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人間ごっこ

働くのは喜びだ。

身体の半分は深く頷き、それだけでは足りないというかのように足元から踊り出してしまう。もう半分は首を縦にふりかけ、、て止まる。もう半身のようにまでとはいかなくとも肯定の意を示したい様子なのにどうしてもできないようだ。

申し訳なさそうに目を伏せる半分のじぶんに視線を合わせる。見られた半身のわたしはますます肩身が狭そうに半分の体をさらに縮め、今にも叱られるのではと怯えている。

うっかり傷つけてしまわぬよう、呼吸を整え言葉を選ぶ。

「100%割り切らなければいけないものでもないのだから」と声をかけるとやがて少し間があいたあとにゆっくりと彼女たちと会話が始まる。

働くのは喜びだ。

どうしてもそう思えないじぶんを深く恥じている。ぽつりぽつりと本当の思いを言葉にするわたしの傍らにならび、繰り返し背中をさする。

なぜ?ともう片身のわたしは不思議そうだ。

「こんなにたのしいことってないのに」と口を尖らせる。

コーヒーが欲しいと言ったお客さんにコーヒーを出せば喜んでもらえる。それが美味しいとさらに喜んでもらえる。

購入するか迷っているお洋服、どういうところがお客さんに似合ってるのか教えてあげると、嬉しそうに買ってくださる。

来る時よりもさらに素敵になって帰る後ろ姿がとっても嬉しい。

ライターさんにインタビューの書き起こしをお送りすれば「助かったよ、ありがとう」とお礼を言ってくれる。早く出したら編集者の人も喜んでくれる。

会いに来てくれたお客さんに、まっすぐ言葉を届けていく。並べられたカラフルなボトルに癒されながら過去や未来にいるお客さんと今のお客さんの調和がとれていく。

「こんなに嬉しいことはないのに」とこちらが止めるまで際限なくお仕事の喜びをどこか誇らしげにわたしの1/2が伝えてくれる。

「だけど、だけど」と、同じ1/2サイズとは思えないほど小さくなったわたしが泣きそうな顔で話を始める。

本当は眠たくて泣きたいくらいなのに、無理やり起きてお仕事場へ向かうときもあるでしょう。

さっきお仕事が終わったばかりなのに、ご飯を食べたらすぐに別のお仕事で頭も心もついていってないときもあるじゃない。

とっくに日付も変わってもう布団に入りたいのに締め切りだからとパソコンに向かい合うことだってあるし。

同じ空間のなかに長い時間いるだけで飛び出したくなってしまってどうしようもない気分になるときさえあるのに。

わたしは働くのは喜びだなんて、思えない。

話し出したら止まらなくなって、最後は最初よりもずっとはっきり「思えない!」と言えたわたしが嬉しくてつい微笑んでしまう。

そんなこちらの様子にも気づかずに、半分の身体の彼女は働くのが喜びだと思えないじぶんを良いとは思えなくてそんなじぶんを持て余しているんだと、それでも半面のじぶんのことも愛していて、だけれどやっぱりその半面と同じようには生きられない、もうどうしたらいいんだと、悪いのはわかってるけどこれがわたしなんだと、かたっぽの目からひと粒ふた粒涙をこぼしている。

そんなわたしのことを、大切に大切に感じてしまう。

目の前に1/2サイズのふたりが並ぶ。

働くのは喜びだ!と誇らしげに言い切っていたほうのわたしもまさかそんなに半身のじぶんは苦しんでいたと知らなかった様子でおどおどと動揺している。

「だっていっぱいお金ももらえるじゃない」「いつも働いて偉いねって褒められるし」「いろんなお仕事してすごいね!って尊敬もされるよ」「嬉しそうにしてたときだってあったじゃない」とかなんとか、だんだん尻すぼみになるその声は、やがて聞き取るのも精いっぱいな声の大きさになってしまい、しまいにはうなだれて黙り込んでしまった。

気づけば2人ともほろほろほろほろ泣いている。サイズもずいぶん小さくなった。

どんどん小さくなる。もう聞こえづらくて仕方がない声で「どうしたらいいかわからない」「もう働くのなんか嫌だ」「誰かに会うのも嫌だ」「ずっとお家で寝ていたいんだ」「それがわたしのやりたいことだ」とかなんとかかんとかどちらの声かもわからず言っている。

こちらとしてはそんな様子もどうしようもなく愛おしく感じてしまう。

やがて嘆くのにも飽きたのか、ちらちらとこちらを向いたりお互いに目配せし合ったり。おそらくこちらが次何を言うのかふたりともじりじりと待っているのだ。

ずいぶん小さくなったなぁと、手のひらのうえに2人をのせて言葉を探す。

「まず、第一に」

泣きつかれたのかぼーっとした様子の2人に向けて語りかけてみる。

「まず、わたしは、あなたたちのどちらかより片方をより愛することはできない」きょとんとする1/2ズ。「そして、あなたたちのどちらかより片方がどちらかよりも優れていると思うこともできない」さらに混乱する1/2ズ。「最後に、あなたたちは片一方だけでは存在できないことをわたしは知っている」

ふんわりと元のサイズに戻ったふたり。もう伝わっているからサイズが戻っているのだけれど、まだ言葉の意味が理解しきれない2人へゆっくりゆっくり説明を重ねる。言葉が身体に染み込んでいくうちにふたつに分かれたその身体はゆっくりとお互いに溶け合って、やがてひとつの身体へと戻っていった。

わたしは知っている、どちらの自分もほんとうの自分だと。わたしは知っている、どちらの自分もどちらかなしには生きられないと。わたしは知っている、どちらのじぶんも等しく素晴らしい存在だということを。

そしてわたしたちは中心を囲んでくるくるとまわり、いつの間にか混じり合ってとろとろと眠るのだ。眠っている間だけ、向き合って言葉を用いずに話すときだけ、わたしたちはひとつの存在として呼吸をともにすることができる。

そうやって、一回一回の分かれを通してわたしたちはより強く結びつき、より力を磨き、やがて身体さえいらなくなってしまうときがくる。

でもそれはずっと先の話、その前に星が終わらないように「働く」を通して社会をよくするのだ。泣いていた片割れの彼女の心を置き去りにしないよう、働き方やその内容、矛先に気を配りながら。

星をよくできるほどの力量はまだないのでときどきこの身体があることに疑問を覚えてしまうけれど、そんなときには決まって誰かが恋心通して教えてくれたり、美しい景色が目の前に広がったり、美味しい食べ物が届いたりする。

あなたに抱きしめられていたい、美味しいものをおなかいっぱい食べたい、綺麗なものをたくさん見たい、そんなちょっとゲンキンなじぶんでいいんじゃないかと最近は思っている。

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過去にも未来にも原因や答えは存在しない。ただ、わたしがわたしを愛しているという事実だけがこの不確かな世界のなかでたしかに信じられる唯一のこと。そしてその愛のもとでしかわたしの行動は真実のものにはならず、この愛をより広げていくことが本当の意味での生きるということ。

うまくいく日もあれば、うまくいかない日もある。なんで言ってしまったんだろうという一言があれば、なぜ言えなかったんだろうと悔やむ一言もある。

だけれども、それでもこの身体と心と共に歩んでいくことがこの世に生を受けたただひとつの理由なのだから、余すこと無く感じきり、ひとつひとつの気付きを行動へと変容させていきたい。

歩みを深めていけばこそ、過去のあの日の一場面も未来で待っているであろう一場面もより豊かに輝きを増すのだから。そう信じて生きるほかにわたしは希望を持てないでいるほど絶望を持っているのだから。

不安も恐れも後悔もなくしたくない。彼らとともに生きることはわたしにとって深い喜びだ。不安も恐れも後悔もすべて「本当はどうしたかったのか」「何を選択するのか」つまり次の瞬間どれを選ぶのか、その選択肢をより明確にするためのヒントでしかない。

どのような流れも乗りこなしてみせようとじぶんに誓う。

夢のなかわたしは大きな馬の背にまたがり、今とは違う声と身体で生きていた。

あの頃から何ら変わらないじぶんが嬉しい。誇り高く生きようと目を覚ましてただ思った。

Have It All

遅い昼寝をしたあとに洗濯物をパタパタと干す。ベランダからふと空を見上げれば大きな大きな白い月が雲の間から産まれていった。

「こんな遅い時間に脱水をかけてごめんなさい」と隣近所に謝りながらため息をついた。

洗濯の時間も思い通りに選択できていないなんて、と、だじゃれ調にじぶんを責めたくなったから。

なぜこんなに変わりたいと、なぜこんなに進みたいと、なぜこんなに成長したいと思うのだろう。

なぜその分だけ、こんなに変われない、こんなに進めていない、こんなに成長できていないとじぶんをなじりたくなるんだろう。

でも、そのあと息を吸い込みながらふと気づくのだ。白い柔らかい月の光に頬なでられながら、気づいていないだけでわたしはこんなに自然に変わっているのだと。

それは強烈な気づきではなかったけれど、ふんわりとわたしを包み「これでいいのだ」と囁きながら通り抜けていった。

 

少し前に、NHKの特番の「欲望の資本主義」を共に暮らすメンバーと栃木から滞在している藤村先生のお弟子さんと見た。

前編と後編に分かれる110分の間に、経済を政府がコントロールする社会主義が批判された頃から市場を自由にしようという流れが描かれ、今度はGAFAGoogleAmazonFacebookApple)の存在がもはや脅威であるという批判に繋がるなか、ブロックチェーン技術による新しい通貨といった新しい存在が紹介された。

じぶんがどのような意識で資本主義を捉えているのかを認識する時間でもあり、これからのお金の使い方を改めて地域性に寄せていこうと決める時間でもあった。

 

途中登場したドイツの哲学家が「facebookに投稿する時間も、Eメールを送信する時間も、無自覚なだけで「労働」を繰り返しているのだ」ということを言っていた。

ハッとするじぶんがいた。わたしたちは情報を提供し、その代わりにプラットフォームを利用する。

顔を合わせずともお互いの考えを知れたり、直接的なご縁をまだ頂いていないひとの考えや生活も覗き知ることができる場だ。

一方でそのプラットフォームは「いかに買わせるか」「いかに競争を煽るか」「いかにアクセスをさせるか」という仕組みにまみれているものでもある。

 

いつもどおりわかりやすくそれからSNSにどう何を投稿したいと思っていたのかわからなくなった。

足りないから競争するのではなく、満ち足りたもの同士で共同的に創造を行うにはどうしたらいいんだろう。

わたしには不足があると信じながら目の前のひとに「あなたには不足はない」と伝えるひとにはなれないのだから。

考え事の種が生まれては消え、呆れるほど眠気にまみれ、わたしはこの数日浮いたり沈んだり過ごしていた。

 

命は有限だ。この身体にいられる時間があとどれくらいなど誰にもわからない。

そのなかでどのように生きようか、わたしがこの人生をデザインするのだ。

それを選ぶ責任だけがわたしに与えられている、他の存在を主語に置く必要などどこにもない。

喜びからそうするのなら歪みは起きないけれど、悲しみや苦しみや抑圧からそれが起きるとき、その場はそのひとはそのものは滞ってしまう。

 

だから、喜びから。

喜びから声をだしたい。

嬉しくて仕方なかった昨日の夜のように。

生まれて初めてのバンドは、わたしにとっても喜びをくれた。

 

喜びから声をあげたい。

満ち足りたもの溢れ出させてしまいたい。

なにも不足などないのだと、大きな声で歌えるように。

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もうこれ以上嘘を重ねない。

できないことはできないし、できることはできるのだから。

やりたいことをやって、やりたくないことをやめながら、昨日の一歩を超えていく。

少しずつ、変われないようで変われているじぶんを喜ぶよ。

わたしは愛を知っていて、その愛から生きられるのだと思い出す日々を生き続けるよ。

 


Jason Mraz - Have It All (Official Video)

Have It All

遅い昼寝をしたあとに洗濯物をパタパタと干す。ベランダからふと空を見上げれば大きな大きな白い月が雲の間から産まれていった。

「こんな遅い時間に脱水をかけてごめんなさい」と隣近所に謝りながらため息をついた。

洗濯の時間も思い通りに選択できていないなんて、と、だじゃれ調にじぶんを責めたくなったから。

なぜこんなに変わりたいと、なぜこんなに進みたいと、なぜこんなに成長したいと思うのだろう。

なぜその分だけ、こんなに変われない、こんなに進めていない、こんなに成長できていないとじぶんをなじりたくなるんだろう。

でも、そのあと息を吸い込みながらふと気づくのだ。白い柔らかい月の光に頬なでられながら、気づいていないだけでわたしはこんなに自然に変わっているのだと。

それは強烈な気づきではなかったけれど、ふんわりとわたしを包み「これでいいのだ」と囁きながら通り抜けていった。

 

少し前に、NHKの特番の「欲望の資本主義」を共に暮らすメンバーと栃木から滞在している藤村先生のお弟子さんと見た。

前編と後編に分かれる110分の間に、経済を政府がコントロールする社会主義が批判された頃から市場を自由にしようという流れが描かれ、今度はGAFAGoogleAmazonFacebookApple)の存在がもはや脅威であるという批判に繋がるなか、ブロックチェーン技術による新しい通貨といった新しい存在が紹介された。

じぶんがどのような意識で資本主義を捉えているのかを認識する時間でもあり、これからのお金の使い方を改めて地域性に寄せていこうと決める時間でもあった。

 

途中登場したドイツの哲学家が「facebookに投稿する時間も、Eメールを送信する時間も、無自覚なだけで「労働」を繰り返しているのだ」ということを言っていた。

ハッとするじぶんがいた。わたしたちは情報を提供し、その代わりにプラットフォームを利用する。

顔を合わせずともお互いの考えを知れたり、直接的なご縁をまだ頂いていないひとの考えや生活も覗き知ることができる場だ。

一方でそのプラットフォームは「いかに買わせるか」「いかに競争を煽るか」「いかにアクセスをさせるか」という仕組みにまみれているものでもある。

 

いつもどおりわかりやすくそれからSNSにどう何を投稿したいと思っていたのかわからなくなった。

足りないから競争するのではなく、満ち足りたもの同士で共同的に創造を行うにはどうしたらいいんだろう。

わたしには不足があると信じながら目の前のひとに「あなたには不足はない」と伝えるひとにはなれないのだから。

考え事の種が生まれては消え、呆れるほど眠気にまみれ、わたしはこの数日浮いたり沈んだり過ごしていた。

 

命は有限だ。この身体にいられる時間があとどれくらいなど誰にもわからない。

そのなかでどのように生きようか、わたしがこの人生をデザインするのだ。

それを選ぶ責任だけがわたしに与えられている、他の存在を主語に置く必要などどこにもない。

喜びからそうするのなら歪みは起きないけれど、悲しみや苦しみや抑圧からそれが起きるとき、その場はそのひとはそのものは滞ってしまう。

 

だから、喜びから。

喜びから声をだしたい。

嬉しくて仕方なかった昨日の夜のように。

生まれて初めてのバンドは、わたしにとっても喜びをくれた。

 

喜びから声をあげたい。

満ち足りたもの溢れ出させてしまいたい。

なにも不足などないのだと、大きな声で歌えるように。

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もうこれ以上嘘を重ねない。

できないことはできないし、できることはできるのだから。

やりたいことをやって、やりたくないことをやめながら、昨日の一歩を超えていく。

少しずつ、変われないようで変われているじぶんを喜ぶよ。

わたしは愛を知っていて、その愛から生きられるのだと思い出す日々を生き続けるよ。

 


Jason Mraz - Have It All (Official Video)

666

この数日は起きている時間が短いくらい眠っている。

起きたら大切なひとが隣にいる。眠るときも隣にそのひとがいるのは居心地がよくて、うかうか考え事もできなくなってしまう。

「良し悪しだな」と思う。誰かと一緒に生きていくとできることもあれば、できなくなることもあるのだと思う。

眠っている間、夢のなかでたくさんのひとに再会した。

妙にリアルなその夢たちは、わたしの心をとてもよく揺らした。

揺らされ終わったあとは、少ししっとりとして落ち着いた心になった。

夢のなか、久しぶりに出会うひとの背に腕を回しながら、わたしは泣いていた。

久しぶりに会えたことが本当に嬉しかったのだと思う。

夢は一番大切な部分以外の記憶はぼやけてしまうけど、怖いものも嬉しいものも、一番重要な部分はなかなか忘れないようにできている。

起きている間、時間はぐんぐんと流れ、あっという間に遠いところに漂着する。

あんなにそばにいたひとも、気づけばものすごい距離のあいたどこかに存在している。

いつもそばにいてほしかったのにと拗ねるじぶんもいるけれど、いつもそばにいてもらえるように生きることはできなかったことも知っている。

全部仕方がないことなのだ。

そうときどき思う。

あんなこと言わなければよかったと思うこととか、あんなことしなければよかったとか、あんな風に振る舞わなければよかったとか、そういうことをときどき思う。

じぐざぐな点の辻褄をあわせるように、じぶんにとって都合が良い夢を見る。

夢のなかではどの間違いもゆるされていることが多い。それを”本当”と捉えることもできるけれど、それを”本当”と捉えることはどこか恐ろしいことのようにも感じてしまう。

でも夢のなかでしか解消されない何かも確かにあって、わたしは眠気に抗うこともせずもう一度眠る。

生きているとあっという間にいろんな物事がゆっくりとしたスピードで変わっていく。

桜だってそうだ。ずいぶん久しぶりに花びらが開いている様子を見たと思ったのに、気づいたらもう葉桜になっている。

ひととひととの関係も、わたしのその場その場での役割も変わっていく。

少し前のじぶんのことを恥ずかしく思ったり、嫌だなと布団から出たくなくなったり、夢に逃げ込んだりするのはきっと、それだけ今のじぶんと差異があるということ。

ひとを通して繰り返しじぶんと対話をする。

なぜそれをやりたいと思ったのか。

本当に今の暮らしに改善できるポイントはないのか。

本当の本当は何を望んでいるのか。

もう少しで手が届きそうなのに、まだ姿が見えてこないので少しむず痒い。

だけども、こうやって時折眠りながら過去を振り返ると、ずいぶん遠くまで泳いだなと思うのだ。

ただ、思うのだ。

そして、泳いでこられたじぶんを誇らしく思う。

その「誇らしさ」は、おそらくじぶん以外の誰にも理解されない誇らしさ。

だって、じぶんの道のりの尊さを知ってるのはじぶんだけだ。

あんなに寂しかったとか、あんなに悔しかったとか、あんなに怒っていたとか、あんなに必死だったとか。

過去のそういう瞬間瞬間の心の揺れを、根っこからの決断をしたじぶんへの誇らしさ。

わたしがわたしを知っていればそれでいいと心から思えたときの安心感と出会うのははじめてのこと。

それはじぶんへのリスペクトでもあるし、信頼でもある。

そして、それは溢れ出して、目の前のひとに対しても湧き上がる。

わたしはこのひとのことを何も知らないのだ。

わたしは、このひとが今までしてきた決断や、仕事や、経験や、恋や、苦しかった出来事を何も知らないのだ。

どんなに嫌いなひとも、好きになれないと感じるひとも、ウマが合わないひとも、みんなこうやって生きているのだと、当たり前のことを理解し終える。

少しいい気分になった。

これを書き終えるに3日過ぎているのだけれど、書き始めた日と違って今日はたくさん起きて、たくさん仕事をして、妙にウキウキとした日になった。

こうやってだんだんと気分が変わり、気分の浮き沈みとは関係なく季節は進み、進んだ先の季節で想像もできない未来と出会うのだろう。

人生いい感じだ。

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もっと大事にしたい性のこと

性について書くのは、毎回少し緊張する。

それはやっぱり、じぶんにとってデリケートなことだし、誰にでもオープンにしてもいいことではないと思っているから。

だけれどもその一方で、だからこそ読んだ人に伝わるものもあるんだなというのは、今までの何回かの記事へのリアクションからわかった。

今回書きたいと思ったのは、これから書くことが生活のすべてに適用することができると思ったからだった。

書き終わったら長くなってしまったけれど、これから書くのは、「流されないこと」「わかったフリをしないこと」「気持ちいいフリをしないこと」の話。

大学生になる前にこれを読めていたら良かったなと思いながら書いている。

それくらい、いっぱい傷ついた大学時代だったし、今だから冷静に書けるところもある。そして、いっぱい傷ついたからこそ、たくさん考えるきっかけを与えられ、今のじぶんになったんだなぁって、ちょっぴり感慨深かったりもする。

読んでみて、意味がわからなかったところがあったり、こう感じたというのがあったり、こういう風に考えたとか、そういう反応があったらぜひ聞かせてほしい。

流されないこと

性的な経験、性行為をするというのは言うならば他者にじぶんの身体を触らせるということ。不安やドキドキ、喜びや幸福感、いろんなものがそれによって得られると思う。

そして、これは人間の脳の仕組みからそうなっているんだけれど、身体的な感覚を伴った記憶はただの学習の記憶よりも長持ちする。

だから、一回一回の体験って忘れたいと思ってもなかなか忘れられないものでもある。

(ひとにもよるかもしれないけれど)

だからこそ、やっぱり体験を大事にすることはとても大事で、そのひと本人が本当にしたいと思うときまで、ちゃんとタイミングを待つのが自然なことだろうと思う。

少しでも恐怖がまじっているなら、素直に相手とそれを話し合うこと。

少しでも不安があるなら、その不安がどこから来ているのかしっかりと見つめること。

あまりにも今の社会は、いろんな広告や、市場のために、恋愛がツールと化している。

恋愛がツールになると、そのなかの性行為も「して当然のもの」として作品のなかに描かれる。

つまり、あなたの幸せを願ってそれは描かれていない、多くの場合、その作品がより大勢のひとに届くことを目的にしてそういったシーンが入れ込まれている。

そしてそれは、「そういったシーンを入れればひとは見たくなる」という人間をバカにした思考から出発している行為でもある。

そんな社会に加担しちゃいけないって、今はそういう風に思っている。

性的な表現を排除したいという意味ではない。

ただ、大切なひとを大切にするため、大切なひとが大切にされるためには、女のひとの身体は軽々しく商業利用されてはいけないし、男のひとはあたかも欲求があるのが普通だというように洗脳されてしまってもいけない。

もっともっと、大切にしたいのだ。

どうして身体を触れさせられるのか。

なぜ身体を触れ合うのか。

そのコミュニケーションは何につながっていくのか。 

もし赤ちゃんができたら、どんな風に迎えたいか。

どんなお家で、どうやって一緒に家族になっていこうか。

いろんなこと考えながら、体験を重ねていけるような、そういう風になったほうが安心な社会があるんじゃないかと思う。

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わかったフリをしないこと

わけもわからないまま10代で初体験を迎えるひともいるという。

良くも悪くも刺激的だから、じぶんのなかにある欠乏感や虚無感から逃れる術にもなりえてしまう。

あのときのあれはそうだったなってじぶんのことを振り返ることもあるし、全部から逃げ出したくて、とりあえず思考を止められる時間にすがっていたともいえる。

でも、それはその状態を解決してはくれなかった。

だから、あの頃の逃げ道に性的なことを使っていたじぶんに言いたいのは「わかったフリをするな」だった。

みんなが体験しているから、なんだかかっこいいから、した後とする前で違うじぶんになれそうだから、気持ちよさそうだから。

そんな「架空」のセックス観で性行為をしても、得るものなんかなにもない。失うものばっかりだ。

画面のなかで、本のなかで、漫画のなかで描かれるそれはファンタジーだ。どこまでいっても「誰かの話」でしかない、わたしの話でもなければ、あなたの話でもない。

傷ついていることにも気づかずに、身体を誰かに明け渡さないで。

されていることが「嫌だ」と感じたら、それはもう二人のコミュニケーションではない。拒絶してもよかったのだと、振り返ってそう思うことがいくつかある。

じぶんの気持ちをもっともっと大事にしたら、今振り返ってこんな虚しい気持ちになることはなかっただろうって、あの頃のじぶんについてそう思う。

そういう経験をしないために大切なのは、一回一回立ち止まる癖をつけること。

誰かの価値観にじぶんの人生を委ねないで、ちゃんと考える。

好きだったら性行為をするのは当たり前?

好きだったら嫌なことをされても我慢する?

そうじゃなかったなと思う。

その好きってどういう気持ちなのか深く深く潜って感じてみる。

もし、その行為の先で妊娠したらどんな風にその赤ちゃんと暮らしていけるかを考えてみる。

どんな状態からでも幸せになることはできるけれど、それでも、刹那的な快感を選ぶよりも、じぶんも相手もみんなもハッピーになる方法を考えるほうを選べますようにって、今はそういう風に思ってる。

気持ちいいフリをしないこと

そうやって、一回一回の体験を大事にするようになってから、本当に素晴らしい時間を過ごせるようになった。

ただお互いの欲求を解消したり、他のうまくいっていないことの八つ当たりみたいに行為をしたりっていうことはもう一切ない。

触れ合っている間も、触れ合ったあとも、とってもホッとしているのを感じる。

もし、赤ちゃんができたとして、彼が一緒に育てられないと言っても、今のじぶんだったらこの場所でみんなに助けてもらいながら育てられるなって思うこともある。

でも、最初からこうだったかっていうとやっぱり違う。

今のパートナーのひととだっていっぱい傷つけあったと思うし、いっぱい嫌な目にもあった。でもそういうネガティブな経験は全部、じぶんが社会に流されて、わかったふりをして納得したふりをして、気持ちがいいふりをしてたから起きたなって思う。

(救いだったのは、彼がバカじゃなかったということだ。よくSNSで流れてくるみたいなAVのマネをしちゃう男のひとでもないし、しっかり会話ができる素敵なひと。たぶんすんごい面倒くさかったと思うけど、逃げずに向き合い続けてくれたおかげで今のじぶんがある。)

わかったフリをしない大事さって全部に言えるんだよなーって今振り返るとすごい思う。

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ふつうなんかどこにもない

性の話も、結婚とか、就職とか、家族との距離感とか、「ふつう」ってファンタジーだから、そんなもの本当はなくて。

ひとつひとつじぶんが考えて、じぶんで答えをだして、じぶんの言葉でそれをひとに説明していくことでしか、じぶんを大切にするってできない。

中途半端にじぶんを納得させて、我慢して、我慢してるのにも気づかないように不感症になって、感じないけど我慢してるから具合悪くして。

そんな風に命を無駄にしちゃだめだって、今すごい思っている。

もしかしたら、こんな生き方うまくいくはずなくて、数年後にはのたれ死んでるかもしれないけれど。。

だけど、あの頃のわたしと、今のわたしが全然違うのは、中途半端にじぶんを納得させたりせずに、まっすぐにじぶんの感情や欲求と向き合って、その本音をひとと交換しながら人間関係をつくりあげ、命からまっすぐに沸く感覚から仕事をして輝いている大人のひとをたくさん知ってるということ。

わたしがかっこいいって思う大人のひとはみんな今の時代ではマイノリティーに属してるけれど、でもきっと、それは目立つだけで、誰のなかにもマイノリティーって潜んでいるんだと思う。

もっとみんながじぶんの言葉で話したら、うんと息がしやすい社会になるんじゃないかって妄想をときどきしてる。

つまり、みんなのなかにあるちょっとした「馴染めなさ」や「生きづらさ」が、次の時代をつくるヒントになっていく。

「これが常識だから」

「みんな守ってるルールだから」

「会社ってこういうものだから」

「組織だから仕方がない」

「そんなことしたら大変なことになるから」

「だってこんなじぶんだし」

そんな言葉を言いたくなったら、そのあとにあえて「でも、本当にそうかな?」って続けてみるようにしてる。

人間の脳みそって素敵にできてて、みたいものをみれるようになっている。

「でも、本当にそうかな?」の目で世の中をみると、意外とそのルールじゃないルールで生きているひともたくさんいて、しかもハッピーそうな気がする。

なんでもいいよ、オールオッケー!っていう感じじゃなくて、ひとつひとつ吟味したい。

このルールってなんのためにできたんだろうとか、より居心地の良い組織ってなんだろうとか、じぶん以外のひとも幸せになる道につながってないかな、とか。

ときどき我慢もする。

でも、じぶんで決めた我慢だったらそれは「抑圧」にはならない。

この辺の感覚はまだ整理しきれていないけれど、何事もじぶんを主語に置いて決めると、ストレスってめっちゃ減るんだなって最近のじぶんの暮らし方みてると思う。

(よく怒ってるひとを注意深く観察すると、そのひとを怒るひとがいることに気づく。怒られているひとは誰かを怒りたくなる、だから褒められてるひとはよくひとを褒めてる、どっちが先かはわからないんだけど。)

ひとつ踏み込んで書くと、ひとをコントロールするのに一番手っ取り早いのは「抑圧」することだと思う。

自由を奪って、ルールをたくさん与えて、自然な欲求が「抑圧」されると、ひとはじぶんが解消できる範囲でそのストレスを解消しようとする。

そしてその解消は、よく目にする情報によってその方法が決定されていく。

たとえばニュースやワイドショーでいっぱい不満を煽られたり不安を煽られたりしたあとのテレビってだいたい通販番組が始まる。

こわい、悲しい、つらい、でもどうすることもできないってなったあと、あ、これだったらできる!って、これがあったら幸せになれる!っていう情報にパッと飛びつかせていっぱいお金を使わせる。

そういう仕組みが世の中にはいっぱいある。

SNSだってそうだよね。

じぶんよりうまくいってそうなひと、キラキラとした情報がいっぱい流れてきたあとに、「なんでじぶんは」「こんなじぶんじゃだめだ」っていう思いが湧いてきて。

もしそこにパッと誰かの記事みたいな広告で「望むあなたになる方法」とか「これを買ったらそうなれます」とか、そういうものがあったら、つい買っちゃうかもしれない。

性の話に戻したら、まずじぶんの本当の欲求はなにか深く深く感じてみてほしい。

男のひとの多くは性欲を煽られすぎているし、それは射精によって解消されるかのように描かれすぎている。

女のひとの多くは架空の「美しさ」「可愛さ」がじぶんの価値であるかのように煽られて、たくさん買わなくてもいいものを買っている。

どんな人生を歩むのもそのひとの自由だけど、わたしはもっともっと社会がたのしいものになるように生きていきたい。

わたしよりも年の小さいひとたちや最近出会っている子どもたち、赤ちゃんたちが、わたしが感じた生きづらさは感じないほうがいいと思っている。

だから、「結婚しないのー?」って聞かれたら「結婚ってなんでするんだろう」って面倒くさい返事をするし、「お化粧しないの?」っていじられたら「なんでお化粧するんだろう?」って返事をする。

シェアハウスを男の子2人としてると話すと「身体の関係にならないの?」と聞かれるけど、それにも「どうしてそうなるの?」と返事をする。

生活空間を分けていないと話すとさらに驚かれるし「こわくないの?」と聞かれることもある。

わたしは、今はわたしが傷つくことを2人はしないことを知っているからこわくないけど、最初はこわかった気持ちもあると素直に話す。

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つくられた枠をひとつひとつ壊していく。

男、女、結婚、就職、進学、服、下着、価値、お金。

いっぱいあるそれらをひとつずつバラバラにして、じぶんの答えをつくっていこう。

そういう気持ちで生きている。

長かった!読んでくださってありがとう!

今思っていることの全部でした。

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