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たらたらと覚え書き 12/4

11月の最後のあたりから思ってることや考えてることの幅が広がってしまって言語化ができなくなってしまった

同時に考えられることが増えて、まとめられることや動かせることも増えた

意識が一段階拡大し終えた感じ、拡大と収縮を繰り返しながらちょっとずつ成長していくじぶんについて面白く観察している

 

人間は93パーセントの非言語の情報でやりとりをしているそう

その93パーセントとのこり7パーセントの言語が一致していると最高に気持ちがいい

そういう風に生きていきたいし生きていたいし、ずらすなら意図的にずらしていたい

 

「家族に愛されて育ったんだね」と言われる回数が増えた

驚いているし喜んでいる、数年前のじぶんに教えてあげたい

そしてそれは本当のことだと思う

 

また、そんな風に溢れ出すくらいに愛情を注いでくださった今まで出会ったみなさんに伝えたい

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(できるなら幼い頃のじぶんにも伝えたい)

12月は種まきのような予定が詰まっていて、珍しくぜんぶ諳んじて言えるくらいにじぶんにとって大切なものばかりなよう

(じぶんにとって本質的な意味で必要ではない予定の日にちは覚えられない)

 

今年はすごかったなぁと、毎年思う

そんな風に歳を重ねられていることが嬉しいと思う

 

生きてていいことなんてなんにもないと思ってた(ほんとに)

この世界はつまらなくてきたなくてさいあくだ!と思っていた(ほんとに)

 

でも、じぶんでじぶんの生きていた世界から飛び出した14歳のあの日

わたしはたくさんのひとを巻き込み傷つけてしまったけど、迷惑もいっぱいいっぱいかけたけど

 

あの日からほんとうに全部がよくなってるし、これからもよくなり続ける

そして、あの日からがよくなるたび、あの日までもよくなっていく

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(たくさんの素晴らしいステージ、機会をいただいた2年でもあった)

過去は呪いではなく祝福だ

カルマは業ではなく道を示す灯火だ

 

ご先祖様のお願いごとも、父と母の思いごとも、ぜんぶわたしが燃やし尽くして、表現し尽くしてこの世を去るのだ

 

そう決めてからもう2年も経った

この2年でどれだけのひとと出会い、恋(のような感覚)に落ち、場を体験してきただろう

 

よくやってるよ~と、じぶんを褒める

(12月のはじめに具合を悪くしてお仕事を休んだ、、よく眠りなさいというのは聞いとくんだったなと反省した、、)

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(もうすこしじぶんの体の声も聴きながら進まないといけない)

 

最近はワンラブをキーワードに同じ話ができる方と出会い、パートナーシップについて話せてすごいたのしかった

 

本当にその通りだ、問題は所有欲

そしてそれがないのはあるよりも苦しかったりする

 

ないことが伝わらないから欲しいものを勘違いさせてしまうし、あるひとを傷つけたいわけではないからむずかしい

 

契約は性行為といつもセットで、それもくだらない

(この話もできて嬉しかった)

 

大して重要ではないのに、そして優先度だって限りなく限りなく低いのに(知的好奇心のほうが欲求として上)

そんなもののせいでいくつかの大切な関係をなくしてしまったじぶんが嫌い

とはいえ、その瞬間に起きたことだけが真実であとは解釈

本質的にはわたしではなくてよかったということで、それは同じ意味で相手ではなくてよかったということだ

いくつかの関係は時間とともに修復されたけれど、いくつかはもう二度と戻らない

でもそれ自体もいい学びだ

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(関係性かんけいなく愛情を注げるふたりのおかげでもある)

 

大切なのは感じること

もっともっと微細に、もっともっと丁寧に

 

そしてそれは意図せずともできること

日々そのように進化しているのだから

幸福な1日 / 反省の夜

朝起きて、お日様が出ていることを喜び窓をあけ、ついでに玄関のドアも開け放って空気を通す。あちらからこちらへ、風が吹き抜け朝がくる。

同居人の片っぽは「爪切らなきゃ」といいながら身支度ばたばたと、その後すぐに出発。わたしといえば眠たいなぁと思いながら読みかけの本をぱらぱらと読み進める。

居候している同居人のパートナーも身支度。わたしは身支度の音と朝のリズムとのずれに少し外を歩きたくなり牛乳を口実に近所のコンビニへ散歩。

コンビニの本棚ってスピリチュアルから自己啓発、はたまた保険のプランニングに関するムック本まで幅広い。ぱらぱらと3冊ほど立ち読みしたあと、最近読んだ本のなかに「本を開いて読み終えただけで考えたことにしているひとがいかに多いか」という批判があったことを思い出す。

うーむと思いながら、うようよと雲の泳ぐ不思議な空の下お家へ戻る。

同居人のパートナーは出発、もう片っぽの同居人はまだ眠っている・・と思ったら起きていたので挨拶。

おはよう。

おはようございます。

声が返ってきたことに満足して「コーヒーに牛乳と蜂蜜いれたやつ、飲む?」と聞く。

「のみたい・・・!」と寝起きにしては可愛いテンションで答えてくれたので、よしきた!とお湯を沸かす。カタカタと揺れるやかんの蓋。

タイの旅の思い出の豆、冷凍庫から取り出す。いただいた布のフィルターはかるく水で濡らす。準備万端、少し冷ましたお湯でコーヒーを淹れる。

「ああいい朝ですね」同居人がそう言うので、ああいい朝だとわたしも思う。この前の朝はもう片方の同居人がコーヒーの匂いを嗅ぎながらそう言っていたと思い出して笑ってしまう。

代わりばんこに同じ会話をする。退屈な幸福ってとてもいい。さっぱりとしている。

たまりにたまった洗い物を途中で飽きながらもどうにか干し終え、移動してお仕事へ。ドライブ中は珍しく音楽を流さずだらだらと会話をした。

目の前が開けて海、沖縄でまだ走っていない道路があるのに驚きながら「わ~~」と言ってしまう。何歳になったら驚いたときに「わ~~」と言わなくなるんだろう、大人の女のひとのふりをするのってわたしにとっては本当に困難だ。いつかなる。(10年後とか)

お仕事はまあまあはかどり、カフェの家具がどれも好きなものだったのでテンションもあがり、帰り道は夕日に感動しながらお家へ戻る。

帰ってきて晩ごはんをつくる。お米をたくのだけ同居人にお願いして、朝仕込んでいたスープを仕上げ、丁寧にニンニクと玉ねぎを炒めて作ったソースと手羽元を絡め、お大根はローゼルのお塩で揉んで。 

「おいしい!」「天才!」と褒めてもらいながら食べる晩ごはんの美味しいこと美味しいこと。鼻高々。お料理するのが好き、ほんの短い時間なのに脳みそがとってもスッキリする。

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(ごはんの写真撮り忘れちゃって、これは去年の11月頭、おうちオムライスをつくったとき。このときもいっぱい褒めてくれてたね。)

うーん、来年の四月からの働き方を決めたのはいいけれど、3月までの間のスケジュールに少し悩んでいる。一緒に同居人たちと晩ごはんを食べられるスケジュールで働きたいなぁ・・と思う。多少稼ぎが減ったとしても、一緒に暮らせるのは人生のなかで今このときだけなのだから、少し考えよう。

そうこうしているうちに進めきれなかったイベントのひとつが・・・ああ。

失敗ばかりだと大きくため息。斜めに傾いてしまう。

少しずつできるようになるよとじぶんを励ましてみるけれど、まだ傾いたまま。

誰を大切にする仕事なの、誰のための仕事なの、忘れてしまっては本末転倒。

へこんでいたら、ロマンチックなバー、いつもと違う席に座りながら、いつも気にかけてくださっている大人の先輩の方が「いろんなひとの期待に応えたくてバラバラになりかけてるようにみえる」とおっしゃったときの光景がフラッシュバック。

「少なくはないステークホルダーみんなの期待に応えようとしてる、バラバラになりかけてるように見えるよ」と言われ、そんなことないと言い返しそうになるじぶんに続けて「みんなあなたが思っている以上にあなたを大事に思ってるんだよ」とおっしゃるものだから、ぽろぽろぽろぽろ涙がつたってしまう。

ほんとうにあんなに泣いたの久しぶりだったと今でも不思議に思い出す、ほんの数日前のことなのにずっと昔見たいなあの光景。

大事だよって面と向かって言われるのって、とても嬉しいものだね。わたしももっとひとに言おうと思った。

なんで思い出したのかな?

うーんでも焦って失敗するんじゃ意味がないから、やっぱり目の前のこと、落ち着いてひとつひとつ。丁寧にお仕事をしよう。何度もそこに戻ってくる。いつもそこに原因があると思うから。もう少し具体的に対策練ったほうがいいね、やろう。

ほんとに近道ってないよなぁって毎日思いながら、1ミリ1ミリ進んでる感じだね、進んでるといいなぁ。

じぶんで感じて考えて答えを出していくことに、ちゃんと意味があるといいなぁ。

と思いながら、終わりきらなかったお仕事をするためにお家を抜け出し同居人とマックなう。

(そんな1日だった。3人暮らしのある幸福な1日のこと。)

ヤキモチ→嫉妬→+執着=お化け

タイにいる間に整理された考え事のひとつに「やきもち」と「所有欲」の関係があった。

これもまたわたしをうんと楽にした考え事だったので言語化して体の外に出しておきたい。

わたしは撫でられている猫に「いいなぁ」と思うくらいヤキモチをやくほうで、ああいいなぁと口に出てしまうことだってあるくらい精神的に未熟だ。

  1. 猫が羨ましい
  2. ヤキモチと嫉妬の違い
  3. 執着のおばけ
  4. 魔法を解くのは自己肯定感
  5. 所有欲には程度がある(予想)
  6. 感情の波は過ぎ去る

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猫が羨ましい

ああいいなぁ・・・と思う。足元で撫でられている猫が羨ましい。無条件に可愛がられていいなぁ、なんて幸せそうな顔をしていること。

そして猫や犬、動物を愛でるひとっていうのはどうしてこう色っぽく見えるんだろうか、ずるい、ずるい、わたしも猫になりたい。

猫をなでているひとをみると思う、猫が嫌いとか犬が嫌いとかいうとそういうことはなく、むしろ動物はわりとみんな好きだ。

ただ、羨ましいし、好きなひとが撫でている猫にはああこれはヤキモチだなという感情を抱く。

わたしにとってのヤキモチは「いいなぁ・・・」なのだ。

ヤキモチと嫉妬の違い

よく一緒に使われる言葉だけれども、ヤキモチと嫉妬は明確に意味が異なる。言葉の持つ重たさや匂いも異なる。ヤキモチは軽くて香ばしく味でいうとちょっとピリっと苦い感じの炭酸なんだけれど、嫉妬はべちゃべちゃしていてタールのようなんだか嫌な冷蔵庫の匂いがしまずい。

ヤキモチと嫉妬の間にある距離は一体なんだろう。そこには執着が隠れているような気がする。

ヤキモチは妬いたとしても「どうにかしてやりたい」「どうにかなりたい」「どうにかしたい」というような欲求はわかない。

嫉妬はどちらかというとそれにプラスし苦しみが入る、どうしてああなれないんだろう、どうして手に入らないんだろう、どうしてどうしてと狂ってしまう、そこにあるのは対象への執着だ。

執着のおばけ

わたしにとっておばけというと思い浮かぶのは黒いドロドロとしたもの、もののけ姫の祟り神のような感じのものだ。

ヤキモチはまだおばけ化していない感情なのだけれど、これに執着が加わりなんだか練りに練られると執着のおばけになってしまう。

「なにがどうしても手に入れたい」「なにがどうしても手に入れたいものが手に入らず苦しい」どんどんとじぶんを蝕んでいく。

じぶんを蝕み終えるとそのおばけは進化してひとを傷つけてしまう。

暴力的な言葉をぶつけてしまったり、念を飛ばしてしまうこともあるんだろうと思う。

(体を診てもらっているとよく「ああこれ女の人の念だね」とかって祓ってもらうことがある、生き霊ってあるんだなーと驚く。)

魔法を解くのは自己肯定感

中学生とか高校生、大学生初期の頃はこのヤキモチが嫉妬になってしまう、そして執着のおばけになってしまうことがよくよくあった。

そして、そこにあるのは果てない自己肯定感の低さだったように思う。

じぶんがひとりでは立てないから、じぶんがじぶんのことを大事にできないから、その結果としてじぶんの代わりにじぶんを肯定してくれるひとを手放したくなくなる。

そういうことなんだと思う。

それに気づいたのは最近だった。自己肯定感が気づいたらあがっていて、なんていうかヤキモチをやいてもそれがおばけ化しなくなっていて、なんでだろう?と考えたら、ああそうかとすぐわかった。

ずっとそばにいてくれたひとと分かれひとりで暮らし、そのあとシェアハウスに移り、仕事もカフェから別の場所に変わりより能力を活かせる場所で働くようになり、そういう変化のなかで、自然と「できること」が増えたりして、また「できなかったこと」もたくさんあったけどそれに対するいろんなフォローや考え事から、わたしは気づいたらすごく深くじぶんのこと大切に思うようになっていたのだ。

所有欲には程度がある(予想)

ただ自己肯定感があがればおばけ化しないかというとそうでもないのかもしれない。

わたしは小さい頃から所有欲が薄く、手に入ったものがすぐ壊れても「ま、いっか」と思う節がある。あまりコレクター気質ではないのだ。

近くにいるひとを観察しているとコレクター気質のひとは非常に非常にヤキモチがおばけ化しやすい傾向にある、たぶん他者がじぶんの内にあるのだろうと思う。

それはそれで面白そうだと思うけど、わたしは違うタイプみたいだなと思う。

感情の波は過ぎ去る

とはいえ全くないわけではないので、ああ手に入ったらいいのにと思うものが手に入らないと苦しくなるんだけど、でもそれもなんていうか3分も持たない感情の波で。

それをただああ~ああ~とその波の浮き沈みを感じていたらいつのまに終わったり気がそらされる出来事が起きたりする。

だからまあ相変わらずヤキモチはよくやくんだけど、でも、それが嫉妬になっちゃうことも執着のおばけになることも減って、とっても嬉しい!

そして、所有欲とヤキモチを切り分けて考えられるようになってくるとパートナーシップ観・結婚観がガツンと変化するわけです。

その変化は・・また次!

あたしの一生: 猫のダルシーの物語 (小学館文庫)

あたしの一生: 猫のダルシーの物語 (小学館文庫)

 

 「あたしの人間」とどの猫も言っている(ような気がする)のだ。

いっぱい書こう、じぶんのために。

「なぜならスマホというのは、退屈だったり、ちょっと現実逃避をしたかったり、なぜかイライラしたときにさわるものだから。」と、今日読んだ松浦弥太郎の『おとなのきほん』のなかに書かれていたその一文を見たときに、ここ最近の考え事の点と点が線になって繋がった。

バンコクとチェンマイにいた10日間、意図的にSNSを絶った。徹底的にログインできなくなった結果、なぜそれを見ていたか、どうしてそれを見たかったか、なにを書き込みたかったか、それはどうしてだったかを理解した。

この数日思い切ってアカウントを消すかどうか考えた結果としてわたしはまだSNSを利用すると決めたのだけれど、今考えていることはきちんと残しておこうと思う。

  1. SNSは世界で一番尖ったメディア

  2. (わたしの)使い方の変遷

  3. なぜ伝えたいのか、なぜ知りたいのか

  4. 恋に落ちると

  5. バーチャルは現実に劣る

  6. 手紙≒ZINE

おとなのきほん 自分の殻を破る方法

おとなのきほん 自分の殻を破る方法

 

SNSは世界で一番尖ったメディア

その言葉を教えてくれたのは大学のときにわたしが「政治を学ぶ意味」を姿から学んだあるひとりの先生だった。

「SNSは世界で一番尖ったメディアだからねぇ」とタバコの煙とともに、どこかため息混じりにその言葉はわたしの前に現れた。

見たいものだけ見て、見たくないものはブロック(もしくは”平和的に”フォローを解除)して見ないことができる。

周りの日常や飛び交う意見やシェアされるニュースがそのひとの「世間」をつくっていく。居心地の悪い価値観を排除し、居心地の良い価値観だけがのこるタイムライン。

だいたいのひとは「なんか違うんじゃない?」と思ってもひとの投稿にコメントなんてしないから、そのひとのもとには賛同者の声だけが主に集まる。

(わたしの)使い方の変遷

「SNSは世界で一番尖ったメディア」ということを数年前に理解してからも特に気にすることなく利用をし続けた。思ったことを思ったときに書き、そのボールが「他者という壁」に当たってコメントや時折寄せられるメッセージのような形で返ってくるのをたのしんでいた。よりじぶんのことを知るためのツールとして、またあるときはひととの距離を縮める手段としてSNSはわたしの役に立った。

だんだんとそのじぶんの使い方に違和感を持ち始めたのは、シェアハウスをスタートしたことがきっかけだった。

思ったことを思ったときに言える相手がいて、さらに同居人はふたりとも思考を深めるタイプだったので話せば話すほどよりはっきりとじぶんの形を認識できたり、新しい発見があったりと、SNSに書くよりもたのしいことが増えたのだ。

そして、SNSに投稿する内容は同居人と話した結果として出てきたことや、その頃は”パートナー”と呼んでいた大切なひととの会話や試みの結果への思考、仕事についてのあれやこれやといったものに変化していった。

なぜ伝えたいのか、なぜ知りたいのか

そうなってくると、だんだんと寄せられる反応も変わってくるようになった。より深く「こう思ったよ」という相手の考え事や相手の視点、経験談について話をしてくれるひとが増えたのだ。

こちらが先に裸になると相手も服を脱ぎやすいのかもしれないと考えながら、それらの言葉についてありがたいなと思いながらいつもお話をしていた。

面白いと思った。わたしが考えたことや感じたことを誰かが見て、なにかを感じてそこで考えが生まれそれがわたしのもとへ返ってくる。そしてわたしの考え事に新しい視点が加わり、わたしはより世界について理解を深め、その過程でまたじぶんへの理解を深めることもできる。

そういったような変化を通して、だんだんとそうやってボールを投げ返してくれるひと、つまり誰かはわからない「壁」ではなく特定の「ひと」の顔を浮かべながら投稿することが増えた。

両の手で足りてしまうようなそのひとたちの顔を浮かべながら、日々の考え事や感じたこと、出来事を深めながらわたしは投稿を重ねていた。

恋に落ちると

また相手に強烈に興味がわくとじぶんが通常の範囲で観察した結果得られる情報量を超えてそのひとのことをもっと深く知りたいと願うということも知った。

そのひとならどう考えるのか、そのひとならどういう言葉を選ぶのか、そういうことひとつひとつを知りたいと思うじぶんの癖に気づいた。

つまりわたしは、もっともっとその考え事を深めたり、その感じたことに他者の視点が加わってまた違う味わいになったものを再度味わうのが好きな性質と、恋に落ちるときは大抵相手の考え事や言葉、在り方、人生に対するスタンスにくらっとくるようなフェチズムを持っている生き物だということ。

伝えたいのも、相手の反応が知りたいのも、この「好き」とフェチズムのせいなんだろう。この性質とフェチズムはわたしをいい気分にも嫌な気分にもする。

しかしこの星の原則として物事の裏表をうけいれよ!というものがある(と思っている)ので、「いい気分も嫌な気分もどちらも受け入れます」というスタンスで生きているので、それがもたらす効果ってわりとどうでもいいのだ。

そこにあるのは伝えてみたい(反応を知りたい)と思う欲求と、(ふつうの関係では知り得ないところまで)相手をもっと知りたいという欲求、それだけなのだ。

で、嫌な気分についての考え事は今回のテーマとはずれてしまうので割愛、いい気分について深めるとそこには”身体性”というキーワードが隠れていることがわかった。

たとえば「いいね」よりも「超いいね」が嬉しくて、それよりもコメントが嬉しくて、さらにメッセージだともっと嬉しく、それがお電話だとさらに幸せで、直接お話ができるのは一番たのしいような。

相手がかけてくれる手間も嬉しいのかもしれないね。

バーチャルは現実に劣る

結論は、当たり前だけどそういうことなんだと思う。

バーチャルなコミュニケーションは身体を伴ったコミュニケーションに比べて軽くて薄くて味気ない。

指一本のタップで受信も送信もできてしまうその手軽さゆえ交わせる言葉は多い。

そうすると一回一回のやりとりは積み重なりやすく、それに伴って時間が経つのもやけに早いのでなんだかお腹いっぱいになった気がするというファストフードのような魅力を持っている。

でもどこまでいってもジャンクはジャンク。栄養分は薄く、血肉になりづらい。

お互いを知るための情報にはなっても、関係を育むための材料にはならない。

それは人生を一瞬だけ賑やかにするが本質的には満たしてくれない。逆にもっと知りたいのにどこまでいっても本当の意味では知れないというストレスで蕁麻疹ができるぐらいに行為と意味が真逆なコミュニケーションだと知った。

しばらく前に女優の堀北真希さんと俳優の山本耕史さんが結婚したときに、山本さんが演技へのアドバイスを手紙に書いて、それがだんだんと増えて40通くらい文通したというエピソードがあった。

そのやりとりのなかで愛が深まったと振り返っていたコメントがあったけど、それがmessengerや、LINEやDMなんかだったらまた違う話になっていたんじゃないかと思うのだ。

(生まれて初めてもらったラブレターをわたしはまだ捨てられずに持っているけれど、それぐらい直筆の手紙って嬉しいものだよね。)

じゃあ文明から離れて、、というわけじゃなく、直接時間を共有できる瞬間をつくるために、やりとりを重ねる。

それがなんだかんだで、じぶんには合っているんだろうと腑に落ちたところ。(会えないときは目の前にいる人を大切にする。それもまた似た位置にある考え事でもある。)

手紙≒ZINE

さてさて、わたしは実はもう24歳最終ブロック突入中、次の3月26日には25歳を迎えるのです。

マックは時々食べるけど、いつも食べたいものはそうじゃない。コミュニケーションも情報の摂取もここらでぐいっとハンドルを切りましょうとタイで10日過ごさせてもらった間に決意しました。

見たい未来をつくるためにはちんたらしてる場合じゃない。

実は冒頭で引用した松浦弥太郎さんの「なぜならスマホというのは、退屈だったり、ちょっと現実逃避をしたかったり、なぜかイライラしたときにさわるものだから。」という言葉には続きがあって。そのスマホを開いたときにどんな文章があるといいか、どういうコンテンツがあるといいかという話。

「アウトプットは、人の感情とつながりを持てば持つほど、人の役に立てるものになるのではないでしょうか。僕らはコンテンツを見てもらうとき、ユーザーから時間をいただいています。(中略)だから、僕がコミュニケーションをするなら、人の感情を助けるものにしたい、そう感じているのです。」

おとなのきほん 自分の殻を破る方法

おとなのきほん 自分の殻を破る方法

 

p.26 より抜粋。

わたしもゆくゆくはそんな風な文章を書ける人間になりたいと、そういう風に思う次第でございます。なんだか決意表明がしたくなって、ついつい締めはそういう感じ。

読んでくださってありがとう。

このブログはもともと「1000記事書いたら奇跡が起きるよ」というあるひとからの言葉をもとに始めたもので、そしてそれがあれよあれよとこれで716記事目、あと284回更新したら目標達成。

もうびっくりするぐらいの奇跡がたくさん起きている人生ですが、せっかくだからあと284回やってみよう!と思います。

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全部受け入れながらまるっと進むために、きっとこの1000回の更新があるんだろうね。もしかしたら1000回じぶんと向き合ってようやくなにかのスタートラインに立てるのかもしれない。

バンコクのスワンナプーム空港についた瞬間、大勢のひとたちのなかであまりにもひとりぼっちを感じてわたしは泣いてしまった。でもそのあとじんわりと体が芯からあたたかくなった。

どこまでもどこまでも、どこまでもどこまでも、わたしはわたしとともに在るのだ。それだけは不確かなことだらけのこの世界で唯一確かなことだね。

それを感じて書いた言葉がこの写真でした。

holiday

ときどき訪れる、書いては消して、書いては消して。言葉になってもうまく文章にならなかったり、文章になったところでじぶんにとってすら価値があるものにならなかったり。

そんなときはたいてい心がどこか麻痺している。

今日は心が麻痺していたことにようやく気づき、そしてその痺れをほどいた日だった。

昨日と今日のキャンプのために日付をあけていたのに生理痛も重たく外で眠るのは難しいと途中で切り上げたら突然1日ぽっかりと予定があいた。

もちろんパソコンを開けば取りかかれる仕事はいくつも控えているし、スマホのアプリひとつには返さなくてはいけないメールもあるのもわかっていながら、今日は・・・とその指を止めてパソコンもかばんから取り出さないことに決めた。

決めたのも布団のうえ。なんだか動き出せずにぼーっと空を眺めていた。雲ながれながれゆく、もう夏のかけらもどこにもない。季節が変わってしまった。

嬉しいような寂しいような、ぽつんとどこか置いてけぼりになった気分がやるせなくて動けずに、ただまた空を眺めていた。

せっかく予定がないのにこんなことではいけないと首をふって身体を起こし、お花のお水を変え、以前いただいていた牡羊座のハーブティを淹れ、氷を4つ落としぬるくして飲んだ。

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そういえば洗濯物もたまっていたのを思い出して、ついでだからと布団も干してみた。

もうすぐ読み終えるだろうか分厚い小説は分厚さと反比例するような内容の薄さが一周回って面白く、来たるシンギュラリティのあとの課題点をフィクション交えて学ぶ導入書のような本だなと結論づけた。

人間はもっとロマンチックで、もっと愚かで、でももっといいものだと、改めてじぶんの人間主義に気づき、意外とそうでもないかもしれないとじぶんに対しても思考の量と質が比例しないなと苦笑い。

クオリティランド

クオリティランド

 

気づいたら10月が終わる、とても長くてとてもあっという間の1ヶ月だったよ。

9月末のイベントラッシュから走り続けてしまったという感じの時間のすぎ方にじぶんでもすこし呆れている。

意識的に沖縄市の創業支援の仕事をメインに起き、主語を施設において動いた1ヶ月だった。

もしもじぶんのルーツに政治の職が入っていなかったら、幼いわたしの頭を育ててくれたもう亡くなっている祖父の本のあとがきを読んでいなかったら、こんなに真面目に働かなかっただろうと思う。

「人間とは」を真剣に考え、地球を思い、信念を持って仕事をしていた祖父は、わたしにとっては優しくどんな”ばかげた”質問にも誠意を持って受け止めてくれる唯一の大人だった。

仕事ができるかどうかよりも、外面がいいかどうかよりも、なによりもまっとうであるかどうか。まっとうであれるかどうか。それだけが重要に思える。

まっとうではないと感じることが多すぎて、道を歩きながらただ話のなかで冗談のように友達からでた言葉にも「なぜそんなふうな言葉が選べるのか」強い怒りを言葉にしてしまいすぐに後悔した。

意見ではなく感情にまかせて出た言葉はただの八つ当たりだ、相手に届けるためにではないじぶんの感情の発散のための言葉はただの暴力だ。

じぶんのなかのこだわりを他者に求めるべきではない。ポリシーの共有はチームで動くときのマストではない。ビジョンの共有とポリシーの共有はとても似ているけれど全く違うものだ。

仕事って難しくて面白くて感慨深いもので、ピアノを弾くよりもウクレレとうたうよりも絵をぽとりぽとり描くよりもずっとずっと「表現」だと思う。

いい表現をしたい、いい表現がしたい、嘘をつかずに、ひとに届くものがしたい。

今できる範囲で、今いただけるご縁の範囲で、ちゃんとやりたい。

そんなこと思ってるよと前だったら話せたひとはうんと遠くにいてもう話ができないので、ひとり体のなかでぐるぐると言葉を紡いでは捨てている。

仕方がないと言い聞かせてもさみしいものはさみしくて、たのしかった記憶を消してしまえたらいいのにと思うけど、そんな魔法はどこにもないのでとりあえずで忙しくしてみたら身体がくたびれはててしまった。

大人のふりってじぶんで思っているよりも体力を使うみたいだ。

そんなこんなでやりきれないので、ゆっくり過ごして体力が回復したあと、いつもの場所に体と心のメンテナンスのために出かける。

庭にでれば一面青に沈み、施術してもらう小部屋は適度にぬるい雰囲気で心地よく、触れてもらいながら体は一面的なものではなく多層的なものであることを感じながら、ただ流れてくるエネルギーに身を任せていた。

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施術が終わったあとは今度は心のメンテナンス。

カードをながめながら少し遠くの未来を整理していく。

ひととのご縁の意味をほどくこと、なぜ出会えたか考えること、なぜ別れるのか考えること、そして考え受け取った意味を学びへ変えて、次の選択をすること。

人生はそれの繰り返しだなと、12年の周期でやってくる天中殺の意味を教わりながら、前回の天中殺のことを思い出していた。

あの頃のわたしの苦悩のおかげで今のわたしは幸福で、これからのわたしの選択は12年後のわたしを幸福にするだろう。

ひとつひとつ選んで、ひとつひとつ重ねる。それしかできないのだと、まだ胸は痛むけど、タイから戻る頃にはもうずいぶんと楽になっているだろうという気が今日でようやくしたのでしっかりじぶんと結び直してまた進もうと決めた。忙しくする作戦は一旦やめ。11月はじぶんのリズムを見つける月にする。