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恋を通して学ぶこと / 2020の生き方 / わたしのなかのスペース

誰かを好きだと思う気持ちは不思議だと思う。香水にトップから香りが順にあるのと似たような感覚で、恋にも順に広がる重みや深みがあるのかもしれない。

お仕事をしていると素敵な方との出会いは性別関係なく訪れ、そのなかでじぶんが惹かれる相手の共通項を見つけることがある。

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わたしにとって重要なのは「どのようなスタンスで仕事をしているか」「人間味を感じるか」の2点のよう。

結局この数年でたくさんたくさん誰かを好きになってようやく見えてきたのは、わたしが人生で大切にしたいこと。じぶんがかっこいいと思うのはなんらかの美意識を持って日々を一生懸命に生きているひと。わたしもそう在りたいと強く思う。

「好き」の種類もだいぶ把握ができてきたように感じるけれど、去年の夏のように、やすやすとじぶんの今まで知っていたそれを超える衝撃も生きていたらまた起きるのかもしれない。(起きるといいなと思う、あれが最後なんて悲しすぎるから。)

「素敵だな」と思うひとと「もっと知りたい」と思うひととは違うことにも気づき、誰かの言葉でじぶんの気持ちを説明したら何かが減ってしまうことも知り。

思い出や妄想の中で生きていきたいとは思えないというのも腹落ちしたものの、相手の状況や相手がじぶんの思いに応えてくれるか(もしくは、相手のなかのじぶんの気持ちと向き合ってくれるか)はわたしにはどうしようもないことだというのも同時に腹落ちし。

それでも、誰かに強烈に惹かれ浮き沈みを繰り返したおかげで、じぶんも知らなかったような「ただ愛したい」というまっすぐな欲求、そしてそれを表現する方法は無限にあることがわかったことは、わたしの人生のなかでとってとてもとても大きな意味があったように感じているよ。

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全ての感覚や全ての物事は拡大と収斂を繰り返す、ひろがっては縮んでいく、波形を描きながら人生は、わたしの前に描き出される現実は一面一面姿を変える。同じ構図はあったとしても座標はまったく違う光景が連なって一生がつくられていく。

鈍く広がっていた感覚が鋭く範囲を狭めるとき、今までは違和感を感じなかった光を忌み、今まではなんとも思っていなかった声をわずらわしく感じ、自然と内へとこもるようなモードへ。

今はそういう時期なのだとじぶんのことを見つめながらもそのリズムの激しさがときにひとを傷つけいくことを悲しく思う。

「悪気はないからな」と叔父が彼に苦笑いをしたあの日のBBQを思い出す。

彼も庭のデッキにもたれながら「わかります」と言って笑っていた。

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誰も傷つけたくないのだけれど、じぶんを殺すことは選べない。そんななかまっすぐとあることしかできなくて、昨日だって明日だって変わらずに誰かを傷つけることをじぶんに許しながら、じぶんと向き合い続ける。

この痛みさえ、誰ともわかちあえないけれど、いつかきっと(それはきっとこの体と分かれるとき)「向き合い続けてよかった」とわたしは思うだろうと想像する。

力強くあれ、同時に弱くあれ。

美しくあれ、しかし醜さを抱け。

期待に応えたいと思うこととじぶんを殺すことをイコールで結んではだめ。期待に応えることだけが愛情表現ではないはず。

やりたいと思ったからやる、やりたくないと思うからやらない。

叶えられることはなんでも叶えたい。ひとは変えられないから諦めなくてはいけないこともあることはわかっているけれど、じぶんが傷つく覚悟、もしくは傷つかない覚悟ができているのなら大抵のことは叶うんじゃないかしら。

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生きているのだと思う。わたしは本当に今ここに生きているのだと思う。今まで実感のなかったそれが実態を伴っていくのは、確実に周囲のひとの愛情のおかげだろうと思う。

ただまっすぐにありたい。あり続けることを選択したい。

じぶんの内側のなにが相手の内側のどれと共鳴しているのか、強く拒絶の反応が起きるとき相手のなかのじぶんのなかの何が反応しているのか。

去年までの比ではないほどにきっぱりと感受するそれをひとつひとつデータに変えて、去年できなかったような仕事を今年はしたい。去年見れなかったようなものを今年は見たい。

去年は選べなかった方法でひとを愛したい。去年は・・・

わたしは今年のじぶんと、今年出会うひと、今年出会い直せるひと、ご縁をすべて味わい、そして関わるお仕事すべてに身を捧げ、またこの身体でこの世界を味わいつくすことをただ誓って、新しい時間と古い時間の混じり合う最後の日々、冬至までの日々のなかを泳いでいきます。

くだらないことには時間をさかないで、ちゃんとじぶんを生きます。うむ。

(たとえば、相手はわたしじゃなくてもよかったのにこちらは(勝手に)(ちゃんと)好きになっちゃった関係について心のスペースを半分あげちゃうとか、仕事の失敗ややらかしたことで頭のスペースを4分の3あげちゃうとか、そういうダサいことはもうしないっていうこと!)

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読んでくださってありがとう、幸あれ!!と思います、おほほ。

感じること

悲しいことを悲しいと感じること

嬉しいことを嬉しいと感じること

当たり前のようで、それが一番むずかしい

 

お話できないことが悲しいからなんとかしたいけど、なんとかすることは本当にしたいことじゃないからそれは選ばない

 

本当にしたいことは、ときどきすごく苦しい

じぶんのなかの弱さや醜さを許さないことは、ときどきとてもむずかしい

 

でも、お話できないことも声が聞けないことも受け入れたい

その状況を変えようと動くことは、本当にしたいことじゃない

 

本当にしたいことはただ幸せを願うこと

今動くことは、わざわざ相手の世界に出かけることは、それと違う気がするからしないと決めて、ただお仕事をがんばっている

 

悲しいことを悲しいと感じること

嬉しいことを嬉しいと感じること

それが一番むずかしい

 

最初からもっと素直になっていればと、こわがらず表現を重ねていたらと、今になってこれだけ思うと半袖のじぶんに教えてあげたい

 

でも、仕方ないのだ

ぜんぶぜんぶ仕方ないのだ

 

あのときも嬉しいことをそのまま嬉しいと感じられなくて、いくつも小さな嘘をついた

 

このあとの人生ではもう二度とこんな気持ちをじぶんに味わせたりしないと誓う

 

こんな気持ちにはもうさせない、ごめんね

 

どんなにこわくても、どんなに傷つくかもしれなくても、ちゃんと思ったことを相手に言う

 

嬉しいことも、悲しいことも

 

一日一日、伝えられるだけのことを伝えて、それは言葉ではなく在り方として伝えて、それでこの命を終えたい

 

本当にしたいことを選ぼう

それは、刹那的に満たされることじゃない

 

本当にしたいことを選ぼう

今は苦しくても、きっと少し先のじぶんは喜んでる

 

ぜんぶ、仕方ないのだ

目の前のことにベストを尽くそう

 

でも、やっぱり今は悲しい

思ったときに思ったことを言えないことが、感じたときに感じたことが言えないことが

 

どう思うかな?と思ったときに聞けないことが、げんきかなと思ったときに知れないことが

 

ただ今はすごく悲しい

だけどなにも選べない、なにも選ばない

なにもしないことを選ぶよ

 

だけど、悲しいのはちゃんと感じて、毎日をそうやって生き重ねて、しばらく先で大笑いしたい

 

「どんどん綺麗になるね」と遠くから便りが届いた 嬉しかった

 

わたしはどんどん進んでいる

悲しいことを感じるのも"進む"のうちだ

こんなことに負けたりしない

 

今はそういう気持ち

嫌な気持ちじゃないけど、悲しい気持ちでいるよ

 

ほんとは言わないほうがかっこいいし、言ったって伝わらないだろうけど、今はそういう気持ちなんだもん 仕方ないね

 

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わたしという本 / 10年前 / 本を読む理由

一年前に書いた文章を眺めながら「それでいいよ」とじぶんに思う。それでいいよ、これでいいよ。

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考え方や、言語化のスピード、ぜんぶ好き
こんなに素敵なひとそうそういないと思いながら隣を歩く

でも、好きなひとは彼ひとりじゃない

空港から降りたってすぐに電話をかけた相手のひとも
上野駅まで迎えにきてくれたかわいいひとも
神社で迎えてくれたちいさなひとも
神楽のなか、ふざけた動作で舞った年老いたひとも
東京の街中ばったりと出会ったやさしいひとも
駅ではにかんで立っていた小柄なひとも
沖縄のお菓子をポケットから差し出してくれたひとも

書き出していくと胸がいっぱいになるくらい
出会っているひとみんなのことを好きだと思う

ひとだけではない

見上げたときいつも表情を変え寄り添ってくれる空も
ふとしたときに大きなギフトをくれる光のもとの太陽も
その下で青々と揺れる木々の幹もその枝葉も
道沿いを埋め尽くすように色とりどりに咲く花々も

自然だけではない

耳元をうるさく飛び回る小さく完璧な造形の虫たちも
飼い主の目をまっすぐに見つめ走り寄る犬らも
ひとのエゴに付き合わされへとへとな顔をした馬も
撫でようと伸びる手をするり交わして笑っている猫も

生き物だけではない

誰かが誰かを思いつくった無機質な道路も
誰かが誰かを救いたくてつくった不恰好な制度も
誰かが誰かを守るために始めた不平等な商売も
誰かが誰かを考え建てたであろう不器用な建物も

何の差があるだろうと
この星が好きだと、そういうことを今思う

身体的なリズムに沿って揺れる性的な欲求
それと「好き」を切り離して考えてみるとこんなにも自由

精神的なリズムにのって生じる執着や破壊的な衝動
それと「愛」を切り離して考えてみればこんなにも身軽

大好きで大切なすべて
そのすべてとわたしとの間に伸びるまっすぐな線
どの一本一本も絶対的に存在し、比較などできるはずもない

すべて等しく、すべて異なる
でも、これだけが全てではない

心の底に潜っていく

 

(あの頃書いたじぶんの本音に、今のじぶんがドキッとする。あの頃好きだったひとのことをわたしはもう思い出せなくて、それには苦笑いする。)

(あの頃は好きだと思っても踏み出せなかった。特別な"好き"があることも見て見ぬ振り。今のじぶんはちゃんと向き合って踏み出せるようになった。それが嬉しいと思ったよ。)

(だから次誰かにそれを感じたら、次は怯えずにそれを表現したいな。最初から怖がらなかったらと後悔するのは飽きちゃった。次はたぶん怖がらないで表現できるような気がする、どんなひとかも知らないけどね。)

 

さて、外側からも「頑張らないで」「ぼちぼちね」と笑いながら抱きしめてもらって、今日はいい日になった。

昨日の夜と、おとといの夜はひとりぼっちの気分になって、なんだか深くて暗い海の底でじーっと息をしているような、ひどく体が重たく頭はガンガンと痛くて、もう何もかも投げ出してしまいたいような気分だった。

気分が切り替わることのないまま、体は重たいまま那覇の職場へ。

 

「ーーーの子を預かっていて」と、彼のことを慈しんでいることが伝わる声で、親しいひとがそう話していた。わたしと同じ年齢で同じ状況のその子について思いを馳せれば馳せるほど、あの頃助けてくれた大人のひとたちの顔が浮かんだ。

どんなに嫌な気持ちになっても生きていくことを選ぶのは、じぶんを傷つけないことを選ぶのは、あの頃助けてくれた大人のひとたちをがっかりさせたくないという意地のようなものがあるから。

それはいいことだと思う。遠い過去の話なんだけれども、未来とつながっている、そこにアクセスすればするほどメビウスの輪を感じる類のもの。

ひとと本

数日前のイベントで「あなたという分厚い本を読んでいる気分になる」(読まされている気分になる?)という一言をいただいた。

そうかーとただ静かに思った。わたしもそう思うと心のどこかでなぜか同意していた。

その次の日のイベントの様子は、便利なものでパソコンから覗き見ができた。(働きながらだったから休憩の間にちょびっとだったけど)

「本を読む」ことについて様々な視点から話があった、大まかにまとめると1. 脳みそが豊かになる 2. 心が豊かになる 3. 豊かになった結果人生も豊かになる という具合だった。

わたしが本を読むのは、どうしてかな。と考えた。

わたしと本

小さい頃からずっと本は身近にあって、退屈な電車のなかや待ち時間、苦手な社交の場でいつもわたしの味方だった。

本をひらけばいつでもそこには別世界があり、その世界がわたしは大好きだった。

変化したのは中学生の頃だ。じぶんの心の癖や、じぶんの心の不安定さ、じぶんの人生に関するいくつかの出来事を読み解くために専門的なものを読み始めた。

精神医学の本や哲学、歴史の本やそれにまつわる詩集、宗教に関するもの、あらゆるものに手をだして、どんどんと消化した。

なかでも強烈だったのは「意識がじぶんの人生を形作る」という「この人生は限りなく自責だ」というわたしにとっての”事実”だった。

それは精神医学の本のなかでも、歴史の本のなかでも、生物医学の本のなかでも、はたまたスピリチュアルな本のなかでも繰り返し描かれる真理だった。

それから、時間はかかったけれど、わたしは実生活の中でそれが事実だということを検証し終え、そのなかで出会ったエーリッヒフロムの「愛するということ」に救われ、じぶんを深く抱きしめ直し、またそれに誘導されるように家族やご先祖様、つながっているひとたちのことを愛するようになっていった。(もしくは、じぶんに沸き起こる感情や欲求について「愛」と認識するようになった)

そう、だからわたしは本によって救われ、本によって生かされ、人生がどんどんと明るくなっていくにつれ実際に尊敬してやまない著者の方達に出会う機会も与えられ、ますます人生がいい感じになり、自責は当たり前になり・・・。

10年前とは違う意識でおなじじぶんを生きている。

正直、感情が揺れることはあっても日常で悩むことはないし、苦しいことはあってもいつだってその意図は理解できるようになった。

そんな今でも本を読むことが好きなのは、まだまだ知りたいことがあるからだ。

知りたいことはつきない

今知りたいことは、ダーウィンの進化論が崩壊しつつあるなかで人間という種はどこにルーツがあるのか(それは今のじぶんが違和感を感じる人間の持つ欲求についての問いを明らかにするから)

あとはなんだろう、もはや趣味のような「時間」について「空間」についての理解を深めるため、フロムの本でもわからなかったひとや場やなにかに恋に落ちる理由、そして子を授かる意味、家族のよりよい形、よりよい社会の形、、、うーん。

「限りなく自責」と言いながら、生まれ落ちることを望んだ部分を思い出せない理由・・・まだまだ知りたいことはたくさんある。

結局、わたしはわたしの持つルーツやストーリーから出発して10年間、たくさんたくさん旅をしてきたんだなぁ。そしてこれからもそれは続くのだ。

これからについて思うこと

まあだから、その、わたしも「わたしという分厚い本」を読んでいるような気分になるときはときどきあるなぁと、なんだかイベントのときにザワザワした心をようやくなめおわった感じ。

トラウマの解消は「完全に終わり」ということはなくて、わたしの心はまだ弱い部分もあり、でもそれは必要だからそうなのだ。

答えはいつも日常にある、わたしは弱いけど、でも強い。

ここからの10年は・・・なんだろ?わたしみずえさんみたいな大人になりたいな。

「はるな、人生ってたのしいね!」生きるってたのしいね!そう姿で見せてくれる、みずえさんみたいになりたいなぁ。

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アホウドリは自由の象徴 / 韓国からイルが来た

忘れたくないと思った

イルが話してくれた韓国の兵役のこと

兵役を経験しても

「なぜ軍が必要だと思うの?」と

まっすぐに問い続けられるその強さ

わたしは忘れたくないと思った

 

今日も生きていた、明日も生きていく

でも今日のわたしは終わっていく

「あなたが何が言いたいか、本音が何か伝わってこない」

そう言われてとても悲しかった

 

「わからない」には能動的なものと、受動的なものがあるように感じる

わからないけどわかりたいのか、わたしはわからないことにフラストレーションを感じましたという表明(本人のためのアウトプット)なのか

 

今日のそれはどっちだっただろう

どちらでもいい

 

イルとのコミュニケーションはいつも英語と日本語と韓国語を混ぜたものだった

「わかりあいたい」と思うからできる新しい言語の創造

ときどきわかりあうことを諦めながらも、お互いの気持ちを交換することはやめなかった

 

平和は一人一人のなかにある

「個人商店が潰れたのは、消費者がより便利なコンビニを選んだから」

その通り、そしてそれ自体はポジティブでもネガティブでもない

ただの時代の変化だ

 

でも、平和は違う

環境を守ることは違う

時代が変わっても変わらないものがある

そしてそれを守るためには過去と同じ失敗は重ねてはだめ

 

「じぶんである」

それは傍若無人であることではない

じぶんである

それは弱さをさらけ出すこと

愛していると先に言うこと

先に武器を捨て裸になること

それは信じ合うこと

先に信じること

 

これからも傷つく

それでもこの生き方を選ぶ

これからも失う

それでもこのあり方を選ぶ

 

うそをつきたくない

うそをつけない

 

今も悲しい、明日も多分悲しい

明後日になったら忘れているかもしれない

忘れられるかもしれない

 

それでいい

それでもこの生き方を選ぶ

 

海を越えて遊びに来たイルは同じことを言った

「社会はゆっくりと良い方へ変わる」

わたしはそれに続けた

「わたしたちが意識的に生きる限り」

 

平和はひとりひとりのなかにある

答えは日常のなかにある

 

これからも傷つく

これからも失う

それでもこの在り方を選ぶ

この人生を生き切る

 

わたしは生きている

 

わたしは今はイルのようなひとと過ごしたい

今はわかりあえる可能性のあるひとと話したい

その先でわかりあえないひととも話そう

でも今は、わかられたいと思えない

わかられるように翻訳したいと思えない

わたしはそのわたしを尊重したい

なぜなら今は仲間と出会っている最中だから

 

ムーブメントはその先に

ムーブメントはその先に

 

だから今はまだ

 

それは美しくない

でも 今はまだ

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最終日前に思うこと / 人生2周目 / 年の瀬に

明日が展示会の最終日

思い考えることがたくさんあり、ちょびっと欠けてきた月の下で少しだけ立ち止まる

 

今年の8月頃から少しずつ少しずつ忙しくなり、ひと月に一度は訪ねるとお約束した師である先生のもとへも行けないほどに里の行

 

大学を卒業するあたりから続いていた「主語を見つけるための忙しさ」ではなかったので、身体は苦しくても心は苦しくなかった

どのお仕事をしているときも、わたしがやりたくてやっていることだというのがはっきりしていたし、どこかしらにわたしだからこそできることが潜んでいるのがありがたかった

 

8月、9月、10月、11月と何回も何回も大きなゴールを描きそのためにイベントを企画し運営してまた反省を重ねる

そんな時間をどのお仕事でも重ね、合間合間の那覇のセレクトショップへの出勤のときにようやくじぶんと再会をするような暮らし

 

余裕がなくなると生活が荒れる癖は3人で暮らしてるおかげかずっとましで、じぶんのことを傷つけることなく忙しさのなか生きられていることがありがたい

 

明日の最終日を終えたら、明後日は那覇の仕事、そのあとはコザ、また那覇と繰り返しの日々に戻る

合間合間で作業の時間を見つけながら、社会のなか様々な事情のもと働くひとの信念やHOWTOに触れられる書き起こしの作業をしながら・・

 

働いているのが好きというよりも、今目の前にある手段でどうじぶんを表現できるだろうかということばかりなように思う

経験値が積もってゆけばもっとその表現と内容の距離が縮まっていくだろうとこれから先をたのしみに感じている

 

反省はあれど不安はなく、悲しみはあれど嘆きはない

 

ひととの関係もべたべたとしたものが減り、必要なタイミングで必ず必要なひととの出会いをいただいて、その流れの滞りのなさが嬉しい日々です

 

ときどきじぶんの感情や欲求の波の激しさの前に動揺してしまうことや、それを持て余すこともあるけれど、それも次の局面への良いエネルギーに転換されていく

 

人生というのはいいものだなと、もうすぐ終わる2周目のじぶんの人生についてよくよく労いのきもちを持ちます

 

0歳から12歳までの間に学ばせてもらったこと

 

その間に養っていただいた感覚、知識の吸収の仕方

自然から感じることやひとから感じること、そして言葉の扱い方

傷つくとはどういうことなのか、傷つけるとはどういうことなのか

ひととして生きる業、血の繋がりの持つ両極の面

 

12歳から24歳までの間に学ばせてもらったこと、学んでいること

現実を生きるということ、血の繋がり以外の繋がりの意味

家族を持つということ、家族になるということ、家族を超える感覚

お金との付き合い方、動かし方、積み重ね方

ひととの出会いの見分け方、ひととの出会いの育て方

 

裏と表がぴったり重なるようなその学び

それらを礎にここから36歳まで、次はどのような世界を生きるのか

 

わたしが一番わたしの可能性を感じていたいと、ここ数日沖縄の実家のように感じている場所で、沖縄の家族のように感じているひとたちのなか、そう思いながら生きていました

 

若いのにすごいねと言われることへの違和感を「はるな、あんたはすごい」と伝えてくれるひとの愛情が拭い去ってくれる

 

「褒めてくれてありがとう」と照れながら伝えれば「褒めてるんじゃない、感想を伝えているんだよ」と言ってくれる

その真心にどれだけ助けられ支えられながらこの数年を重ねていたか、どんな言葉で伝えたらいいかわからなくて、いつもうまく言えなくなってしまう

ほんとうにありがとうって、沖縄に来られてよかったなと、沖縄に来るまでの日々と沖縄に来てからの日々に思っています

 

年齢も、性別も、この身体の特徴さえもすべてすべてすべて脱いで、過去さえも脱いで、未来さえも脱いで、今に生きていられたら

その一瞬一瞬で空間を共有し創造するひとたちと快く交流ができるなら

 

わたしはそれが何よりの幸福だと感じます

 

その意図を現実にするために構想を練らなくてはと、脳みそがうずうず

まずはわたしから

 

なにもかもわたしのなかに答えがあり、その答えは最初からすべて外側に現れているのだから

きっと形にできるはずとただそう感じています

 

良い年の瀬になりますように

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あいらぶゆ〜