジョンも、人と話していて感じるその人の痛いところも、そのひとが嬉しそうに何かをしている姿や内容を感じることも。
なんでかわからないのにやってみたくてたまらないものも、見てみたい景色も、会ってみたいひとも。
なんで感じるかは「よくわからん」けど、でも感じちゃうから仕方ないわけです。
(あってるかどうかなんて知らないし、そのとき思っても言わないときのほうが多いし、痛いのは自分に移るからひ~~って感じ)
そいう「よくわからん」ものをずっと疑っていました。
小学生の頃に、ひとの気持ちのにおいがする、といった私に、母が「そんなことを言ってたらみんなに変なひとって思われちゃうよ。」と言ったときから、たぶん。
なぜ、みんなから変って言われたら大変だ!とその年の自分が思ったのかはわかりません。
(だってそのあともずっと別にそういう話しなくても変だって言われてたじゃん…と思い返すと言いたくなる)
ただ、この「よくわからん」を信じるようになってから、いい感じに人生がするすると進むなぁと思います。
やりたいことをやれていて、過ごしたいように過ごせていて、すごくいい感じ。
まだまだもっとご機嫌になれるから、当分はそこを追及していくつもりですが!
そんな感じ!
ちょっぴりこわいけど「よくわからん」ものに身をゆだねつづけていきたいなぁーと思います。
というよりも、もう前みたいに論理と理屈だけで生きていくのは無理っていう放棄に近いかもしれないね。
(これはおそらく非売品・・・売ってたら買いたい本、会いたい人。)
そう、その「よくわからん」のひとつであると思うのが、縁です。
人との縁も、場所との縁も不思議で優しく、愛がいっぱい。
そして、私は、そこから離れること、お別れが苦手です。
去年、大好きだったひとともう一緒にいられない、となったとき、
天邪鬼に「どうせこうなると思ってたし、もう嫌いだから」と言った私に、
いまの師匠だと思っている人がくれた言葉が心にのこっています。
そんな言葉をつかってはだめ。
お互いの学びが終わっただけのこと。
と。
ぽろぽろ泣いたのを覚えています。
なんでこんなに素直じゃないのか、それはもう性質なんですけれど。
そういうのは横に置いておいて、この言葉のやさしさ、まっすぐさに惚れ惚れします。
離れることを決意すると、のこりの日にちを意識をいやがおうでも意識します。
大好きなひと、大好きな場所
離れずにずっと留まることができたら、と思わないこともありません。
でも、自分の気持ちに少しでも次の場所へのワクワクがあるなら、きっと大丈夫。
そう言い聞かせながら、のこりの日にちを大切にする決意をします。
離れる意味を、その場にいるひとみんなに理解してもらうことはできないはず。
その傲慢さ、全員に理解してもらおうとする自分の傲慢さもゆるゆると解けるといい。
五木寛之さんが、人間は水だ、と言っていました。
同じ場所にとどまり続けたら濁ってしまう、流れがないと澱んでしまう。
そして、みんな同じ水だ、ということ。
それは不変で、結局、物理的な距離が離れていても近くにいても同じこと。
さとうみつろうさんも言ってたなぁ。
相手と自分を隔ててるものって実はなにもないんだよって。
だって空気がある、「無」はない。壁も物質のうちのひとつであるだけ。
触れられないのはさみしいけど。
たくさんのお別れがまだまだ待っている、しかも近くに。
そんな予感がひどい最近ですが、ひとつひとつ受け入れて、流して、またそのままの自分で歩いていけたらいいなぁ~。
と思う朝でした。
今日は素晴らしい日になります!
お姉ちゃんの誕生日だし!
マヤ歴だとこんな日。
2016年8月2日 Kin226 ちゃんと必要なことは伝わってる。大丈夫。その先につながっていく。世界はワンワールド。すべてに意味はある。
— マヤ暦|神聖暦ツォルキン (@mayarekibiz) 2016年8月1日
いい日だなぁ~。
今日はラートにさわれるといい、転んだとしても膝を死守する決意をする朝です。
読んでくださってありがとうございました!
ハッピーに埋もれちゃいますように!