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障害者雇用についてお話を伺う機会があり
そのプロセスを聞きながら、たくさんのことを考えた

マジョリティではないなにか
つまり社会のなかで当たり前や普通とされていないなにか
そういったものに光を当て考えることは
同時に当たり前の形への疑問符を明らかにする工程で
よりよい形、それはより息をしやすい形を探す道のりだと

最初に数で揃える

最近バズってた女性の登用に関する記事も思い当たりながら、、

数を揃えることをルールにするのは
強制的に一歩を進めるうえでとても効果的

ノウハウがたまってようやくできる
で、ほんとはどうしたかったんだっけ
という議論

そのさきにみえてくる
こんな未来がいいよねという腹を割った話

綺麗事を語る担当者よりも
反応が顔に出る担当者のほうが
結果としていいことになっていくケースが面白い

それは本音が表れているからと
そんなエピソードも面白かった

わたしたちは人間として繋がって
人間として仕事をしている

きれいごとでおわってしまうだろうか
そうしないためにできることはなんだろうか
矢印をぐさぐさじぶんに刺しながら考える

複雑なものをシンプルに
もっともっと簡単な言葉で
みんながうちあたいするポイントを探して
そのあとの流れをイメージして

時代は毎日変わっていく、進んでいく
状態の変わらない植物がないことによく似ている
子どももすくすく大きくなる、それにも似ている

ひとつの大きな生き物のように社会を感じる

それがある日突然
種が芽吹くみたいな変化
そういう変わり目がここ数年なのだとしたら

関われているお仕事それぞれで同じような課題
同じだけれども違う解決策、動き方
そのおかげで広がっていく新しい関係

ぐんぐん進んでいく企画たちのなかで
わたしはなにができるのかなぁと
心細くなる瞬間に

思い出すのは眼差し

ゆっくりとこちらをずっと見つめるその視線
今日も、こないだも、その前も

ほんとうの気持ちの交換

嘘を乗り越えて
まっすぐ

くだらないかもしれないこんな気持ち
それでも走る衝動は

信じていいものだとおもいたい

それを感じるのもわたし、決めるのもわたし

なにかと引き換えではなく
もっとほんとうの意味でただ在る

見つめて、見つめ返して

ほんとうのことがそこにありますようにと

ほんとうのことがここにただあったのだと

そうただ思う

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言葉にすれば

引っ越しをするために
本棚の整理から手をつけて

一冊一冊のページの隙間から
こぼれおちてきた言葉たち
それらがどれだけ
今まで何度もわたしを助けたか

相似値だからか
記憶の地図のなか
同じように
だれかのひとことがわたしを助けてきた
その瞬間を思い出して
数日前に失った
大きな存在を思い

なにも失っていないことを
本質的には理解しているのに
心よりも肉体が喪失を訴えるので

寄り添うようにして、すこし泣いた

よ、というのを

誰かに聞いて欲しかったけど
誰に言えばいいかわからなくて固まったので
書きのこしている

SNSに書くようなことではないと
思うのだけれど、、

日々の暮らしはなんだか水泳のようで

息を吸ってるとき、潜っているとき
みたいに

仕事と 生活と

そのふたつの世界を行き来していて

それと似た形で

顕在的 潜在的

現実の世界と、そこで感じたものを成熟させる内側と
そのふたつの面が

すれちがう人たちみんなのなかにある
と思うと

なんだか、すごい世界だなと
改めておののく

おののいたあと

失った という感覚に支配されていた身体が

ゆっくりと緩む

緊張と弛緩と

と、書いて

それらの感情の動きや
脳みそのうごめきみたいな雑音から

距離をとるじぶん

を眺めたら

また仕事ができる心の落ち着きが帰ってくる

もう一回、はたらこう

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写真は、遠くから届いたクッキー
嬉しかった

ずっと会えていなくても
そのひとのなかにじぶんがいたり
じぶんのなかに相手がいること

それをときどき
嬉しく思い返していること
いつくしんでいる瞬間のあること

伝えられる手段として
お中元っていいものだと思った

という1枚

失う

大変なときに遅くまでごめんなさいと言ったわたしに、しっかり目を合わせながら「いいえ、むしろ嬉しいんです。外で仕事をしていた時間の様子を知れるから。」とおっしゃった。

まだ気持ちを消化できていない、短期間にいろんなことが起きすぎて、なにもかもついていかなくて昨日から頭が割れそうに痛い。

それでも、そのなかでふたつはっきりとわかったことを言語化して身体の外側に出してしまいたくてこれを書いている。

ひとつめは、見たままを、聞いたまま、感じたままを信じると決めたということ。

生まれてから命を終えるまで、そのひとのすべてを理解できることは一瞬たりともない。目の前に確かにいて、何度も感情を露わにしながら議論を重ねて、言葉を尽くして、身体のかたちを覚えても、そのひとのことをすべて知ることはこの世にいる限りあり得ない。

どれだけ愛して愛されていても、生まれてくる前のスープのような分離のない状態に比べ、生まれ落ちたあとの個体として境目を持つ一時的な状態では、おそらく目を覚ましている間ずっと、じぶん以外のなにかを理解しきるという状態は生まれない。

目を合わせるとよくわかる、手を重ねてもわからないことが強いリズムで伝わってくる。そのひとのなかに確かに空間があり、そこは非常に広く深く、内包している世界はひとりひとり異なり等しく素晴らしいということが、目を合わせるとよくわかる。

受け入れるか拒絶をするか、その2択しかない。もちろん適切な距離を取るというようなグラデーションはのこされているけれども、生物的な判断でも、思考的な判断でも、どちらにせよ大まかにはその2択に集約される。

愛している、何度も口にする、尊敬する、好きだと思う、それを伝える先の相手の形を、それを伝えることを通して実は潜在的に造形し境界を設定していたと思い知るのは、相手がその形から大きく逸脱していたことを知らされるときだ。

冒頭のようなポジティブな逸脱もあるのと同じようにネガティブな逸脱もある。しかしそのどちらも「じぶんにとって」ネガティブかポジティブかというだけのこと。

目が覚めている間できるのは、受け入れ続けることだけ。選ぶことだけ。距離を置くことは悪いことではない、お互いにとって最適な関係がそこにあることのほうが重要。

そしてこの考え事と同じ系列に存在するのが、「わたしの感覚はわたしだけのもの」ということだ。

身体があることと、身体がないこと。

その大きな違いは、別の個体としてコミュニケーションがとれる、つまり思いや言葉や知識、視線の交換ができるかできないかにある。

確かに失ってしまったはずなのに、わたしは依然内側で声を再生し、彼がなんと答えるかを予想することができる。失ってはじめて聞こえた言葉もあった。

それでも、それはわたしの内側で起きていること、境目の内側で起きるそれは、現実とも妄想とも判断することのできない曖昧なもの。

しかしそれもまた、じぶんにとって納得のできるものであれば、わたしにとってはひとつのゴールとなる。

誰も知っている人のいなかったこの場所に、8年前、なにがあっても助けて面倒をみてくれるひとたちと出会わせてくれたひと、期待に応えられず思うような結果は出せなかったのに繰り返し向き合って直接指導をしてくれたひと、そして何より、わたしらしさを初めて口に出して褒めてくれたのは先生だった。

それまでの情けない人生を聞いたうえで、先生が言った一言をわたしはなぜかずっと忘れていて、あの日写真と向き合っているとき突然それを聞いた。

他のひとにエピソードとしてシェアをしても、癒されることなどない、存在はそれぞれにそれぞれもっとグロテスクだ、それを超えて在り続けるからこそ、内包しながら立ち続けるからこそ生きていくことは肯定され、美しささえ感じる。

大切にしてよいのだと思った。

じぶんのなかにある世界を、大切にしたいと思った、同じように広がっているであろう他のひとのそれを。

なにもコントロールしたくない、それぞれに自由であることが心地よい。それを信じたい。

すべてのひとがすべてにおいて自由な状態はひどいと耳元で聞こえた声に、わたしは心のなかで否と言った。

そんなことはない。人間はもっといいものだ。個体としてあるうちは個体をたのしまなくては。わたしはもっとわたしの感じていることを大切にしていい、それは誰かを傷つけることにはならない。

繰り返し開いた聖書のなかに書かれていた言葉のほとんどは忘れてしまったけれど、ふたつだけ、覚えている。

「はじめに言葉があった」

そして「真理はひとを自由にする」

ふたつともその通りだと思う。仕事を通してどのように表現を重ねるか、わたしは頑張り方を変えなければならない。

生きている時間は短い、思っているよりもずっと短い。もっとたくさんのものを見たい、食べたい、感じたい、着てみたい、歩きたい。

久しぶりに聞いた先生の声、もう聞けないのは悲しい、とても悲しい。

これから何度もこの瞬間は訪れる。

個体として分かれているだけで、潜在的には意識を共有したひとつの群であると、その度痛烈に実感するのかもしれない。

なにも失っていない。最初から、なにも。

ひとりの限界 / チームをつくる

今日終わったイベント、昨年度も3回開催した企画で、今回が4回目。今回が一番「ここまでやりたい」が実現できた回だった。(もちろんまだまだ改善できるけれど)

理由は明らかだ。それはチームをつくり、チームで動く仕事ができたから。わたしにとっては人生で初めて加わる側ではなく仕切る側としての企画だった。

いろいろと忘れたくなくて、打ち上げと称して20時に焼き鳥を食べ終わった後爆睡してしまって変な時間に起きちゃった今これを書いている。

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体制は変わる

今取り組んでいる仕事は2019年から始まったので、今年で3年目に入ったことになる。最初の半年は暗中模索だったが後半にはカチッとはまった。

ベテランスタッフと機材に強いスタッフと、なんというか相棒のような形で動きながら企画を実現する1年半だった。

そこからメンバーが少しずつ入れ替わるもののその3人の体制は変わらず、それが変わったのは今年の4月から。

一緒に動いていたその2人が事業から離れたことで体制は大きく変わった。

というか、実質ひとりになったのだ。

ひとを頼る

どう想像しても業務が回せるイメージがつかず、ひとり増やしてもらった。それも一緒に暮らしていたくらいに信頼を寄せている友人をである。

友人としての素敵さは言うまでもないが、彼自身学生ベンチャーの経験やひとりのプレイヤーとして業務を請け負うなど、仕事の力量も素晴らしいひとだ。

そんなわけで4月から二人三脚で事業を回しながら、あるときハッとする。

わたしは過去2年間のこの仕事で「ひとに任せる」をしたくがないために、たくさん失敗してきたのだと。

ひとりでできることの限界

2020年度の終わりまで一緒に働かせてもらったメンバーふたりも本当に素敵なひとたちで、わたしは今でも彼らのことが大好き。

しかし、ふたりとも年上だったこともあり、わりとなんでも「わたしがやります!」と食い気味にタスクを引き受けてはパンクして、土壇場で「助けて下さい」と泣きつきながらなんとかこなす、、みたいな失敗パターンが多かった。

何回も「なにか手伝える?言ってね?」と手を伸ばしてくれていたのに「大丈夫!」と答えてはパンクしていた当時を振り返ると今すっごくはずかしい。。

得意と苦手

今年の4月から2人で動いているメンバーは積極的に任せてもらおうとする。でもそれは3月まで一緒に働いていたふたりも同じだ。

何が違うか考えると、一緒に暮らしていたということが何よりの違い。それは、わたしの嫌なところダメなところを知り尽くしている相手だからこそ弱いところを見せるのに躊躇しないということ!じぶんの苦手な業務を打ち明けやすいのだ。

これが最大のいいことだと思う。

なんでもやってみたかった過去の2年を終えて、わりと得意と苦手がハッキリしてきたこの頃の日々。

形を描きゴールを設定するのは得意だし、当日表に立って動くのも好きだ。裏でサービスをするのもたのしいし、メールなどの物を書くのも対して苦ではない。

一方で、きちんとした報告書を仕上げるのには人一倍時間がかかり、メールの返信をするのも苦手、情報を吸い上げたり回したりするのも苦手、きちっとリハーサルすることも苦手。

分業と協業は異なる

そんなじぶんの特性をよく知っている彼とは、「この仕事のここはあなたがやるほうが早い」「じゃあじぶんはこっちを」と背中を預け合いながらこなしていくスタイルで仕事がしやすい。

でもそれにはあくまでお互いの業務時間を効率的に使える効果しかない。分業であって協業ではなく、分担にまつわるコミュニケーションは必須なので、お互いが動いた分だけの、、つまりそこには想像できるだけのリターンしかない。

協業、そして自律型チームへの道のり:まずは採用

とはいえ、昨年度までの事業内容をより少ない人数と少ない稼働時間で実現する見込みは立った。しかしこのままでは昨年以上の効果を出すことは難しい。

そう思い、現場監督のように事業を見たり代表との調整を引き受けてくれているマネージャーと相談して、さらに2人の雇用を提案。

実際に5月から新しいメンバーを迎え入れることになった。

もともと面識があった学生だが改めて口説き、彼らがやりたい内容と業務内容が一致しているかをチェックしたうえで、新しいメンバーとして迎え入れる。

この一連の採用も、今振り返ると初めての体験だった。

協業、そして自律型チームへの道のり:ミライはきっと

ひと月半一緒に今日のイベント実施、そしてその先で良いミライをつくるための準備をしてきた。

ひとつずつ丁寧に指示をしながらチェックをして進めたけれど、次回からは同じフレームでもっと早くこの企画は回せるだろうと思った。

その道のりを経て、おそらくこの事業にとって必要な企画を彼らが提案するタイミングがきて、また新しい価値が生まれていく。

それは別の存在、別の世代でないとできないことで、わたしは今たぶんチームで動くという学びと同時に、多様性の持つ可能性も学んでいる。

戦略はなぜ必要か

資源が有限だから。

(教えてくれたのはこの事業でなにかと助けていただいている経営者の先輩。)

定性的な管理の他に定量的な管理や、リソースに基づく適切な制度設計もしていかなければならない。

プレイヤーがちゃんと実力を発揮できるように、役割を明文化し、どこまで権限があるのかをわかりやすくしておくことは自主的に企画を生み出し回すためには必須だ。

それは分業しているだけでは想像できないリターンを生むと思う、ただ手放しに期待するのではなく、想像するラインを超えるために必要そうなものを用意するイメージだ。

今回でコミュニケーションの素地は構築されたはず、ここから積み重ねていけばいい。

チームのプレイヤーとしての仕事、マネージャーとしての仕事、そして事業責任者の視点。スイッチしながら、年度末、3年、5年、10年後に向けて積み重ねていきたい。

仕事はたのしい。

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たくさんのプレゼント、いつもありがとう。

なぜ「戦略」で差がつくのか。―戦略思考でマーケティングは強くなる―

イベントに関する備忘録

昨年度第一回の開催はメンバーとして伴走しやり方を覚え、第二回に引き継いで任せてもらってからほぼひとりで回した。

6人のゲストとメンタリングスタッフの調整、広報物の用意、集客、普段の業務プラスでのなすには「開催する」ことがどうにかじぶんの力量で実現できることだった。

第3回は他団体との連携という新しいチャレンジが入り、メンタリングスタッフを配置せずにほとんどじぶんが面談をしていくスタイルをとった。

これもまたそれぞれとの繋がりが深まり結果として収穫のあるイベントになったが、開催後のまたその先を見据えた運営まではできていなかった。

今回の企画は5月の中旬から仲間に加わってくれた新しいメンバーふたりにほとんど実働を任せながら、こうしたいよね、ああしたいよね、いいですね、こうしよう!と進めてきた。

もちろん反省がないわけなく、悔しい気持ちものこってるけれど、、まず新しく入ってきたメンバーとそれができたことが楽しかった。

これもまた去年加わった仲間が息抜きのお喋りの際にふざけて言った言葉だが「第1回できたことがまる!」というような言葉があって。

わたしは近頃彼らにハッとさせられることが多い。そして仕事が楽しいと口から自然と出る、また楽しそうに働いている姿を見ることがとても嬉しいと感じるじぶんは、なんだかじぶんにとってとても新鮮な、あたらしいじぶんだ。

ニューバージョンになることはコンフォートゾーンから出る恐さや痛みも伴うけれど、やっぱりたのしい。生きる醍醐味がここにはあるなと思う。

気持ちを言葉にすることは

久しぶりにじぶんの気持ちを書き留めておこうと思い、それは少し大切にしたいと思ってあと少しで終わる1000記事までのひとつの記事として。

お風呂に浸かりながら書いている。

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書かなかった1ヶ月

わたしは、いや、どのひとも、わたしの好きなあのひとも日々たくさんのことを感じて考えて思って生きている。

今までは息を吸って吐くのと同じ感覚で、五月雨にそれらを書き出してフェイスブックに投稿したり、ときどき「えいや!」とブログにまとめたりしてきた。

1ヶ月近くそれをしなかったのは、久しぶりのことだった。

書き出していた日々と、しなかった日々。

そのなかでひとつわかったことがあった。

言語化をすることで

毎日同じ日は二度となく、風や湿気の感じ、起きたときの心地や、目の前のひとから受け取るものや目の前のひとへ放つもの、飲むもの食べるもの、ぜんぶが繊細に違う。

そして、そのときどきに起きる心の変化もまた、同じように細やかなグラデーション、二度と同じ感覚、それは快も不快もどちらも、そのままの形や温度で訪れることはない。

似ているものを探しても、同じものはない。

過去のじぶんが書いたものを読むと、まざまざとそのときに感じていたすべてを思い出す。

編集を終えフィクション化された記憶は美しくセンチメンタルでとても美味しい。

現在との差分からじぶんの変容を知るのもまた感慨深く、とにかくたのしい。

つまり「振り返ることができる」「記憶の編集を意図的に行える」といった利点が書き記しておくことにはある。

感情を伴う記憶はそうではない記憶に比べ脳的なインパクトも大きい。

感じたことと学んだことをセットで記録するスタイルによって仕事に関する技術や生き方に関する技術を磨く効果もあるかもしれない。

しかし、それだけなら内向的なコミュニケーション、つまり誰にも見せず書き留める行為に留まってもいい。

なぜひとに伝えたくなるのか、ツールとしてwebに公開されるものが使いやすいのか、それともそれだけではないのか。

「ひとにシェアをする」とは

わたしには何人か「こういうことを感じて生きている」「現実に起きている事実を繋げるとこんな風に意味を解ける」という類の話を共有するひとがそのときそのときのタイミングでいる。

近くなったり遠くなったりを規則正しく繰り返す星々の巡りと似た感覚だけれども、好き嫌いの次元を超えて、その相手はそのときのじぶんと相手にとって必要な相手が配置されている。

それは毎日の出来事に意味を与え、主観的に生きる眼と客観的にじぶんを俯瞰する眼との両方を行き来する効果のあるコミュニケーションができるパートナーとなる。

交換される情報の多くは非常に個人的で社会に晒される意味を持たない。わたしとその相手にのみ意味のある内容であることが多い。

とはいえ、この限定的なシェアにも多分な価値がある。その最も大きな効能は「じぶんはどのように現実を見ているか」がわかる点だと思う。

じぶんの内から外へ

出来事は現実に起きた事実わたしが感じたことによって構成される。ときどきそれに加えて社会的な解釈個人的な意味付けが含まれることで、一見シンプルな出来事が「問題」として人生に出現する。

現実に起きた時点ではその出来事の重たさはゼロ、それに対して意味付けや解釈がのっていくごとに、またあわせて主語が増える、つまり登場人物が増えたりそこに「関係性」という変数がくわわるとさらにその出来事にのる重たさは増え、結果として問題が完成する。

しかし、「ひとに話す」その行為は問題を因数分解する素晴らしい効果を持っている。

なにが起きたのか

それに対してどう感じたのか

今どのような状態か

どうしていきたいのか

といったような形で分類をし、実際に起きた事実と解釈が分かれる。

、、、ここまではひとりでもできる。つらつら書き出せば良い。ひとに話す最大の価値はツッコミが受けられるという点だろう。

あなたのツッコミのおかげで

わたしは特性としてゼロか100か思考になりがちな要素を持つ。黒か白かで世界は成り立ち、そこにグレーは存在しない。特にストレスがかかった状態になると世界がグラデーションから成立していることへの信頼はなくなり、チョウカハンカ!みたいな気持ちになり、絶望感に襲われがち。。

でも、近しいひとの一言は冷静に事実解釈とを分ける。また、実際に起きたこと予想される次に起きることを分ける。さらにいえば予想される次に起きることのパターン出しが、当事者ではない分、ネガティブポジティブの偏りが少ない。

つまり、とっても冷静に問題を出来事へと戻す力がこのシェアの価値である。

なぜ広範囲に向けてシェアをするのか

過去のじぶんの発信を分析すると、「仕事」「はたらくとは」「生きるということ」「愛とは」「恋とは」「好きになるということ」のような内容が多い。

それ以外は「こう感じた」「こう思った」「生きててよかった」というようなお礼のメッセージや喜びの点打ちのような内容、もしくはその逆のものがある。

これは潜在的だろうと意図してこうなっていると今冷静に思う。

後者に関しては刹那的な発信なので特に意味はない、言いたかっただけ、覚えておきたいから書いただけ。シンプルな意図だ。これはツールとして日記などは続かずよく見ていたSNSが手軽だったからそうなった。

前者に関しては、わたしの行動原理はおそらくふたつだ。

ひとつは好奇心、これを読んだ知り合いのひとたちはどのようなリアクションをするか、なにを思うか知りたいという興味。

これは振り返ると実際に回収できたケースが多く、共感や反論から「ひとの欲求や嗜好は多様である」ということへの理解や納得度が増すといういい効果があった。

これに関しては、未熟なまま発信を続けてきてよかったと今でも思う。多様性がなぜ大切なのか、その根拠となる感覚だから。

もうひとつは表明だ。

わたしは今こういう考えを持っている、こんなことは嬉しい、こんなことは苦しい。

それをひとに、それも近しいひとも近しくないひともいる場所で見せるというのは、読んだ読んでないに関わらず、わたしはこんな人物であるという表明を架空の世間に対して行っていることだと思う。

それは同時にじぶんに対してもわたしは今こうですよというコミュニケーションをしていたのだと思う。

この2つの欲求に支えられた発信はわたしをとても強くした。

わたしはなにを感じ、なにを考え、なにを求めているのかを、わたしが知っている。

それは誰かに対して、赤ちゃんのように「幸せにしてください」とお願いしなくて済むための土台である。

今、思うこと

もっとはやく、もっと遠くにいけるひともたくさんいるなかで、のろまな歩みだなと、幼く稚拙だと、じぶんのことを揶揄したい気持ちもある。

でもひとつ思うのは、書くことをたくさんしてきてよかったということ。

そのおかげで今のじぶんがいるから。

だけれども、この数年でずいぶん仕事の環境が変わった。

わたしはわたしだけれども、〇〇のわたし、わたしによって〇〇のイメージがアップしたりダウンをしたりというように伴う責任も大きくなった。

それは事実だ。

なので、これまで書いてきたものを編集もしくは非公開にしていく作業も必要そうだけれど、これから書いていくものも、今までとは違う視点や気合を入れて書いていく必要がある。

それは今いただいているお仕事への感謝の表し方でもあるし、プロになるための、大人としてのマナーを身につけるということでもある。

まあなんと遅い気づきか!とじぶんをつねるけれど、一段飛ばしでは進化できないじぶんなのだから仕方がない。

一方で近しいひとたちとのコミュニケーション、記録の残らない、そのときにしかできないコミュニケーションのなかで、なかなか言葉にしづらい内容に関して議論ができるようになったことも近頃の変化だ。

それはじぶんの枠を超えてコミュニケーションをとるようになったということで、前よりもずっと目の前にいるひとをそのまま愛してコミュニケーションをとれるようになったということでもある。

その日常的な磨き上げのなかで、もう少し遠くにいるひとたちへの投げかけ方を模索し、誤解を生む可能性をできるだけ下げた状態で、より多くのひとの心や解釈について知りたい内容を投げかけられるようなじぶんになっていきたい。

そのステージに立てれば、より多くの仕事ができる、より深くお役に立てるじぶんになれる、そんな気がしている。

ながーい思春期の終わりのような、、そんな恥ずかしさもあるけれど、これもまたひとつの記録として、今このときに言語化して、来年のじぶんがにやにやする材料に、、。

以上!

とても長くなったけれど、言語化、シェアすることへの考え事でした。

読んでくださってありがとう。

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関係ないようであるけど、これ最近読んだなかで一番よかったよ。

オードリー・タン 自由への手紙

オードリー・タン 自由への手紙

  • 発売日: 2020/11/18
  • メディア: Kindle版