NOW 500→1000

江國香織「すいかの匂い」を読んだ / 一目惚れについて

江國香織の すいかの匂い を読んだ

すいかの匂い (新潮文庫)

すいかの匂い (新潮文庫)

 

 

そのなかに「どうして気づかないの」と少女が嘆くシーンがある

あなたとわたしはいろんな話ができるのに
と、心のなかでつぶやく

でも彼女は小学生で、彼は大学生
とても無理な話だと、彼女は彼と向き合ったときにどうしたって視線が合わないことから思い知る

そして
彼との別れのシーンで、彼女は彼の手を小さく切りつける

江國香織の他の本でも相手の肉体に傷をつけるシーンはときどき出てくる

あなたが欲しいと彼に告げたら彼がおもむろにじぶんの指の皮をナイフでうすくそぎ、その剥いだ皮を主人公が食べるシーンとか、、

痛いのは苦手なので身をすくめながら読む

 

このふたつ、じぶんのなかにもあると思う

 

どうして気づいてくれないの の感覚

そして、そのひとが欲しくなる感覚

 

でも

うまくいえない

わたしが感じるその同質性と、相手の感じているそれがイコールである可能性ってとっても低い

 

めぐりあえたことだけを喜んで、関係を望んだことは今まで一度もなかった

 

関係が深まりそうになったことも、結果として深まったこともあったけど、まだ、相手がどのように感じたのか、そのコミュニケーションは取れたことがない

わたしはとってもそれに強い興味を抱いている

あの一瞬でその存在に恋に落ちる感覚、出会ってしまったことへの落ち込み、あれは一体なんなのだろう

相手は同時に何を感じてるんだろう

ぜんぶわたしの勘違いなのか

それがはやく知りたい

 

相手が欲しい感覚

こちらはおそらく、もともと同じものだったことへの懐かしさ、もしくはその能力への憧れ、手塚治虫のあれに似てる欲求かもしれない

人間昆虫記 1

人間昆虫記 1

 

でも、皮は食べたくないけど、、うぇー、、

 

江國香織でいちばん好きなのは詩集

女に生まれたことを存分に嘆き愛せる一冊

気に入っている

すみれの花の砂糖づけ (新潮文庫)

すみれの花の砂糖づけ (新潮文庫)

 

 

会話と対話の違い / より良質なコミュニケーションのために

ひとしきりパートナーシップについて考え尽くし、出した答えは 契約的に相手を縛ることをやめる だった。
そんな風になったらわたしはさらに好きな人がたくさんできてしまうのではとか、彼は素敵だからあっという間に別の人に取られるのではと嵐のように不安が襲う。
でも、その嵐が収まると今度はとうとうと湧き上がる泉のように、彼への尊敬や好きの気持ちがのぼってくる。
あんなに優しい顔をしながら、他の人に会ってみたいと正直に言ったわたしを眺め「会ってみたほうがいいよ」と言った。
彼との会話ひとことひとことが嬉しく、宝物のように心にのこっている。

f:id:pidakaparuna:20190813100651j:image

契約的に関係を結ぶ

それはそれで素晴らしいことだと思う。一生添い遂げようと、お互いに真心を持って誓いを交わす。

そんな風にしたくなるひととこれから出会うかもしれない、わたしも彼も。

でも今は違う。

その今の感覚を大切にしたいと思って、今回の話し合いだった。

愛するということ: 唯一無二なパートナー的感覚の消失 - 0→1000

対話を繰り返す

彼と最初からこんな風にいろんな話ができたわけではなく、何度もボールを投げ、何度もボールを受け止め損ね、一回一回反省と改善を繰り返していくうちにわたしたちは対話ができるようになった。

対話と会話は明確に違いがある。

会話はお互いに情報が交換できれば成立する。Aと伝えたいわたしがAを伝え、Bを伝えたい相手はBを伝える。

重要なのは誤解が生じないように適切な形で情報を伝えることで、意思疎通がはかれた時点で会話の目的は達成される。

対話とは

対話は、もっと厚く重たい。濃厚。

相手を尊重したい、相手の意見を最後まで聞きたい、相手の意図するところをより正確に理解したい。

そのうえで、相手と新しいものを創造していく試みが対話だ。

お互いのボールを交換するのではなく、お互いのボールを手のひらの上にのせて、そのボールで新しい現実をつくる。

会話は行動の変容は求めないが、対話は勝手に変容が起きる。

隠し事をなくす

会話ではなく対話を望むとき、そこには隠し事があるとうまくいかない。真実をすべて明らかにして、相手と裸で話す。

隠し事があったり、相手には言えないことがあるとき、それはその場のリズムを乱し、その後の現実にその乱れた波の影響が起きる。

今回でいうと、わたしは彼に会いたい人が他にいることを伝えるのはとてもこわかったし、彼を傷つけることでじぶんが傷つきたくないと強く恐れていた。

でも彼がこちら側に胸を開いて座っていて、かつ少し下からわたしの顔を覗き込むようにして視線を渡し、目や表情がつよく優しさを放っていたので、わたしはその恐れを捨てて彼と正直に話すことができた。

会話、議論、対話

じぶんが今どんな形で相手とコミュニケーションしたいと望んでいるかをはっきりさせておくと、その時間はより有意義なものになる。

できれば大勢の人と対話ができるじぶんになりたいが、まだまだ傷つくのがこわくて壁をなくせる相手はごく少数だ。

でも、その状態でも議論ならできる。

議論は会話と対話の真ん中のレベルにある。

ある目的の達成のために、お互いの資源、リソースを使い果たすコミュニケーション。

これは隠し事が部分的にあったとしてもできるし、かつ現実もわりと創造しやすい。

まず会話、それから議論、そして対話。

人間に生まれたことを喜びながら、もっと言葉と仲良くなってコミュニケーションをたのしんでいきたい。

 

ちなみに対話は内向きの方向で行うことも可能。そうするとこうなる。みんなできる、特別ではないこと。

神との対話 普及版〈1〉個人的な真実について

神との対話 普及版〈1〉個人的な真実について

  • 作者: ニール・ドナルドウォルシュ,Neale Donald Walsch,吉田利子
  • 出版社/メーカー: サンマーク出版
  • 発売日: 2001/01/01
  • メディア: 新書
  • 購入: 1人 クリック: 5回
  • この商品を含むブログ (10件) を見る
 

 

 

堀江貴文『捨て本』読んだ / 捨てるたび自由になる

 

読んだ。

捨て本

捨て本

 

ホリエさんの本は今まで2冊くらい読んだことがあったけれど、どの本よりこれは読んでよかったと思った。

特に受け取ったのは3つ。

1. モノを持つ=余白が減る

2. モノを捨てる=価値観の意図的な再構成

3. 時間が最も重要な資産である

特に3番目はいろんなひとが言ってるのを聞きながらも今まであんまり理解しきれなかったったところが、この一冊でやっと腑に落ちた。

モノを持つ=余白が減る

モノを持つにも種類があるのだと本のなかではホリエさんの人生に沿って時系列で何を得て何を捨ててきたのかが紹介されていく。

それぞれのエピソードを通して、この本は絶えずある質問を読者に投げかける。

あなたはあなたの必要なものがわかっていますか?

ー序章より

構成はとても親切だ。

そもそもモノを持つという行為が意味するところ、モノを捨てる過程に起きる変化、その後のアクションの変容について。

モノを持てばもつほど動きのスピードは遅くなり、モノに付帯する情報や記憶は思考のスピードも落としていく。

軽やかに選択を繰り返し人生をよりたのしむために「本当に必要なもの」を持ち、不必要なものは捨てるべきだと、本書はいう。

それぞれのエピソードで説明されるモノを持つor捨てる選択基準は、あくまで堀江貴文のもので、読者はそこを一致させる必要はない。

とはいえ、読みながらわたしはまだここまで意図的にじぶんを生ききれていないなとじぶんの基準の甘さから思ったよ。

そして、モノを持つことの最も大きな影響は余白が減ること、これはポジティブでもネガティブでもなく、ただそれだけのことだと受け取った。

でも、ああ一旦ぜんぶ棚卸ししようって、目に見えるモノ目に見えないモノ、どちらに対しても思った。

モノを捨てる=価値観の意図的な再構成

なによりも「捨てる」という行動に至る前の、その直前までに行われる意識の動きが興味深い。

たとえば断捨離ブームのきっかけになった近藤真理子著「人生がときめく片づけの魔法」ではその基準はトキメキだった。

トキメクならのこす、トキメカナイなら捨てるというとてもシンプルなルール。世界中でブームになるくらいシンプルだけど意味深い感覚「トキメキ」。

ホリエさんの書いている内容はそれをさらに深掘りして、ジェネレーションや社会で生きるなかで後天的に身につけた習慣やモラルから「いかに捨てにくくなっているか」を説明してくれる。

特に家族や離婚経験について語る箇所は最高だった。

時間が最も重要な資産である

これらの「捨て」はすべて、「わたしがわたしとして生きる」ために必要だから行うアクション。

削ぎ落として削ぎ落としてのこるものは時間なのだと本には書かれていた。

それは、より生産的に生きよ!ということでも、周りに置いてかれるぞ!ということでもなく、「せっかく生まれてきたんだからさ」というようなメッセージに聞こえた。

せっかく生まれたんだから、あなたの人生を生きようよ。

それが一番生産性たかいよ。

不安や思い出に心や頭をいっぱいにしないで、やってみたいことやりなよ、喜ばせたいひとを喜ばせなよ。

そんなメッセージが詰まった一冊だと、わたしは思った。

捨て本

捨て本

 

読んでよかった!

 

愛するということ: 唯一無二なパートナー的感覚の消失

彼が石垣へ帰るので仕事を終えたあと空港へ送る。

送るといってもわたしは車は持たないので、タクシーにふたりで乗り込む。今回くっつけるのはこれが最後かと考えながら肩に頭をもたれさせていた。

クーラーで冷やされた腕がぴたぴたとときどき触れるのが心地よかった。

 

空港で久しぶりにパートナーシップについて話をして、そしてその時間はわたしにとってとても幸福だったので整理して書き残しておきたい。

f:id:pidakaparuna:20190810222544j:image

"付き合う"とは?

大学入学してすぐに好きになり、半年後には一緒に暮らしはじめて( 勝手に部屋にあがりこんで ) その後5年間くらい同じ部屋にいたわけだった。

一緒に暮らす期間の終わりはちょうどわたしの23歳の誕生日で、彼は石垣島をまわる素晴らしい旅をプレゼントしてくれた。

そのあと遠距離になって、今年で2年目。

とはいえ出張だったりイベントだったりで、だいたい1〜2ヶ月に一度は会えるようなスケジュール、最初こそ寂しかったけど、徐々に慣れていく。

大学の初めから、この会っていた期間は誰かに「付き合ってるひといるの?」と尋ねられたら、心のなかで「(付き合うって何?)」と返すことはあっても口では「大学の最初の頃からうんぬんかんぬん=います」と答えた。

付き合う=〇〇

付き合うってたぶん、単一のパートナーシップを築いていると言い換えられる。

ポリアモリーやアセクシュアルといった性的志向を知るなかで、必ずしも単一とは限らない、セックスをする関係というわけではないと認識を改めていった。

とはいえ、わたしにとっての"付き合う"は、唯一身体を重ねてもいいと思える相手で、どんなにパーソナルスペースを侵略されても嫌じゃないという身体的な感覚によって確かめられる心の安全の担保された関係を意味する言葉だった。

それを理解し始めてから、彼氏ではなくパートナーだと形容するようになっていく。

つまり、漫画やドラマや他者との会話によって後天的に身につけた恋愛観から抜け出して、じぶんの身体的な知によって見つけた感覚に”パートナー”と名前をつけた。

関係の変化

さて、今回彼と3ヶ月ぶりに会えて、とっても幸せだった。でも、ひとに彼を紹介しようとしたときにパートナーという言葉が口から出てこなかった。

それをきっかけにして、空港でお互いのパートナーシップ観について話をすることができた。

彼もわたしも、今相手がいる地域にやりたい仕事がないこと、今相手といることだけを喜びに生活を変える気はないことが同じだった。

そして、パートナーという感覚は今のわたしにはなく、彼はそれについて考える性質ではないということを伝えあった。

話終わったあと、わたしはわたしの厄介さが嫌になり泣き、彼はいつも通り誠実に、優しい顔でそれを見ていた。

誰かに唯一無二のパートナーはいるかと尋ねられたとしても、彼のことを話さなくなるということは、これまで暗黙の了解としてあった彼以外のひとと関係を深める(身体的な関係を持つ)タブーをじぶんに許すことを意味する。

「あなたは哲学に脳のパワーをさける」と彼がわたしのこれについて形容したのが印象的で、そして嬉しかった。

彼はほんとうにわたしの良き理解者だ。

とっても大切だし、できることなら年を重ねていく様子を見ていたい。

???

で、結局なんなんだ、と書いててじぶんでも思うのだけど。

よくわからないけど、わたしにとってはすごく大きな話だった。

そして、今とっても興味がわいていて、ちゃんと会って話したいひとがいると彼に伝えたときに「会ってみたほうがいいよ」と彼が言ったのも大きかった。

わたしがパートナー的な感覚を消失したこととそのひとの登場は時系列から見ると関係ない。

会えるかもよくわからないしね。苦笑

うーん、まだちょっと、まとまってないんだけど、彼が「付き合う」とか「パートナー」とか、そういう言葉を振りかざさないことも、契約的にわたしを拘束する気が全くないことも、誠実に話をしてくれたことも嬉しかったし尊敬したので、書き残しておきたかったんだ。

以上です。

 

愛するということ 新訳版

愛するということ 新訳版

 

 

 

雨の日の朝のこと

雨、雨、雨。

10000年かけて落ちてきた滴が、また10000年かけて天に昇っていく。

雨。

ここ最近はずっとお日様に起こされていたので、雷鳴にびっくりして目を開けて、さらに驚いた。

空も、ベランダも、部屋の中もみんな灰色だったからだ。

美しい灰色と美しくない灰色があるけれど、今朝のそれは美しいほうのそれだった。

雨の日も雨の日なりのきれいがある。

雨の日独特の湿気、髪がふわふわとまとまらない様子、お風呂場までもがなんだかいつもと違う雰囲気で、身支度をしながら心がそわそわするのを感じていた。

わたしの朝は、毎朝「なにを着たい?」「なにを食べたい?」というじぶんとの会話から始まる。

今日は昨日から決めて準備していた白いのと青いズボン履こうと、そういえばベランダに干したんだったと慌てて取り込みに走る。

同居人のぽんの洗濯物もついでに取り込む。

ギリギリセーフ。

バスの時間を確かめてからシャワーを浴びる。今日は洋次郎にしよう、そう決めて「ひーまーじゃないんだよー」と歌いながら髪を洗った。

とってもリスペクトしてる大学の教授が洗濯物は塩で洗い、石鹸はほとんど使わないということを教えてくれて、影響されやすい性質というかなんというか、シャンプーを使うのは週に一度くらいになった。

気分でオイルをつけるのだけど、今日はつけすぎちゃって髪がベタベタする。いい加減というのは何事もむずかしい。

いい加減。

いい加減にしないと、と思うことがわたしにはいくつもある。脱ぎ散らかした洗濯物、食べかけのタコライス。

同居人の堪忍袋の尾が切れる前には片付けようと、目を半分つむって玄関へ。

雨だと水が跳ねるんだよなぁ、お気に入りの島ぞうりはしまって、金色のギョサンに足を滑り込ませる。

傘、傘、口に出しながら傘を選ぶ。赤いのかビニールか。迷った末のビニール。赤いのは少し小さいから。

車が来たら水がかかるから厳戒な警戒態勢をとりながら歩く。

雨は強くなったり弱くなったり、そのリズムが傘から透けて見えるのがたのしい。

ビニール傘を選んでよかったなとにんまり。

横断歩道の待ち時間がながい。歩行者の人権ないよなーと口を尖らせながら待つ。

「沖縄じゃ足がないと大変だよね」

最近立て続けにみんなに言われるなぁと思いながら、ううむと考える。

実のところ、わたしはあんまり大変だと思ってない。

バスに乗ると、いろんなひとが町に生きてることを知ってなんだか安心する。

どこも悪いところがないように見えるのに毎朝病院で降りるげんきなおばあちゃん、小さい子とふたりで乗り込んで窓の外からパトカーを探すお父さん、手持ちの扇風機でだるそうに顔に風をあてる高校生の女の子。

みんなが暮らして世の中ってできてるんだと忘れずにいられるからバスに乗るのが好きなのだと思う。

それに、バスだって知ってる人が送ってくれるのもいいところだ。

車のなかでしかできない話が意外とある。
うたったり話したり、笑ったり、ぼーっとしたり。

助手席ってとっても好きだって、昨日の夜も思ったよ。

、、、でも、今日みたいな雨の日で、しかも同居人は多忙、タクシーに乗るほど焦ってもないってなるときは話は別。

あ〜、車買おうかしらー。

だなんて、迷ってもないのに口からため息と一緒に独り言が出るね。

あ、バスが来た。

ドラムのレッスン、間に合うかな。
スティック忘れてしまったけど、怒られるかな。

24歳になっても新しいこと始められるのね。

何歳になっても、その日が一番若くて、その次の日はその日にち分だけ歳を重ねているんだね。

10年後の34歳のとき、わたしなに考えて生きてるんだろう。

想像もできないや。

今日はどんな日になるかな。
なるべくたのしもう。

おしまい!

f:id:pidakaparuna:20190802094601j:image