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人間として生きる:『たいせつなきみ』

ときどきとてもじぶんについてチグハグだと感じる。

そんな感覚にあるときにはよく一冊の絵本を思い出す。小学生の頃に時折タイミングで読み聞かせられていたあの本を思うのだ。その絵本は人形の世界を舞台に繰り広げられる。

素敵だなと思ったり、かっこいいな、かわいいな、すごいなと思ったら相手にシールを貼る。

シールがいっぱい貼ってある人形は、とても特別でキラキラしているように見える。

一方主人公の不格好な人形は、あれもこれもあれもこれもだめで一枚もシールの貼っていない自分が嫌いで悩んでいる。

くよくようじうじ、ただでさえ曲がっている身体をさらに折り曲げて、小さく小さく縮こまって生きている。

毎朝目を覚ますたびに、どんよりとした気持ちで身体を起こす。町を歩けば、じぶん以外は誰もがシールをたくさん持っているように見えて悲しくなってしまう。

彼はとてもチグハグな身体をしている。不揃いな身体。不自然な身体。

でも、あるクリスマスの日だったか感謝祭だったかの日に、神様にお祈りをする。もういやだ!こんなのいやだ!そう、お祈りする。

その日の夜、彼は神様に出会う、それは人形を一体ずつ生み出した人間なのだけれど。そして彼は言われる「どんな存在も等しく愛おしい」そう言われる。

たしか、その言葉のあとに彼はその人間から彼の良いところを列挙される。そして彼には見えないところに彼へのシールが一枚貼られているのを見つけたりする。いつのまにか夜が明ける。

そして彼はぐっと明るくなって、毎日とても嬉しい気持ちで目を覚ますようになるのだ。

 

わたしはときどき、じぶんをチグハグだと感じる。そのチグハグさと彼が周りのシールをたくさん貼られている人形を見て感じるもやもやとはどこかリンクするように思う。

最初に描写される暗い彼、彼なりに彼が彼のサイズだと思いこんでいる枠のなかでまっすぐ生きようと懸命だった。こんな不格好なじぶんは「明るく」生きてはいけないのだと決め、そのなかで懸命に彼は彼なりの優しさやまっとうさを曲げずに生きようとする。でもその姿さえ周りの人形にからかわれ、彼はさらに縮こまる。でも、懸命だった。

その後じぶんの魅力を絶対的な存在に知らされたとき、彼は今までじぶんがじぶんに対して定めていたサイズを超えて生きられるようになる。

その結果として起きているのが「朝を喜ぶ」ということなのだと思う、まだ上手にいえない。"朝を喜ぶ"には生きる喜びのすべてが詰まっているような気がしている。朝を喜ぶ。朝日に身体を撫でられることを喜ぶ。草木や花、虫たちや鳥たちとともに、その太陽との出会い、新しい一日との出会い、その瞬間の誕生の喜びをシェアする。

そして喜びの源とつながりながら彼は生きられるようになる。誰が彼を笑おうと、彼のなかに彼自身を嘲る気持ちがなければ誰も彼を傷つけることはできない。

 

わたしはこの絵本を読み聞かせられるたび、とても彼にシンパシーを感じていた。まわりの子たちの方がいつも素敵に見えていて、簡単なところで失敗したり、人としてどうこうという部分が理解できないじぶんは欠陥品のように感じていたのだ。

小さな身体のなか「子ども」を押し付けられそれを演じなければいけなかった小学生のときのいくつもの瞬間、そしてうっかり演じ忘れたときの周囲の反応、その見えない枠のようなものと、彼が自分はここまでと定めている枠はなんだか似ているような気がする。

今だって結局は同じことなのだ。この身体にぎゅっと押し込められているじぶんを少しずつ身体の外に出すと、どうしても周りのひととずれてしまう。それは天然と揶揄されるような結果になったり、子どもみたいだねと言われることになったり、いろいろ引き起こす。

そのいろいろがとても苦痛になるときがある。ただ、身体におさまらないだけなのだ。おさまらないのが魂なのか何なのか意識体なのか何なのか、そんなことは絵本の彼がじぶんが人形だとはつゆ知らずな状態と同じで、わたしもつゆ知らず、なのだ。

それでも彼のように神様に語りかけ祈れば、空に星は流れ雲には虹がうつる。タイミングよく誰かが手を差し伸べてくれるおかげで生活を持続させることができ、やりたいことを我慢したことなんてこの数年一度もない。

 

こんなにもこの星に愛されているなかでも感じてしまうこのチグハグ、これはわたしの人間としての弱さであり未熟な部分なのだろうと思う。あのチグハグを唯一感じないでいられるのは、多くの場合子どもたちと共にあるときだ。そして数少ないけれどわたしを家族のように可愛がってくれる周りの大人の先輩方、そしてときおり訪れる奇跡のような新しい出会い。その出会いのなかわたしは自由だ。

そう、だったはずなんだけど、この数日、わたしは初めて、その自由がひとりのときも持続する気配を感じた。23年間生きていてはじめてのことだった。森の中一枚の板の上大きく描かれた円のなかで起きた出来事をわたしはこの一生忘れないだろうと思う。

ただまっすぐに身体をたて、しっかりと目を見て、言葉ではなく言葉にのせるもので伝える。一言も嘘が混じらないように注意深く言葉を選ぶ。相手とじぶんとの間に齟齬が生まれないよう空気を感じ続ける。

あんな喜びがこの世にはあるのだ、そしてきっと時間はまだまだかかるかもしれないけれど、この感覚を忘れないことがきっと何よりも「朝を喜ぶ」日常が続くことの支えになるだろうと感じているのだ。

 

シールなんか一枚もいらない、ほしいのはシールをいくら見てもなんとも思わずにまっすぐ相手の目を見れるシンプルさ、同じ目線でじぶんをとらえられるシンプルさなのだ。

 

チグハグさがなにかを深めるのはまた今度!

ーー

たいせつなきみ

たいせつなきみ

  • 作者: マックス・ルケード,セルジオ・マルティネス,ホーバード・豊子
  • 出版社/メーカー: いのちのことば社
  • 発売日: 1998/10/05
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今日は虹を三度見た

今日は虹を3回みた

 
1回目を見る前
わたしは自信をひどくなくし
今の仕事への疑問で頭をいっぱいにし
また、今じぶんが取り掛かっていることについて
その意義や、タスクの内容や、すべての前でクヨクヨしていた
 
「頼むから本当にうまくいくならそう知らせてほしい」
「もしだめならもう諦めたい投げ出したい」
 
いつもいつも大げさだけど、今回も大げさにそう思った
 
帰り道、車の窓から虹が見えた
うっすらと、でもよく見るとそこには二重の虹があった
 
まだまだ意味は見えづらいかもしれない
誰にも本当に届けたいことは届けられないかもしれない
 
でも、やる意味はあるんだよ
 
そう言われたようなキブンになった
 
2回目の虹を見る前
 
わたしは「じぶんの感情を無視しているよ」という
人生の先輩の言葉をよくよく味わっていたあとだった
 
じっくりとその言葉と向き合い
じぶんのなかにある恐怖や、罪悪感と見つめ合った
 
生きていくのはしんどいなぁと
そういうことをいつも思い、しんどくなくなる道を探して
だけれども、しんどくても楽しい道のほうがいいと思って
そういう道を選びはじめてそろそろ2年になる
 
だけれども、いつの間にか
そのしんどい道のなかでも、より
しんどさを感じない道を、傷つかないほうを選ぼうとしていた
 
傷つきたくない、悲しくなりたくない
もうさみしくなるのもいやだ、という気持ちは
いくらぬぐってもぬぐってもぬぐいきれなかった
 
のだ!
 
だけれども、とりあえずそこに対して、うんうんと思った
 
そのあとに、虹をみたのだ
月の周りにやさしくその色は広がって
一緒にいた素敵な女のひとと、その景色を愛でた
 
最後、3回目の虹はさっき見た
 
はっきりと、まるで目のようだった
 
実は、その虹をみる前にあったのは、とても怖い映像だった
 
頭の中に広がったそれを打ち消すこともできず
ただ、その映像と対峙していた
 
でも、もういい加減にしてくれ!
と、その映像に対して思う自分と出会った
 
も〜〜〜やめてほしいんだけど!とギャルのように切れる自分だった(ちょっとおもしろかった)
 
くすっと笑ったあと、終わりにしようと思った
 
捨てられないものを、持ち続けることも
こわいけど、全部捨ててしまおうと、そう思った
 
大きな大きな目のようなその虹は、少しこわかった
でも、それは、同時にとても大きなエールでもあった
 
きっと今夜中、大勢のひとにそのエールは降り注いでいるのだろう
 
一歩一歩進んでいるし、一歩一歩進んできた
 
大丈夫だ、大丈夫だ、大丈夫だ
 
何度も口から出る
 
まんまるの目みたいな月の虹
 
やめるのか、やめないのか
一歩踏み出すのか、一歩戻るのか
捨てるのか、捨てないのか
 
ぜんぶをただ見ている
 
その結果次第でどうこうするとか、そんなちんけな目ではない
 
ただ、見ている
 
まだまだやっぱりこわいけど
 
今日伝えたいことは今日のうちに
今日終えたいことは今日のうちに
今日捨てたいものは今日のうちに
 
ひとつひとつ終わらせていく、それでいいし、それがいい
 
大丈夫だ
 
そう思ったら、ふわっと虹は消えた

 

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「地方で仕事をつくる塾」初回 - 心の動きのメモ

トークのテーマは変わろうと、たえず問いかけられた「どう生きたい?」「どんな世界で生きていきたい?」「どんな世界をつくりたい?」「そのために何をしたい?」。

そして、とても重要な「何はしたくない?」という問い。

先生が言葉にして問うわけではない。ただそう聞こえたというだけで。

「どう生きたい?」
どうとでも生きられるんだよ

「どんな世界で生きていきたい?」
あなたは何を幸せと感じるのかな

「どんな世界をつくりたい?」
あなたはなんでもできるよ

「そのために何をしたい?」
一緒にやり方を考えてみよう

「何をしたくない?」
もう、その方法は卒業しよう

先生の穏やかな心の声が、それぞれのテーマから漏れてくるようだった。

なんでもできるよ。
あなたにはその力があるんだよ。

繰り返し繰り返し。

言葉は違うけれど、表現も違うけれど、そのエネルギーを先生はみんなへと広げていく。

仕組みや体制への怒りをそのまま表現するのではなく、たのしくユーモアを交えながらからかい遊びながら。

わたしは随分前から先生との出会いを待っていたような気がする。

でも、このタイミングでなければ意味がなかったのだと理解した。

すべてが完璧で、すべてが正確で、すべて、すべて、すべて必然であった。

いまいろいろな気持ちが溢れて涙が止まらないのは、きっとその正確さに感動してのことだろうと思う。

世界の問題をすべてひとりで解決しようとだなんて思わないで。

でも、知っていて。

紛争で手足をなくした友人のことを、アフリカで汚れた水を飲みなくなった赤ん坊のことを。

「キレイゴトのほうが、キタナイゴトよりずっといい」

そう言い切った先生の顔を、その目をまっすぐ覗き込んだとき、その言葉を裏付ける今までの先生の活動の映像がわたしのなかに流れこんでくるような、そんな感覚だった。

すべてが必然で、すべてが繋がっている。

地球のうえどこそこのことも気になるけれど、それが視線をそらすことになってはいけない。

かわいそうな誰かをつくりだすことによって、じぶんの人生から目をそらしてはいけない。

やらなきゃいけないことなんて何ひとつない。
やってはいけないことも、何ひとつない。

ねえ何がしたい?
はるなちゃんは、どうしているとハッピー?

思いついたことをシェアするたびに、すばらしいすばらしいとニコニコ喜んでくれる。

先生がそう言ってくれるから、わたしは自由に振る舞えるのだ。

あと4回でできるようになることなんてひとつもないだろう、そう思う初回だった。だけれども、このあとの人生にずっと影響を及ぼすような確かな土台を、わたしはこの4回の旅のなか身につけるのだろう。

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23歳で手に入れた人生の道標

生きていくのって簡単だ、ご飯を食べて水を飲み適度に眠れば生きていける。でも、それだとなんか「生きている」気がしない。大切なひとたちはわたしに「たのしく生きよう」とときどき声をかけてくれる。あたたかなそれは人間がうまくやれないじぶんにとってなんだか道標のようなものだ。 

「たのしく生きる」

生きていくのは簡単だ。ある程度のお金を稼ぐことってどこも人不足な今超簡単。週に5日くらい一日8時間働けば、家賃も払えるし電気もガスも止まらないし水道だって大丈夫なくらいはある程度健康であれば誰でも稼げちゃう。

でも、それは「たのしく生きる」とは程遠い。

「たのしく生きる」

生きていくために仕事をするのは辛い。もちろんそれができるひともいるだろうし、仕事だけが生きる喜びではないひとが大勢いることもわかる。ただ、わたしはそういうタイプではないというだけで。

わたしはじぶんの一日のなかに少しでも「やりたくないこと」が入り込んでいるのは苦痛だ。「やりたくないこと」というのは辛いとかしんどいとかそういう意味での「やりたくない」ではなく、とてもシンプルに「やる意味がわからないこと」だ。

働くのがたのしい。楽ではない。頭もつかうし心もつかう。意思の力は消耗していくので、ちょっとした判断が粗雑にもなる。だけれども、それでも働くのがとてもたのしい。働くために生きているし、「たのしく生きる」ために働いている。

わたしの今の暮らしのなかには「やる意味がわからないこと」はひとつもない。ときどき改善の余地がある仕組みとは出会うけれども、わたしのポジションの優先順位は組織の改革よりも目先のタスクなので、ストレスはあれど大きすぎるストレスにはならない。

たとえば、自由な過ごし方のゆるされない時間と場所の拘束、これはわたしに向いていない。やる意味がわからない、というのはより正直に書くと「わたしが」という冠言葉がつく。「わたしが」やる意味のわからないこと、もっと大っぴらに言ってしまったら「この」わたしがやる意味のわからないことである。

ボルダリングジムの仕事は12時間弱ジムのなかにいないといけない点ではしんどいのだけれど、過ごし方は超自由だ。そしてわたしは今ボルダリングに夢中だ。お金をいただきながら登れる、それだけで幸福、おなかいっぱい。

ボルダリングジムの仕事だけをしていたら、そこまでの愛ではないので、きっとボルダリングジムのお仕事のことを嫌いになってしまうと思う。

でも、幸いなことにいろいろな種類のお仕事を頂いているので、それぞれの仕事が組み合わさり「やりたくないこと」はほぼ発生しないような生活が完成している。

この暮らしが完成したのはつい最近のことだ、7月になってから始まり、リズムが整ったのは最近のこと。

そしてこの形が完成するまでのお給料の3倍弱のお金を今頂いている。

「金額」がほしかったら、たぶんもっと違う効率的な動き方もあるのかもしれない。だけれども、「たのしく生きる」ことを最優先においたとき「金額」という条件はかなり優先度が低い。

それにも関わらず、結果として今の生活のほうが資金が潤沢で、かつたのしいという状況は、一体どういうことだろう。

分析してしまうと簡単なこと。

めちゃくちゃ生産性が高いのだ。ストレスの質が違うし、それぞれのお仕事がお互いに良い影響を与え合っている。

もちろんまだまだ詰めが甘くいろいろやらかしているから、それは一回一回の失敗をちゃんと経験に変えて、次の段階へと進んでいきたい。

なんていうか、今の暮らしがとっても好きで、そして、この暮らしをつくっているすべての偶然や必然やその他もろもろのいろいろなことやひとや場所にモウレツな感謝がわく。

ちょっとずつちょっとずつ変わってきた。

来年の3月に若手コーディネーターのお仕事は終わるのだけれども、そしてときどきその後が不安になるんだけれど、この根本的な道標、「たのしく生きよう」を忘れなければ、わたしは大丈夫だと思う。

そして、大切なのは「わたしは大丈夫」は、そのまま目の前にいるたいせつなひとにも置き換わるということ。空間に伝染していくということ。

「たのしく生きよう」

楽ではないけれど、ときどきめげそうになるときもあるけど、でも、たのしく生きよう。ただそれだけを決めて生活している。

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猫になりたい(ふり)

「猫は好きだと思うと、目を合わせている間にまばたきをする。」そんな一文を見つけてにやにやとしながら試す、間の距離感は2m、どんなかなと思って試す、あ、まばたき。心が少しあたたまる。

猫の気持ちなんかわからないし、甘えてきたり相手をしてくれなかったり、本当に全然わからない。でも造形美としか表しようのない顔の美しさや身体のしなやかさ、眺めているとすっかり心を奪われてしまう。

働いているボルダリングジムには猫がいる。ララというのだけれど、このひととっても可愛くて、でもなんだか他のお客さんに甘えてる様子をみるとなんかやきもちやけてきちゃったりして、いろいろ複雑な影響をわたしに及ぼしている。

ララと出会ってまだちょっとしか時間が経っていないのに、ボルダリングジムにいないときもときどきララのことを思い出す。帰り道、バスを降りてアパートにぱたぱた歩いている道の途中で、コンビニで猫のおやつを見かけたときに(あげたことないけど)、野良猫が寝そべっているのを見つけたとき、ララのことを思い出す。

同じように、ずっと前に働いていたコワーキングスペースにいた大福のことも思い出す、いろんな名前から大福と決まった時にドヤ顔だった上司のひとのこともついでに思い出す。大福のことはララよりちょっと怖かった。なんていうか、わりと宇宙人みたいな雰囲気をまとっていたからだった。いや可愛かったんだけど。

ララはもう少し落ち着いている。

あと、中学生の頃にパパと暮らし始めて、その日はたまたまひとりで家にいたのだけれど、そのときにふらっと自転車で外にでかけたとき、なんか意味なくついてきた白い猫とか、ふわふわだった。自転車のかごに乗せてやると喜んだので、でも走ったらこわいかなとかいろいろ考えて、ゆっくり押してやった。

たぶん自宅の前についたのだろう、ちょっとこちらを眺めてから、さっと降りて家に入っていった。タクシー・・・?と、猫のかしこさに震えた15の夜だった。

猫のことを考えながら道を歩いていると、たいてい連想ゲームでスピッツの「猫になりたい」が頭のなかで流れてくる。猫になりたい、消えないように君に傷つけてあげるよ、という歌詞がなんか妙に印象的で、なかなか頭から離れない。

脳みそのなか自由に漂うBGMに相槌を打つように、うん、と思う。猫になりたい。人間のなか、ただ無邪気に、そのままで。猫になれたらいいのになぁと、じぶんのなかの「邪」を持て余すときなんか特に思う。

そしたら女も男もなく、子どもも大人もなく、難しい技術も制度もなく、ただただ平和に生まれて死ぬのだ。好きだと思ったら寄っていって、嫌だと思ったらぴゅっと逃げて。後半に関しては大して今の暮らしと変わらないか。

ララは晩ごはん食べたくらいかなぁ、お客さんに可愛がられてるだろうか、無理やり扇風機にあてられたりしてないだろか。

でもたぶんきっと、もう猫なんか嫌だ!ちゃんと言いたい!好きも嫌いも楽しいも苦しいも全部全部ちゃんと言いたい!そう思って、人間に生まれてきたんじゃないかなとも思う。

なので、今日も今日とて、明日も明日とて人間をやってみる。とはいえ不慣れなので失敗ばかりだけれども、でも、人間をやってみる。

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