NOW 500→1000

めまい/行ってくれるな/25

数日めまいが止まらず、やや途方に暮れている。仕事をしようにもディスプレイを長い時間見ていられない。

美味しいものを食べて好きなだけ寝ているので、どこに具合がわるくなる要素があるのかよくわからない。

とにもかくにもハラに力が入らず、困る。

こういうときは言葉にも力が入らない。

意味を込めたいのに、その前に口から音がもれていく。

意味も込められないまま、空っぽの会話ばかりが続く。

悲しい気持ちになって泣いてしまう。

前は、おばあちゃんと話せば治ったり、よく眠れば治ったり、自然に触れれば治ったり、マッサージ受けたら治ったりと、工夫できていたけれど、近頃なかなか治らない。

身体と心が、次の状態になろうとしてるのを感じている。

わたしはまだ、その状態になることを心から望んでいないのに、すこしだけ芽生えているその望みを内側から察知して、先に肉体が変わろうとする。

まだ、まだ、このまま。

思っているけれど、状況がそれをゆるさない。

どんどんと変わってしまう。

寂しくて、またうずくまってしまう。

喜怒哀楽、すべてのなかにじぶんがいる、じぶんのなかに喜怒哀楽のすべてがある。

f:id:pidakaparuna:20210325201753j:image

とにかくぼーっとしている。ときどき浮上しては仕事をこなし、また戻ってぼーっとしている。

めまいはわたしにとってどんな意味があるのか、考えてもてんでわからない。

わかるのは、変わっていくことがさみしいということだけ。そしてそれはすべてのものが移り変わる星のうえ、抱くだけ滑稽な感情でもある。

長く時間をかけてこれを書いた。

変わっていくことがさみしいと思う分だけ、目の前の現実を愛おしく思っている。

たのしいことばかりじゃない、笑っている時間ばかりでもない、でもとても大切な関係、大切な時間。

今しか味わえない全てを、全身に浴びながら、今日もめまいと暮らしていた。

いつなおるんだろ、めまい。

終わっていく25歳へのこの気持ちを、わたしは表しきれない。

まじりあう/ むずかしい

「においがする」と、するするとした触り心地のじぶんの腕に鼻をあてて思う。

気だるくて起き上がるのもおっくうで、なにもかも知らないふりをしてこのまま眠っていられたらと思う。

そんなことはできないので、(失うものの量を考えると選べないので)、のそのそと立ち上がり、ぱしぱしとじぶんの身体を叩いてそこにいることを確かめ、シャワーを浴びる。

なにをシェアしているのか

電話が終わった後、わたしのそばに漂う気配はまさにそのひとのもので、それは安眠剤になることもあれば、カンフル剤になることもある。

電話の先にいる相手がなにを受け取ったかなど聞けるはずもなく、わたしはわたしが感じたものだけをあの世に持ち帰れるのだと改めて諦める。

同じように空間や時間を共有している間、見えない領域で色が混ざり合い新しい色をつくるのを見る。

新しい色はお互いのなかに少しずつ入り、ときとともにそのひとのものと一体化する。

食べ物を食べること、眠っている間に空間を離れ混じりあっていることなどとも似ている感覚としてある。

ぜんぶで吸って、混じり、ぜんぶを吐いて、混ぜて、の繰り返しのなかにいる。

f:id:pidakaparuna:20210304172419j:image

食べ物がわかりやすい?咀嚼して飲みくだし、気づけば肉体に変わっている。

バイアス、色眼鏡

うちのおばあちゃんは「ひとから聞いた誰かの話は一切信じない」ときっぱり言うほど噂が嫌いだ。

理由もわかりやすい。

そのひとと対峙するとき、先に入れた情報で相手の発している信号を歪めないほどの感受性など、持ち合わせているひとのほうが少ない。

騙されるのも、信じるのも、誰かではなくじぶんが決めること。

そのための感覚や基準をまだ持たない子どもは守ってやらねばならないが、大人はすべてが自己責任。

やるもやらないも、信じるか信じないかも。進むのか戻るのかも、じぶんで決められるはずと信じている。

本当には

誰も本当には他者を傷つけることなどできない。わたしも、あのひとも、そのひとも、どのひとも、である。

「傷つく」ということが起きるとき、そこにあるのはひとの行為や言葉や態度をじぶんの内にいれること、それらとじぶんとの関係づけること、またそれらをまとめて翻訳する過程のような気がしている。

ひとの話を聞いて、もしくは架空の一般論を聞いて傷つくのは、じぶんの内に重なるものがあるから、思い当たれるデータがあるから。もしくは回路がつながっているから。

(個人レベルではないアイデンティティで「傷つく」場合はまた別だけれども。)

ひたすらにじぶんを

そう思いたいということばかり言葉になって出てくる。

わたしのしていることやしたことが誰かをどこかで傷つけるのではないかという類の考え事は気遣いではなく傲りだと、しかし自身の行為には批判的であれと、なぜ「良き存在」としてありたいのかさえわからないまま、浮かぶ言葉に翻弄されながら日々を過ごしている。

そしてまた、この一連の思いごとは「あなたの何もかも、それらによってわたしが傷つけられることなどひとつもない」というメッセージとなって、じぶんを強くする。

それは同時に相手を責めたいと願うじぶんの弱さを捨てることでもある。

そのひとを責めることや、その行為や制度を責めることは、それに影響を及ぼすことができないじぶんのレベルの低さをあらわすだけの意味しか持たない。

批判と責めることは違う、ポジティブを履き違え願いを並べることも違う、「これじゃない」「これが近い」ダウジングマシンみたいだと思う。じぶんの心の揺れ方を見つめながら生きている。

怒ること / じぶんを磨くというのは

みずえさんがくれた山盛りのタンカン
近しいひとたちに分け分けして
じぶんでも1つたいらげて
おばあちゃんとおじいちゃんにもあげて
数もぴったり、いい気持ちで食べ終わった

それは「調和」のとれた出来事だった

自然がもたらした恵み
それを分かち合うこと

f:id:pidakaparuna:20210226213537j:image

今日はすごく腹が立って
わなわなと震えて、カーッと頭に血が上り

そういえば怒るというのはこういうことだったと
そんなことを思った

無意味にぶつかることには意味がないけど
怒ること自体は悪くないなと思った

なぜならば

「わたしはわたしである」

ということと

「絶対にそれを諦めない」

ということ

くわえて

「負けてたまるか」

という決意がさらに磨かれるからである

わたしはすごくは強くないけれど
そんなに弱くない

そして、そんなことには負けない

誰かの考えや、一見常識のように見えること
それらに無思考によりかかり
選択の基準を誰かに依存すること

わたしは絶対に選ばない

そのままで、今思い描いていることのために良い部品となり、今思い描いていることを現実にするために時間を使い

それらの工程すべてを余すことなく味わい、すべての行為をたのしみ尽くし、怒りも嘆きも含めてどんな感情もじぶんのものとして受け入れて進む

同時に生を享受し、しっかりとそれを喜びながら生きる

それが両立している状態が、わたしの暮らしにおける「調和」が取れているということだと思う

それは冒頭のタンカンにまつわる一通りと、全くぴったりと重なり

それと似たような構図が社会のなかでも

ーー

誰かの行為や考えを頭ごなしに、または無思考に批判できるほどわたしは偉くない

そんな偉さは死ぬまで身に付かない

「お前そんなに偉いのか」

というずっと前に言われた叔父の言葉が正気に戻してくれた

調和

まだ見えてこない、が、かけらは掴めている

怒りは原動力にはなれど手法にはならない
誰かを裁くような偉さは死ぬまで身に付かない

そんなものはいらない

もっと現実を通してじぶんを磨かなければ!と思う

それこそが、みずえさんとよくよく話す「たのしむ」という概念そのもののような気がしている

たのしむは奥が深い
今日のような怒りもそこには含まれる

たのしむは、奥が深い

ーー

すべてのひとが、そのひとであれるなら
生まれてくる子どもらが、その尊厳を守られながら成長できたなら

世の中が良くなるスピードはずっとはやくなる

それも調和のひとつ

ひとつずつ目の前のことを通して

ひとつずつ、ひとつずつ

ゆっくりコツコツ

積み重ねる

と思った日だった

こんな気持ちに負けたりしないぞ
って強く思う日だった

なんで?と問い続けるのをやめない目的は、意固地になることでも、他者を征服することでもない

ただよりよく生きるため

でくのぼう のまま死なないため

なのだと思う

770 / ひとを好きになることは

味わい深いテーマなんだろうと思う、3泊4日、まるで仕事のことは考えずに過ごしながら、「なにがしたい?」「なにが食べたい?」と聞かれまた叶えてもらいながら、ずっと静かにじぶんの心を眺めていた。

f:id:pidakaparuna:20210214151630j:image

ひとを好きになることはなんて苦しくて嫌なことなんだろうと思ったのは2018年だった、よく覚えている。

感覚的にお互いを理解したひとであっても、対話ができなければ誤解を深める。

畑づくりの最初に大きな石を取り除いていくように、じぶんのなかにある思い込みや観念を見つめ取り除いていく作業には忍耐が必要で、さらにそれを相手との言語の距離や違いを微細に感じながら翻訳していく作業には根気がいる。

それを放棄してしまえば途端に大きなエネルギーであった好きという感情がお互いをコントロールしたいという醜い欲求へと変貌し、結果として深く深く傷つけ合ってしまう。

どんなふうに好きだと思ったひとを大切に、そして真っ直ぐに、素直に関係を深めていけるんだろうと悩んだのは2019年だった。

目を合わせるよりもずっと前に、その日がはじまる前に、今日がその日であることを朝起きたときには感じていた。はじめての感覚だった。

空間のなかすぐにわかった、目を合わせたときにそれは確かなものに変わった。

感覚は欲しいという、そのひとと時間と空間を共有することで得られるものや生み出せるものがたくさんあることを、わたしよりも先に身体が知覚する。

だけれども、現在の時間軸のなか現行する社会制度のなか、どうやってその感覚と折り合いをつけるべきなのか、苦しんで苦しんで苦しみ抜いた一年だった。

とはいえ、考えられる全ての影響を浮かべ、ひとつひとつに答えを下していく過程は、そのままたくさんの思い込みや隠れていた恐怖と対峙するプロセスでもあった。

そんな時間を過ごしながら、2020はまったく違う年になった。じぶんの枠を超えて相手とコミュニケーションを重ねる術を得て、コントロールの欲求に打ち勝ち、ほんとうの意味での自由をじぶんと相手とで共有しながら、じぶんの気持ちを眺めるようになった。

この気持ちは誰のものでもない、そしてこの気持ちは本質的には誰も傷つけない。

それがわかってから、ずっとずっと深く呼吸ができるようになり、周囲のひとにより多くのものを共有できるようになった。

じぶんの範疇のなかに入ってくる存在は多くはない。

ただ、単一である場合が多い今の社会のなかで、もしくは単一である方が管理がしやすいという点でそうなった制度に感覚や思考を委ねているひとが多いなかで、じぶんはそういうタイプではないようだというのもよくわかった。

そして、それは間違いではない。違いがあることは社会を持続させるためには不可欠であり、たまたまわたしはそれをよくわかるようなポジションに配置されただけのこと。

今わかるのは、今のじぶんをしっかり感じていれば大きく間違うことはないということ、ひとを好きになることは枠を超えていくために、より現実を創造する力を強めるために、必要なエネルギーだということ。

今年は今年で今までとまた違う学びがあるのだと思う。しっかりぜんぶを体験しながら進めるといい。

生きるということ 新装版

生きるということ 新装版

 

 

 

誰かが褒められるのをみたときに / あなたの話が聞きたい

ひとつひとつの心の動きを書き出さなくても、考えたことを言葉にしなくても、毎日を過ごせるようになってしまった。

それはひとつきっと成長といえるかもしれないし、いえないもの、はじらいのようなもの、人の目を気にしているからなのかもしれないとも思う。

でもいくつか思い出したことと、忘れたくないことがあったので書き出しておきたい。

誰かが褒められるのをみたときに

大学の頃、日付が超えるまであの頃働いていた柔らかい明かりのコワーキングスペースで夜な夜な話していたときのこと。

(このブログを書き始めたのはあそこで働いていた頃!)

友人が言った言葉を今でも覚えている。

「誰かが褒められたときに、苦しくなるひとと、なんでもなく同調できるひとの2種類がある」

ぽかんとしているわたしに重ねて例えてくれた。

「目の前にケーキがあるでしょう?」「世界にひとつしかないケーキをみんなで分け合ってると思うか、それともそのケーキがひとりひとつ1ホールあると思うかの違いだよ」

つまり、誰かが褒められて苦しくなるひとは「じぶんが褒められる分が減ってしまった」「あのケーキが与えられないじぶんなんて」と落ち込み、誰かが褒められるのを喜べるひとは「ひとはひと、じぶんはじぶん」が身についているということ。

ケーキを食べるたび、わりとこの話を思い出す。

f:id:pidakaparuna:20210208091235j:image

あなたの話が聞きたい

こないだの夜だった、向かい合って久し振りにゆっくり話せるのも嬉しく、ついつい質問モードに。このひとはこんな風に考えている、こんな感覚で生きている、リスペクトしている大人の先輩の感性はいつも面白くて、内面をもっと知りたくなってしまう。

そんななか「はるなさんの話が聞きたいなぁ〜」と半ばやや強引に話が変わり、すっかり動揺してしまった。

質問が嫌だったかなとぱーっと思考は走るも霧散。切り替えて考えようとするも、なんだか照れくさくてもじもじしてしまう。

「あなたの話が聞きたい」とまっすぐに言葉にされたときに、こういうことを言葉にできるひとだから、ついていきたい、一緒にお仕事がしたいと思ったのも今振り返っているとよくわかる。

そんなことがまっすぐ伝えられるのって、とっても素敵なことに思えるからだ。

わたしはまだまだじぶんのことは上手に話せない。喋りすぎたり、ぜんぜん喋れなかったり。

さらに「なにがやりたい?」と尋ねられ、またフリーズ。

練習させてくれてありがとうと思いながら、たった一度の本番で答えたのは「もうひとつ上の視座で」「できることを数字でも捉えたい」というふたつだった。

問われてはじめて認識するじぶんの気持ち。

見つけてくれてありがとう、見出してくれてありがとうと、たくさん思う夜だった。