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スピリチュアルが嫌いだったのは

スピリチュアルってなんだろうと、車の外流れる雲流し見しつつぼんやり考えていた。

なんにせよ主語が大事なんじゃないかという結論にたどり着いた。

スピリチュアルとは

わたしが普段耳にする「スピリチュアル」って、大抵はスピ系とかちょっとおバカで他力本願な脳内お花畑なひとみたいな感じで揶揄されるときに登場する言葉だ。

でも、本質的な言葉の意味は「スピリット的な何か」であるはずだ。

スピリット的な何かって、なんだろう。

スピリット的な何か

静かに考えると、ネイティブのという要素や自然を大切にするとか、そんなことが思い浮かぶ。

人間として本質的な部分と、生き物としての在り方が絡み合っているようなイメージ。

ちなみに人間とは身体があり思考ができる、そして心があり感じることができものだと思って生きている。つまり、文明的な存在であるということ。

スピリチュアルとスピリット的な何かの違い

特にない。だって言葉だけ見たら同じ言葉だし。

でも、今のわたしにとって「スピリチュアル」は身体の外にあり「スピリット的な何か」は身体の内側にある。

これは、どうしてなんだろう。

別の視点からみると、スピリチュアルはひとつの市場のようにも見える。

求める人がいて、提供するひとがいるからある市場。

でも、人間がより生きることを楽しめるよう手助けするものという点でいうと、食に関する市場や衣服についてのそれと、スピリチュアル市場も変わらないはずだ。

それなのになぜ、わたしは「スピリチュアル」に対して少しやだなと感じるんだろう。

雑だけど結論

こないだの記事にこう書いた。

言葉の下にじぶんがいてはいけない。
概念に使われてはいけない。

言葉も概念も、じぶんの感覚を説明するために、ひとに伝えるために用いるもの。

制度はみんなを助けるためにあるもの。

それらの下にじぶんを置かない。

いろんな言い訳でその状態をごまかさない。

ひとつひとつ解決して、ちょっとずつでも、じぶんの人生のたったひとりの主人として、前を見ていたい。

じぶんの人生の主であること - 0→1000

これと言いたいことは同じだ。

今まで、「なんだかやだな」とスピリチュアルについて感じたのは、そのひとがそのひとの人生を生きる気がない様子がやだったのだ。

スピリット的な何かはそのひとのなかにあるのに、それは磨かれることなく、外側に真理や救いを求め、唯一無二の誰かになりたいと世界にひとりしかいないじぶんを「こんなの欲しくない!違う!足りない!」と叩く。

そんなじぶんが嫌だったのだ。

誰でも「感じる力」は持っている

ご縁をいただいて、ある場所にある「聖地」と呼ばれるところを訪ねた。

そこにいるひとは、こんな小さな子どもも、若いひとも、お年寄りも、世界中から集まったいろんな国籍のひとも皆、その場のエネルギーを感じていた。

あるひとは目を閉じて、またあるひとは恋人と笑い合いながら、あるひとは子どもを抱きしめ、あるひとはただ黙って歩いていた。

同じように風を浴び、同じように雪の粒を頬に受け、同じように太陽に身体をあたためられた。

人間が人間である限り、感じられないひとなどいないと思い知る光景であった。

外から与えられるきっかけに素直であることは流れをスムーズにするためには重要だけれど、外をガン見しても生きる意味は見つからない。

ゆるやかに外を感じ、しずかに内に潜る。

時折、じぶんの聞き入れやすい方法でスピリット的な何かと対話をするのは有効な手法だ。

でも、それにすがっているうちは、じぶんの本音には出会えない。

どんな本音でもいい。

どんな本音でもいいから、たったひとりのじぶんを生きる時間をもっともっとエンジョイしたいと、そう思ったよ。

読んでくれてありがとう。

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じぶんの人生の主であること

久しぶりにじぶんがこれまで書いたものを読んだ。なんだかまるで調査報告書みたいだと思って笑った。

地球で人間として生活をしています。
社会のなかで日髙春奈を生きています。

そんなふざけたナレーションをつけながら、過去の瞬間を閉じ込めた文章を読んだ。

じぶんのことなのに、なんだか他人事。なのにときどきとんでもなく感情が揺さぶられたりするのが不思議だ。

ときどき「読んだよ」「読んでいるよ」と声をかけてくれる人たちは、どんな顔でこれを読んだのだろう。

書き起こしのお仕事をしていると、いろいろなひとが「誰を喜ばせられるか」を戦略的に考え発信をしている光景によく出会う。

読んでくれる人に申し訳なく思うほど、わたしの書くものには「誰」がいない。

それでも、包み隠さず書くこれらは誰かにとってじぶんの位置を知るための点の1つ、ボールを当てる壁の一部になるのかもしれないと思うことがある。

ときどき、ぽつりぽつり「わたしはこう思った」「わたしはこう感じた」と、記事について話をしてくれるひとのおかげでそう思う。

わたしはそれを聞くのが好きだ。

そして聞きながら思うのだ。

みんなじぶんの人生の主なんだなぁ、と。

どんな風に感じてもいい。
どんなことを思ってもいい。
その身体、その顔、その声、その心。
どれを取っても、この世に一人しかいないひと。唯一無二のひと。

わたしが見たい景色とあなたのそれは違うかもしれないし、このひと何言ってんだと思うときももちろんある。くそう!と地団太踏むときも、トイレで舌打ちすることもある。

それでも、さまざまな樹々が重なり合い森を形作るように、たくさんの種類の昆虫たちが生態系を支えるように、生き物の価値というのはきっと、その差異から生まれる多様性なんだろう。

ちょっと飛びすぎ?

クラスのなかで何か問題が起きたとき、職場で何かトラブルが発生したとき、じぶんの視点だけでは、じぶんの思いつくアイデアだけでは限りがあるなと思う。

そういう感覚だ。気にくわない相手だったとしても、すんごい良い意見を持ってたりするのだ。

たぶん、わたしとあなたの違いの分だけ、わたしが生きてる理由があって、違うから生きてるのにまるで同じかのように大切にしあえることに喜びを抱く。

他の人の感じたことを否定したくなるとき、他の人の考え事を批判したくなるとき、そこにあるのは余裕のなさと頑なさ、あとはじぶんのなかにある暴力を無視する傲慢さだろう。

余裕のなさは暮らしのリズムを見直すことで、頑なさは弱さをさらけ出し助けを求めることで、傲慢さは「負けないぞ!」と決めることで解決できることが最近わかってきた。

感じて、動いて、見直して、また動いて。

そうやって生きてると、ひとと違うことが喜びになる。そしてその違いを尊重するからこそ、同じときにまた一層の喜びが起きる。

根本にこの「差異」の大切さを覚えておければ、じぶんの人生の「主」としていられる気がしている。

占いも、他者の言葉も、偉い人からのコメントも、何もかもわたしより上には置かない。

言葉の下にじぶんがいてはいけない。
概念に使われてはいけない。

言葉も概念も、じぶんの感覚を説明するために、ひとに伝えるために用いるもの。

制度はみんなを助けるためにあるもの。

それらの下にじぶんを置かない。

いろんな言い訳でその状態をごまかさない。

ひとつひとつ解決して、ちょっとずつでも、じぶんの人生のたったひとりの主人として、前を見ていたい。

反応は反射的に起きてしまい改善に時間がかかるけれど、この人生のなかどう在るかを決めるのも、どう在りたいかを決めるのも、わたし以外のひとに委ねてはだめだ、一瞬でも、だめだ。

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決めて動いて、また感じて。

新しい視点をいつもありがとう。

今の在り方を応援してくれてありがとう。

バスに乗って、会いに行く。

バスで移動するのが好きだ。

もちろん誰かに「送ろうか?」と乗せてもらえるラッキーさも好きだけど、バスにはバスの良さがある。

一番は、心構えをし終えられるところ。

誰かの助手席で、じぶんに集中することはほとんどない。相手とのコミュニケーションがたのしいから。

反対にバスに乗っていると、ひとりなのだ。

あんなにいくつも椅子があっても、乗ってくるひとはみんな知らないひと、降りる理由も知らないまま、こんにちはとさようならを繰り返す。

今日は宜野湾から那覇空港へ。

おばあちゃんとおじいちゃんが与論島に旅をしたあとに名古屋へと帰るまでの道のり、空港で時間ができたということで。

えっちらおっちらバスに乗り込んだ。

バス停まで歩くのはなんだか難儀で、同居人に送ってもらう。誰かにバス停に送ってもらってそこからどこかへ行くというのは、なんとなく家族感のある行為のように思った。

宜野湾のバス停から空港までは40分しないくらい。

大きな声でポケモンの個体値の話をする高校生の男の子たちを踏み越えて、奥の方の座席を陣取った。

窓の外はくもり。

書き起こしの疲れもあって偏頭痛が少しひどい。うぅ、、と窓にもたれるも、意外に頭のなかはテンダーさんの『わがや電力』の実践をどんな風に発信しようかのアイデア出しで賑やかだ。

どんちゃかどんちゃか考え事を膨らますうちに眠っていたみたい。空港のバス停のひとつ手前のバス停でポトンと手の甲にバスのクーラーの結露のしずくが落ちて起こされた。

その頃には「よし、おじいちゃんとおばあちゃんに会うぞ」という心ができあがっていて、歩くのもるんるんと足取り軽く。

やっぱり島ぞうりはダメだったかなと思いながら、四階のファミレスへ急いだ。

おじいちゃんもおばあちゃんも旅の後だからかよくよく話をしてくれる。あれがこうだったこれはこうだった。2人のやりとりがテンポ良く、なんだかにこにこがとまらない。

わたしは、おじいちゃんとおばあちゃんの孫で本当に良かったと思いつつも、意見が合わない県民投票の話や政治の話で頭痛がぶり返す。

意見なんて合わなくて当たり前なのだ。

戦後何もないところから一生懸命にインフラを整備し、みんなが少しでも良くなるようにと働いてきたひとの役割と、物質的な環境は生まれたときには整っているものの、経済成長優先だった社会のいろんなひずみを感じながら大きくなったわたしの役割とは違う。

意見は合う方が奇跡だろう。

議論に発展させることもしないまま、話は家族の話へと移っていった。まだまだ知らないエピソードがあるんだなと苦笑いしながら聞いた。ただ、おじいちゃんとおばあちゃんが「幸せになりなさい」と、ところどころで伝えてくれるのが嬉しかった。

「ああ楽しい時間だった、ありがとう」

そう言ってもらって、ああよかったと思った。

いつもやっぱり、ちょびっと、わたしは「いい孫」じゃないなぁと思うから、そんな風に思ってくれたなら良かったと思って、別れ際にハグをした。

おばあちゃんとおじいちゃんのことが大好きだ。「げんきでね」とお見送りをした。

そしてまた、今バスに乗って帰り道。

やっぱり頭はまだ痛む。

行きの道より寂しい気もする。

でも、うちに帰れば同居人が待っていて、何かあったかいものでも飲めるだろう。

だから、大丈夫。

血の繋がりと、血の繋がりではない繋がりと。

ひとりだったら生きていけない。

それはカッコ悪いことだとずっと思って、どうしたらひとりで生きられるか追求していたときもあったけど、わたしはひとりでは生きていけない。

それでたぶんいい。それがたぶんいい。

というようなことを、バスに揺られながら思ったよ。

感情の切り替えがひとりでいるからゆっくりになる。やっぱりバス、いいなぁ。

じぶんのペースで思ったことや感じたことを言葉にできるのは、わたしにとってとても幸福なことだ。バスの時間はその幸福にちょうどいいくらいの時間だね。

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火をつける

一生忘れないだろうと思う景色と出会ったときは、いつも映画のなかにいるような気持ちになる。

ちょっとずつ、ちょっとずつ遠くへと移動していく船を見送りながら、ただゆっくりじぶんのなかに潜っていた。

もう顔も見えなくなるくらい船が行ったのを確認して車に乗り込む。

海を埋めるため山を削ったその土を運ぶ車の横、大きな声で終わらない歌をうたいながら走った。

わたしたちはわたしたちなりのやり方で進んでいかなければと隣にいるひとと思いを重ねる。

たくさんのことを惜しみなく教えてくれる上の世代のひとたちがいる。

その意味は、そのひとたちのコピーを目指すためなわけでも、そのひとたちのつくったものの再生産をしていくためでもない。

そんなこと、そのひとたちは1mmだって望んでいやしない。

ただ、わたしたちはわたしたちなりのやり方で次の時代をつくっていくだけなのだ。

 

技術を身に着け、できることをひとつひとつ増やしながら、まだ行き先もおぼろげにしか見えないこの道をつくるため、今日も昨日も明日もある。

そんなことを思いながら、まっすぐ進む。

ドライブの終盤、大きな山と山の間の道を走りながら琉球愛歌をうたう。

「琉球の心、武力使わず自然を愛する」

「誰かのため、明日のため、何かができる」

言葉のもつ力を感じながら、声を重ねて歌をうたう。

 

きっとひとりひとりのひとの人生のなかに同じように物語があるのだろう。

この島やこの山やこの海にも同じように長い長い長い時間をかけて紡がれている物語があるのだろう。

その物語を感じながら生きる時間を重ね、じぶんのストーリーが深まっていくことが、もしかしたら生きる喜びなのかもしれない。

生きていく意味になるのかもしれない。生かされている意味になるのかもしれない。

 

まだ力もなく、技術もなく。

それでもこの数年で在り方はしっかりと固まったから、どのように歩いていけばいいかはもうわかる。

この感覚をコンパスにして、この身体を通してこれからたくさんのものを生み出していく。

 

じぶんの人生のなかの大きなひとつめのブロックを終えたような気がする一週間だった。

ここからはじめよう、もう一度何もできないところからはじめていこう。

10年後には、また違う景色を見ている。

同じ年になったとき、わたしは何を感じどんな風に動いているんだろうって、なんだかちょっとたのしみになった。

って思ったら、隣にいるひとも同じことを考えていて、なんだか笑いが止まらなくなったよ。

 

さ、藤村先生に会いに行くチケットを取ろう。

やりたいことは山積みだ。

ひとつずつ、形にしてみよう。

 

「マッチがあるよ、お嬢さん」

笑って言ってくれたひとに、ニコニコしながら焚き火を見せよう。

わたしの手のひらのなかで生まれた新しい火を見せよう。

 

いつもいつも何かのイベントを終えたあとは、いっぱいありがとうといっぱいのごめんなさいがある。

この感覚はむずむずして気持ち悪いんだけど、じぶんが蒔いたものだもんね。

どん!と胸を叩いて、まっすぐまっすぐ進んでいくよ。

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かっこよかったなぁ。

「情報の蛇口」を減らそう

情報との距離感が変わった。

一番大きな要因はテンダーさんの言葉だ。

「現代は情報が多すぎる」

「その洪水のなかで意思の力は減っていく」

「力は有限なのでどんどん判断できなくなる」

テンダーさんからそう教わったときに、真っ先にじぶんのすべきことは「情報の蛇口」のコントロールだと思い当たった。

いくつもの情報の蛇口

Facebookや本、youtubeに誰かのツイート、誰かの言葉。シェアハウスでの会話、友だちが読んでいる論文たち、尊敬する洋服屋さんのオーナーとの会話、ボルダリングジムでのお客さんとのやりとり。その他もろもろ。

情報の蛇口はいくつもわたしの世界のなかに存在していて、その蛇口は常時全開、書いているだけで胸が苦しくなるくらいに呼吸しづらい状況を作っている。

情報の蛇口がわたしに向けて開きっぱなしで、そこから与えられる情報を口をあけて待っていると、ゴボゴボゴボボ・・とすぐに溺れてしまう。

ダムの決壊=じぶん世界の崩壊

最初は何もしなくても情報が体に入ってくるので「わ~い楽ちんだ」と喜んでいたのに、いつの間にかその状況に殺されてしまう。情報の洪水に殺されるって、じぶんの脳みその真ん中にある「意志の力」が枯渇するということを意味している。

will powerなんて呼ばれたりもするけれど、人間は何かを選択するときにこの力を使う。朝起きてどの服を着るか決めるのもこの力、コンビニでどの味のおにぎりを買うか選ぶのもこの力、ひとと話すときにどの言葉を選ぶかもこの力によっている気がする。

その力が減ると何が起きるかというか、その情報を制御する力、たとえるならダムの入り口のような、そこが決壊するのだ。どーん。水が溢れ出す。もう溺れるどころの話ではない、世界がわたしが誰かの言葉で埋められてしまうのだ。

欲求をコントロールされる人生

溢れ出された水に押し出されるようにどんどんと選択を人に、外の世界に明け渡してしまう。いつの間にか広告に生活をコントロールされる。あれが欲しいこれが欲しい。なぜ欲しいのかもわからずに、ただそれを欲しがり続けてしまう。

それは必ずしも物欲として現れない、購入欲以外にもたくさんのコントロールにわたしたちの暮らしはさらされている。

恋に愛、結婚に、美醜、セックスや精神の安定、人生の成功や幸せ、いろんなものが「これを手に入れたらそれを手に入れられるよ」方式で目の前に差し出されていく。

そして、呼吸ができなくなりダムも決壊してると、もう何がなんだかわからないまま、差し出されるがまま受け取っていくようになっていく。(こうなりゃ売ってる側はしめたもんだ。実は政治も似てる構造がある。「政治なんか考える余裕がないよ!」って多くのひとが言うけれど、それはどこから始まってるんだろう。)

じぶんでコントロールする生き方

そう、だから、じぶんの世界を外の誰かによってコントロールされないために必要なのは、じぶんの人生を生きるために、この命を生きるために必要なのは「じぶんで情報の量を制御する」がまず第一歩だと感じたのだ。

その感覚は体感として腑に落ちたので、覚悟も決まりも目標もなくすっと行動に反映されていった。知識として摂取したことをルーティーンに落とし込むのはとてもむずかしいけれど、感覚で理解したことの日常への反映はとてもハードルが低い。みんなもそうかな。

情報の蛇口の制御はとっても簡単。

大事にしたい蛇口だけのこして、あとの蛇口はさよならポイポイ、いらない蛇口にはサクッと成仏してもらう。外の世界にはまだその蛇口は存在し続けるけれど、わたしの世界のなかにはそれは「蛇口」として機能しなくなる。

今のわたしにとって大事にしたい蛇口は、藤村先生やテンダーさん、お洋服屋さんのオーナーのような先生たち、ぴーちゃんやシェアハウスの同居人のような仲間たちが最初にある。

そして次に、それぞれの願望の実現に必要な具体的な知識の蛇口、これは本という形で現れたり、youtubeで動画という形で現れたり、いろんな現れ方がある。

今までと違うのは「なんとなくfacebook」とか「なんとなくblog」とか「なんとなく本」が減ったというところ。そこにあったのは、やっぱりこれもまたタバコが吸いたいわけじゃないのに口寂しくて咥えてしまうみたいな、そういう曖昧の欲求からの逃避なのだ。

ちょっとずつ、いい気持ち。

欲求はちゃんと欲求として叶えてあげるというのも合わせてさくっと決めた。

それでどうなったって、今とってもいい気持ちだよ。

誰もわたしの世界の主人にしない。

わたしの人生の主人はわたしなのだ。それが一番世界を愛する方法でもある。それはまた今度言葉にしてみようと思う。

とにかくその感覚のために、この情報の制御っていうのはとってもとっても大事なことだ。どんな人生を歩もうかって悩みにキリはないけれど、どんな人生でもじぶんが最高にOK出してたらあんまりしんどくない。

いつだって「おばあちゃんがどう思うかな」「あのひとはどう思うかな」ってそういうのがストレスになる。

それさえも、おばあちゃんたちとのコミュニケーションのなかでご先祖様に関わることや仕事に関わること、じぶんに必要な言葉だけ「情報」として捉えて、あとは言葉のリズムと思って感情だけを行き来させればいい。

そういうことができるようになった今、本当にとってもいい気持ち。

どんな立場でも、心のなかでは存在として対等に在ること。

間違いはさっくり認めて改めてまた進んでいくこと。

テンダーさんが来てくれてから、わたしはたくさん生きるのがまた楽しくなった。

ヒントをいっぱいくれたテンダーさんのHPのヨホホ研究所、テンダーさん一家が運営してるダイナミックラボ、ぜひ見てみてね。

 

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