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わたしの幸福はわたしが決めるもの:橘玲『幸福の「資本」論』を読んだ

幸せってなんだろか。久しぶりにガツンと考え込む瞬間だった。

それは今夜あったイベントの後半で紹介された橘玲著「幸福の資本論」から始まった考え事。

(考え事自体はイベントの趣旨と違うものなのでイベントの話は割愛、素晴らしいイベントだった、登壇している方の言葉の響きのまっすぐさに惚れ惚れとし、今のじぶんに必要なヒントをたくさん受け取った。)

幸福の「資本」論―――あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」

幸福の「資本」論―――あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」

 

Amazonには、下記のように紹介されてた。

作家であり、社会評論家でもある橘玲氏の集大成ともいえる内容で、初めて「ひとの幸せ」について真正面から取り組んでいます。

 幸福であることを条件づけるものは、「自由」「自己表現」「共同体=絆」の3つである。

 橘氏は、「幸福」は、しっかりした土台の上に設計するべしとし、その人生の「インフラストラクチャー」を前述の3つに対応させて、以下に求めます。

「金融資産(資本)」「人的資本」「社会資本」。

この3つの資本の組み合わせによって生まれる「人生の8パターン」によって、すべてのひとびとの「幸福」のカタチが説明できるとしています。社会資本(中学からの友達ネットワーク)しかない田舎のマイドルヤンキーは、「プア充」。「友だちネットワーク」から排除されるとたちまち3つとも持っていない「貧困」に陥る。金融資産がなくても、高収入を得られる職業につき、友だちや恋人がいれば、人的資本と社会資本を持っている「リア充」。人的資本と金融資産があって社会資本がないのは、「金持ち」の典型、という具合。3つの資本をすべてそろえることは難しいが、せめて2つをそろえれば「幸福」といえる状態になるのではないか。では、どうすれば2つをそろえることができるのか、そして「幸福」になれるのか、3つの資本を解説しながらその答えを追いかけます。

 

幸福の「資本」論―――あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」

 

この「幸せの資本論」によって揺れた心のアンテナが示した方向はネガティブだった、身体的に「なんだか嫌だ!」とわたしは思った。

でも、ポジティブな反応なのかネガティブな反応なのは大した問題ではなく、重要なのは何かしらの反応がそれに対して起きたということ。

そして、その絶対値(どのくらい揺れたか)が最近起きた出来事のなかでやや大きいものだったので、今あらためて書いて整理しようとしている。

ひとが幸福になるということ

著者は本書のなかで「ひとは幸福になるために生きているけれど、幸福になるようにデザインされているわけではない。」と述べている。(上記本、位置NO.77より引用。)

幸福の資本論の前提になる考えとして、人間は神によってデザインされたわけではなく「進化」によって身体も心もつくられてきた、”進化”の目的はじぶんの遺伝子を増殖させることとある。(同ページ)

さて、本はこの前提に関する部分の記述から、その後下記の目次のように進んでいく。

 

目次

0 「お金持ち」と「貧乏人」の三位一体幸福論

 ・幸福の3つのインフラ
 ・「最貧困」から人生を考える
 ・人生の8つのパターン

1 自由のための金融資産

 ・お金と幸福の関係
 ・マイナス金利の世界) 

2 自己実現のための人的資本

 ・人的資本は「富の源泉」
 ・クリエイティブクラスとマックジョブ
 ・サラリーマンという生き方
 ・オンリーワンでナンバーワンの戦略
 ・超高齢社会の唯一の戦略 

3 幸福のための社会資本

 ・友だちとはなんだろう?
 ・個人と間人
 ・うつは日本の風土病なのか
 ・幸福になれるフリーエージェント戦略
 ・「ほんとうの自分」はどこにいる?
 ・それでも幸福になるのは難しい 

幸福の「資本」論―――あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」

 

それぞれの章でなぜ、幸福になるための条件として「人的資本(”何者”としての存在確立)」「社会資本(ひととのつながり)」「金融資産(経済的自立)」があげられるのかが具体例を交えて説明されたうえで、エピローグにて幸福な人生への最適戦略が下記のように紹介される。

 

金融資産:「経済的独立」を実現すれば、金銭的な不安から開放され、自由な人生を手にする事ができる。
人的資本:子供の頃のキャラを天職とすることで、「ほんとうの自分」として自己実現できる。
社会資本:政治空間から貨幣空間に移ることで人間関係を選択できるようになる。

(上記本、位置NO.2847より引用。)

 

わたしの幸福はわたしが決める

読み終えて、イベントのなかでの話に対する反応は3つの考えに整理された。

まず第一に、わたしの幸せは誰かによって定義されていいものではなく、わたしによってのみ定義されていいものであるということ。

「幸福の資本論」はあくまで著者が整理したもの、もちろん学術的な研究もたくさん根拠としてあげられていたけれども、そのひとつひとつの選択も著者本人がしたものであって、世界には当てはまらない無数の事例が存在しているはず。

いつだって、そのとき最前線だとされる研究結果はまた次の期ではくつがえされたり、内容はたえず更新されていくのだから。

でも、これは逆に言えば、「幸福とは何か」をこれだけ具体的に説明ができるというのはすごいことだということでもある。

そもそもの"幸福"の定義が重要

それは二番目の考えとして形になった、つまり、わたしの思う「幸福論」は「じぶんの幸せが何かを知っていて、その実現方法について検討がついている」ということである。

著者が整理した幸福になるための必要条件はすべて「遺伝子を増殖する」という目的と相関する。その観点から表紙のピラミッドは”貧困”が最底辺、”超充”が最高と表現されている。

つまり、わたしの定義する「幸福」が「遺伝子の増殖」でなければ、これは当てはまらない。

別に屁理屈が言いたいわけじゃない。

一番目の考え「わたしの幸せはわたしが決める」、二番目の考え「わたしにとっての幸福論」、このふたつをあわせると、今のわたしの”幸福”に対する考えが明らかになるというだけのことなのだ。

定義の背景にある前提を見つめる

著者は本の最後を「幸福な人生を目指して頑張っているときが、もっとも「幸福」なのかもしれません。」(上記本、位置NO.2859より引用。)と締めくくった。

これを読んだときにはっきり理解したのは、この「幸福」は「現在の日本の社会」のなかでのより”豊かに生きるため”の生存戦略だということ。前提とされる様々な競争や、概念が存在しているうえでの「幸福」だということ。

わたしはこの本で示されていた「幸福」が表現される舞台である「社会」に対する捉え方が著者のそれと異なっている。

いろんな出会いがその差異の要因になっている、一番大きいのは去年の今の時期に出会った非電化工房の藤村先生との出会いだろう。

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藤村先生はわたしにたくさんのことを教えてくれた。

「家やエネルギーは借りなきゃいけないものでも買わなきゃいけないものでもない、じぶんでつくれるもの」

「暮らしを人質に取られずに生きていくためにまず固定費を下げて思考できる余裕をじぶんで生み出すこと」

「過去の経験やスキルからではなく、生きたい未来の情景からじぶんの生きる道を決めること」

そして、先生との出会いが引き金になり、わたしはたくさんの”実践者”の先輩方と直接お会いできる機会をいただいた。

みんな本当に豊かに生きていた、共通していたのはじぶんの幸福が何かを知っていて、それを実現する術を身に着けていたということ。

もちろん、そのひとたちの生き様を「幸福の資本論」に基づいて説明することだってできる、すべては翻訳可能だ。

だけれども、翻訳のさいに抜け漏れてしまう雰囲気、ニュアンスの部分がわたしを強烈に惹きつける、それが「この社会をどのように捉えているか」という点なのだろうと思う。

それは「この社会をつくる”人間”をどのように捉えているか」とも言い換えられる。

人間として生きる

わたしは「幸福になるために生きている」わけじゃない。わたしは今この瞬間に幸福を感じている。そのためにこの身体がある。

そして、それをよりリアルに感じるためにもっと「生きる」を取り戻したいのだ、それは古代の暮らしに戻ることではない、不自由を享受してたのしむのではない、ひとに明け渡してしまっていたところをもっとじぶんで満たしていきたい、じぶんのなかの密度を増したい。

その欲求を感じながら、そこにまた”幸福”を感じている。

ああまだ上手に説明できない。だけど今日はここで断念!

最後まで本を読んで、著者のことをすごいと本当に思った。すごい、じぶんの考えていることをこんなに具体的にひとに説明できるのってすごい。

それに比べて、わたしの最後の最後の考え事たちの稚拙なこと。ひどいね。

それでも最後の最後に感じた微妙な差異、これがこれからの道のりのヒントになるはず。

もっともっと説明できる言葉を増やすために、もっともっと経験を積もう。

読んでくださってありがとう、どこかであなたにとっての”幸福”、あなたの”幸福論”をお聞きできる機会がありますように。

ひととの差異、心のアンテナの揺れ、身体的な感覚からでしか、わたしはわたしを知ることが、わたしはわたしの”幸福”を認知することができないのだから。

あのとき心が揺れてよかった、揺れなければわたしはこの本を読まなかった。

ありがとう。

「30才越えても結婚してないひとはひととしておかしい」わけがない

お好み焼きにいたふざけたひとのおかげで、改めて彼と「結婚」の話をした。

もう7年目に突入!ということで、小学1年生も晴れて中学生に!みたいなところがあるし、こないだおじいちゃん心配してたし、たまたまお好み焼き屋で隣にいたひとが「30過ぎて結婚できていないひとはひととしておかしい」というふざけたこと言っていて怒っていたのもあって、さてわたしたち結婚どうなんでしょうっていう話し合い。

大学入学したての頃から変わらずずっと大好きだけれど、わたしも彼もまだまだ「ふたりで」が主語になる段階じゃないよねっていう話が今回できたのが、わたしにとっては大きな収穫。

結婚する必要が生まれる状況

赤ちゃんを授かったわけでもなく、どちらかの親の介護が必要になってるわけでもなく、わたしたち2人のどちらかが介護が必要な状態になっているわけでもない。

ケアを無思考に引き受けたいという思いで「介護」といっているわけではない。これはやっぱり、純粋に愛情と関係の距離の問題なのだろうと思う。

彼の介護はわたしが一番適任だろうし、わたしの介護もまた彼が一番適任だと思うから、そういう話をした。

でもおかげさまで身体もげんきだし、仕事もいい感じ。

そう、まだ「ふたりで」の段階じゃない。

公的にふたりの関係を「家族」として認められないと困る状況がひとつもないのだ。

結婚は恋愛のゴールじゃない(と思う)

そう思っているひとがいても別にいいんだけど、彼にとっても恋愛のゴールとしての結婚という感覚はなく、わたしにとってもみんながしてるからじゃあしようかっていう感覚もなく。

勢いでしちゃうものというのもわかるような気がするし、突然手相を見てくれた占い師のおばちゃんに「あんたいい結婚するよ〜」と言われ、同じ日に彼も手相を見てもらって「運命のひと赤い服着てるよ〜」と言われていたりして、ひゃ〜〜😚💕ってなったけどね。

でも、結婚したってしてなくたって本音で話し合いができなかったら寂しいままだし、お互いのどちらかが「女はこうすべき」「男はこうすべき」っていう時代錯誤や、じぶんのなかの偏見と向き合う姿勢がないままじゃ、ふたりでいてもハッピーになれない。

お互いの妥協で理想の暮らしをつくるんじゃなくて、お互いの最高と最高を結んで、より最高の暮らしをつくるためにふたりでいるんだから、結婚していようとしていなかろうと、大事なのは本音でコミュニケーションとれるか、言葉が届くか、言葉が受け止められるかという点ではないかと思う。

結婚したら幸せになれる?

 

わたしは結婚も手段だと思う、もっとハッピーになるためにそれが必要だと思うならお見合いしたって何したっていいと思う。(じぶんを偽らないでいられるのなら)

でも、それによって幸せになる!幸せになれる!になるとちょっと話は違ってくる。

だって、結婚していない状態でできないことは結婚したってできないし、さみしさって誰かとの関係によって埋まるものではない。

起業したら幸せになれる!わけじゃない、起業する前にできなかったことが起業したらできるようになるわけじゃない、ひとつひとつできないをできるに変えて、経験を強みにしていくのが大事なんだろうな。

その道程が幸せなんだろうし、その道程が幸せじゃなかったら明日死ぬってなったときめちゃくちゃ悔やむ。ああなんで我慢してたんだろうってめっちゃ悔やむ。

いつでもできる、いや、そもそもできないひともいる

でもやっぱり、この「ふたりで」じゃないもんねっていう話ができたの、嬉しかった。

そして話をしながら、わたしは30才過ぎても別に結婚したいと思ったら結婚できるし、彼もとっても魅力的なひとだから、いつでもしたいと思ったときにできるよって話ができたのも、嬉しかったなぁ。

、、、だけど、ふと我に返ると、よく知ってる同性のカップルは市長が変わったら吹き飛ぶような制度で保証されなければ不動産を一緒に借りることもままならいわけで。なんて平和ボケな会話をしてたんだ・・・と思ったよ。

台湾で同性婚ができるようになって、アジア初!と盛り上がっていたけれど、制度の平等(だれでも享受できるようにする)ことと並行して、そもそも結婚ってなんなんだっていうところだよな。

やっぱりみんなで「なんでこの制度あるんだっけ」「なんで結婚するんだっけ」ってひとつひとつ立ち止まることが、社会をあっという間によくする方法なんだろうなぁ。

これからのふたり

どっちにしろ、いつふたりの道が分かれてもいいと思いながらも、子どもから大人になる道を共有してくれたひとに出会えて、ほんとにめちゃくちゃ運がよかったなって思うなぁ。

わたしが結婚するときはこの「ふたりで」の登場するときだというのがはっきりしたのもよかった。

彼にとっても、わたしにとっても、このあとも良い道が続くといい。

別のひととの出会いが必要になるのであれば、自然とそう導かれるだろうし。

ナチュラルにちゃんと話ができるひとで、世間の「ふつう」にのせられないで話ができるひとで、ジェンダーの目もなく、心からまっすぐに言葉を紡いでくれる姿勢に改めて尊敬した。

この話し合いが終わって、もっと好きだと思った。

でも明日にはもう超別のひと好きになってるかもしれないし、そんなのやっぱわかんない。それは誰にとっても同じなような気がするけど、違うのかな。

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だけど一緒にいられる時間がほんとにいいよ!

この先自然と一緒にいることになるなら、それはそれでハッピーだね。

時点ごとにひとり

「全部の仕事が混ざり合って、どれが”仕事”でどれが”休み”かの線引が曖昧になるね。」

「前みたいなしんどさはないと思う。」

 

じぶんでも感じていたことを、的確にしっかりと重さを思った言葉でいつも頼りにしている方に言語化してもらう。

 

2ヶ月止まってしまった生理は、2ヶ月前のじぶんの強烈な不安を思い出させる。

大丈夫だよと、けだるい13日目を終えようとしながら思う。

 

大丈夫だよ、2ヶ月先でわたしはわたしのペースを見つけて、2ヶ月前よりもたのしく働いているよ。

だから、その不安のなかで「なんでこんなにうまくいかないんだろう」って嘆きっぱなしでも大丈夫だったよ。

 

2ヶ月生理がこなかった間、いい意味で覚悟が決まった。

もし、赤ちゃんができているんだとしたら。

 

そのなかで、わたしはどんな風に彼女、彼と暮らしたいのかを明確に意図できるようになっていた。

それは前にはできなかったことだった。

そういう試みのなかで、もっともっと在り方を極めるのだとまた決めた。

 

日常のなかでの小さな嘘が、数世代先に大きくうつる。

わたしの嘘をなくすのは、わたしが心地よく生きるためだけはなく、わたしの先に続く世界のためにもなる。

 

(のだと、信じている。)

 

2ヶ月の間にいろんなことがあった。

 

新しい職場のひとたちはみんな優しく気持ちの良いひとたちで、久しぶりに人間関係のなかに男のひとがいっぱいいて面白いよと。

わけわからないITの話だったのが、実は繰り返し繰り返し書き起こしのなかで学んでいた関係構築の話をヒントにするする紐解けていくんだよと。

 

2ヶ月前のじぶんに話しかける。

 

あのとき不安だったことが今は面白いよ。

今も不安はあるけれど、それも全部この先にいるわたしは乗り越えているのだろう。

 

「お金のために働くのは間違っていると思う」

じぶんとほんとうにぴったり同じ価値観を持っていると話を聞けば聞くほど思うひとと出会った。

出会いは不思議だ、同じなことがよりわたしの持っている資源の違いを思い起こさせる。

彼には彼だけしかできないことがあり、わたしにはわたしにしかできないことがある。

 

いつかひとつの点重なって、大きな出来事をともに生み出せるといい。

そんなことを望んでしまう出会いだった。

 

2ヶ月前のじぶんが知らなかったこと、2ヶ月先にいる今のわたしはたくさん知ってる。

不安のほうに振っていてくれたから感じられる新しい安心がここにある。

 

もっともっと遠くの未来に点を置こう。そのために生きていけるような点を描こう。

その点をもっと詳細にイメージしよう。その点のためなら歩いていけるような気がしている。

 

2ヶ月前のわたしは知らなかった。今のわたしは知っている。

2ヶ月先のわたしは変わらずわたしを笑うだろう、そんなに不安になることないよと。

 

どんどんと景色が変わる人生はあっという間。

いつ終わりが来てもいいように、ひとつひとつのお別れをたのしんで。

おばあちゃんのわたしは今のわたしにそう言って笑うのだ、いつも。

 

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切ないに弱い

切ないって突然襲ってくるので身をかわす暇もない。


言葉が通じあえなかったとき。

真心のかけらもない笑顔を顔にくっつけたとき。

あのとき言いたかった言葉を今更になって知るとき。


切ないに弱い。


収穫したトマトも、手のひらに出すと喜びより少し切なさが勝った。

すごく嬉しいのにすごくもったいないことをした気持ちになった。


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切なさを感じるとくたーっとなる。

水が足りないときの草みたい。


こないだ職場で「じぶんが一番じゃないと気が済まないんだね」という言葉が飛んでいた。


わたしに向けられたものじゃないかもしれないし、わたしに向けられたものだったかもしれない。


どちらかはわからなかったけれど、わからなかったことよりも、この言葉に貫かれたじぶんの弱いところが痛かった。


わたしはわたしに対して、そういうところよくないなと思っているから、その言葉が飛んでいるのを眺めながら勝手に心を痛くしたのだ。


わたしはわたしが一番可愛がられるのとっても好きだし、特別扱いされるのも大好きだ。


小さい頃からたくさんそれをしてもらってきたなとも思う。

いっぱい優しい人に出会ってきたということでもある。


でも確かに、目の前の人がわたし以外に心を寄せたりしていると、なんだかテンションあがらないってあるんだよなーと。


とっても傲慢な嫌なところだなーと思っていた。


でも、誰にも彼にもわく気持ちでもない。


みんなに心配る人だと知っていたらなんとも思わないし、好奇心わかない相手にはその欲求もわかない。


やっぱりじぶんが特別に好きな相手にその気持ちがわく。


でも、そのわく相手の人みんなと恋人になれるわけでもないし、相手には大切な人がいることもできることもあるわけで、わたしに関心を持ってもらえなくなったとしても仕方がないし、そもそもふつう、、、と。


書いててやっぱりちょっとへこむ。


なんかちょっとつまんない気持ちになって、でももう大人だしそんな顔しちゃダメだなって思うからいつもよりもっと大人になって仕事がはかどる。


しょうがないのかもしれない。


この気持ちは誰かそういう「特別」なひととだけ交換する気持ちなのかもしれない。


一種の契約みたいなものだ。


あーあ、やだなー。

こんなじぶん、やだなー。


でも、実は知ってる。

この気持ちになるとき、たいていちょっと無理してる、頑張りすぎている、良くないスケジュールで動いている。


緩めないから、がんばってるって言って!褒めて!って、活動がどんどん活発になっちゃう。


でもスタートの心がねじれてるから収穫できる現象もちょっとねじれてる。


だから、たぶん。


こんなじぶんやだなー。

のその前に、ちょっと休んだほうがいい。


なんだか突然、明日も明後日も休みになったから、ゆっくり過ごそうと思う。


何もない日が2日続くのは久しぶり。


突然やってくる切ないにも負けないくらい強い根っこを、わたしは今育て直しているところ。


かっこ悪くて情けないけど、本当にじぶんが一番なのが嬉しいし、特別扱い大好きで、それがなくなっちゃうと、なんかつまんない。


しかし、それでもまたすぐじぶんに返って、どんどんご機嫌に戻れることのほうが本当は多い。


だからたぶん、休んだら今ちょっと痛んでる心もぴかぴかとまた輝くはず。


そして、もう少し歳を重ねたら、この気持ちの癖みたいなわたしのちょっとしたゆがみはよくなるはずだ!と信じている。


今日は、よく眠ろう。


みなさんにもあるんだろか。

大人に見えるあのひとやあのひとのなかにもあるんだろか。

人生初イベント出店の記録:祝福は創造を助けてくれる

働くということについては何度も言語化を重ねているけれども、何度目の前にテーマとして取り出してみても本当に味わい深いものだと思う。

今回新しい「働く」を経験したので言葉にしておきたい。

イベント出店について

昨日、生まれて初めてカラーセラピーでイベントに出店した。

わたしは今まで「出店アレルギー」だった。なんだかずらっと並ぶその様子や、お客さんを座って待つのが不自然に思えたから。

実際にひとに面白おかしく出店について揶揄したことも何度もあるくらい、わたしには理解できない無縁のものだと思っていた。

出店の誘い

わたしのそういう揶揄癖のところも知っている方で、ご本人自身はトランスフォーメーションゲームという素晴らしいツールでセッションされている大好きな仲間のひとが、ふと声をかけてくださった。

やってみない?

やってみよう!実はずっとやってみたかったのだ!と秒で返事をした。

実はずっとやりたかったというのは大げさなことではなく、何度も月の雫というこれまた大好きでお世話になっているひとがその時期大きなイベントを企画していて、その出店を募集していたのもチェックしていたくらい、ずっとやってみたかったのだ。

でも、そのイベントに出店するためには月の雫のお二人に実際にセッションをするという審査があって、わたしはとてもじゃないけれどもしじぶんのしているセラピーが良いものでなかったらと、それが判明することを恐れて応募できなかった。

だけれども、そんなタイミングで別のお誘いがあって、イベントの規模も大きくはなく、主催の方にも初出店だというのもお伝えしたところ快く受け入れてくださったので、今回出店がさせてもらえる流れになった。

すべてブーメラン

今まで揶揄してきたそちら側に立つ日が近づいてくるにつれて、猛烈な不安と後悔がわたしを襲った。

なんであんな心無いことを言ってしまったのか、お客さんが0人だったら、ああやってじぶんがからかっていた並んでいたあのひとたちよりもだめだということにもなる、なんであんなこと言ってしまったんだろう、あのひとたちは今のわたしの恐怖を乗り越えてあそこに並んでいたのだ、わたしより何倍も何倍も度胸のあるすごいひとたちだったのだ・・・と深く深く反省した。

わたしのセッションは尊敬してるひとに胸を張って受けてほしいと思えるものじゃない、審査を受けるのを怖いと思うということはやっぱりまっとうなものじゃないのかもしれないと、激しくじぶんをなじり、何度も何度も心のなかで今までのひどい言葉を謝った。

舞台に立つ

練習不足でも幕は上がる。

ウクレレとともに人前で歌うことを初体験したときも死ぬほど緊張したのだけれど、そのときにウクレレの先生は繰り返しそう言っていた。

ラートの舞台のときもそうだった。

どんなに準備が万全だといえなくても、その日、その瞬間はやってきてしまう。

当日会場に着いた頃にはもはや一周し終え「ああもうお客さんなんかひとりもこないよ!あーあ!まったく!」と、いじけたときのちびまる子みたいな感じで、じぶんが本当にそういう状況になっても傷つかないよう必死で心の準備をしていた。

幕が上がれば

そこには全く違う景色があり、想像を超えた学びをいただいた。

開始すぐ「受けてみたい!」と初対面の方が。その方のセッションを開始してすぐ、今までのセッションよりも深い共感と一段階進んだ言語化が起きたことにじぶんで驚く。

するすると滑らかにセッションは進み「本当にありがとう!!受けてよかった!!」と涙ながらにお礼を言われるとわたしも泣いてしまいそうになった。

最後に「また受けたくなったらどうしよう!」と、連絡先まで交換させていただいた。

なんちゅう奇跡!

これだけでも来てよかったと、そのときは「じぶんの技術がいつの間にか進化した」と喜んでいた。

続けざまに

その後も休憩することもなく、ひとり、またひとりと、「会いにきたよー!」という嬉しい仲間のひとたちや、「お母さんと一緒に」と親子ふたりで受けてくださったひと、時間をともにすることも多い親しいひと、5時間で7人の方にたのしんでいただいた。

みんな大いにたのしんでくださって、泣いたり笑ったり、あっという間の5時間だった。

思い知る

最後に受けてくださった方のセッションを終えてわたしはきちんと今回の出来事の意味を学んだ。

まず最初に、セッションがより深度を増したのはわたしの技術が進化したわけではないということ。

お客さんたちみんな、わたしも含めたこの星に生きるひとみんな日々一歩一歩進むようにそうやって進んでいて、もはや「課題解決」「問題解決」「アドバイス」などどこにも必要がなくなっている。

もちろんセッションのなか具体的にそのひとにぴったりのツールや方法論が浮かぶこともあるし、それも伝えるのだけれど、わたしがあの日みなさんとしたのは「創造」だった。

より豊かに生きられる未来の創造。

よりじぶんらしく在れる未来の創造。

より愛をたくさん感じ溢れる未来の創造。

「創造」を増やす

導く誰かと導かれる誰かという構図は崩壊し、いかにお互いの創造性を高めあうかがこれからの関係をつくるのだろう。

お互いに否定をし合うこと、じぶんのなかでじぶんをいじめること、じぶんの可能性に蓋をし誰かの可能性を羨むこと。

そういうことを終えて次の一歩を始める。

ひとつひとつバラバラに分かれていた感覚をじぶんの内で結び、より大きな力でもって毎日を包み生きる。

実際にやってみる、体験する、新しい扉をノックする、そういうことがどんどんと新しい「創造」を助けていく。

キーは祝福

創造って具体的に書くと、なにかを生み出すということ。

なにかを生み出すためには土台がいる、タネが芽吹くためには良い土がいる。

祝福はその土を、その土台を醸成するひとつのキーワードになる。

今回のセッション、すべてのひとに共通していたのは強烈な「祝福」だった。

そして、この祝福に限り、わたしは誰が相手でも関係ないと気づいた。

そこにはセッションをするひとされるひとの区別が全くなく、ある意味で一体となって言葉を紡ぐ。

あますことなくそのひとの過去、今、未来の、わたしが隣で感じるものを言葉にする。

すべての瞬間に、その瞬間に形になっていないものたち側からの祝福が届いている。

形のなかにはない、形は完成されたもので、その形以外のところにその祝福は溢れている。

祝福する

日常的に祝福することは、今の世界にはあまり習慣がない。

しかし、お互いのエネルギーをより純粋にさせ高めるものは祝福なんだと知った。

おめでとう、本当におめでとう!

何度もそう思い、そう感じ、そう言葉にした。

祝福しあうとそれがさらに力を増し、種のようだった未来がどんどんと育ち強く芽を出すのが見えるようだった。

祝福には上下がない、わたしは何か特別なものをセッション中に見ているわけではない、わたしはおそらく深く共感しているだけだ。

そのひとの奥深いところにあるそのひとへのそのひと自身からの祝福を「気づいたね、おめでとう」という次の一歩へのエールを、わたしはそのひとに返しているだけなのだ。

出店を終えて

出店を終えたあとすぐに、次にじぶんがしたいセッション、セラピーが思い浮かんだ。それはとってもウキウキわくわくしてしまう内容で、そのために必要な準備を助けてくれるひとの顔もすぐにポン、ポンと浮かんだ。

わたしのなかは「喜ばせたい!」でいっぱいになった、もっとこうやってみんなを喜ばせたい、本当のことを手渡して、一緒にエネルギーを共鳴させ増やしていきたい。

純粋にそう願った。

おまけ

そんなことを経験したらなんだか続けざまに新しい仕事が、こちらも本当に以前からやりたかったことで願ってもいない環境でのお仕事だった、それが決まり小躍りした。

スケジュール的にはわりといそがしくはなるんだけれども、今この状態であればどんなスケジュールもこなさなければいけないものではなく、たのしんでいける予定になるだろうとそう思えている。

すべての点がつながるのはまだまだ先のことだけれども、それまでこの毎日を、この毎日思いつくことを形にする実験の日々を愛し進んでいきたいと改めて誓った。

というわけで、新しい働く「出店」についての記録でした。

もう二度とひとを馬鹿にしないと心に決める経験だったな〜苦笑

読んでくださってありがとう!

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