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海と流れ星

1枚くらい写真を撮っておけばよかった

夜中3時 浜比嘉の海

星々降るなか まんなかに輝く大きな月

ふたり並んで空を仰ぐ


いつもは海の場所が

満月の後の引き潮で、ずっと遠くまで浜

いつもは遠くにある岩たちが

突然現れた道の先にどっしりと構えている


島の入り口で流れた星と

見上げた空のかなた流れた星と

二度、流れ星をみた


ただその静けさに心震わせながら

頭、心、肚

みっつのリズムを一定にさせ

まっすぐに立つ


浮かぶのはじぶんの名前だった

何度もじぶんの名前を呼ぶ


声は波紋をつくりだす

波打ち際あしを打てば水が跳ね模様をつくる

 


言葉も行動も

身体のうちから出たならば

それは必ず波紋を生み出す


生み出でたものはすべからくみな

必ず世界から形を変えここに戻る


最も強力なのはじぶんの名前


わたしはわたしでしかあれない

わたしはわたしである


数時間後にはまぶたをあけて

目の前の仕事に取り組み

そして多数の連絡を終えて

新しい出会いの場へ


わたしはわたしを生きていて

一日一日きちんと死に

また朝に生まれることを選ぶ

 

ああねむたい!

今日の失敗たちよ

もっとこうしてあげたかった

もっとこうしたかった

 

必ず次の機会に活かすからね

そう告げて別れを重ねる


エアコンの温度、受付のフロー

参加者へのアンケート、事前のヒアリング

ああでもねむたい

今夜海で感じたこと

すべて余すことなくわたしになるといい

とっても幸福な一日だった

ありがとう

 

浜比嘉のこの場所はいつも幸福をくれる

ありがとう

人生への前提のスイッチ / 平和 / 感性と仕事 / 念

昨日の夜lagoonの仕事上がりにかおるんにhugスチーム&マッサージしてもらって、たくさんたくさん今考えてることや感じてることが言葉になった

月3万円ビジネスは3万円稼いで今より豊かになろうということではなく、発想の根本にある人生への前提をスイッチさせる手段であること や

目に見えないリズムを捉えることは、そのリズムに人生を任せてしまうためではなく、より能動的に人生を生きるためにすることだよね とか

いちばんいちばんいちばん嬉しかったのは 3人よれば。 の暮らしを「オノ・ヨーコとジョンレノンのカップルじゃない版」と例えてくれたこと

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そして、おばあちゃんのことを言葉にできたとき、ふっと身体が楽になったのを感じたよ

わたしにとってはわたしを人間に育て直してくれたのはおばあちゃんで、彼女がこの星からいなくなるかもしれないというのは人生にとって意味深い出来事だ

血の繋がりは半ば暴力的に与えられるご縁だ

でも「じぶんでじぶんの人生を生きる」「ひとに委ねない」「ひとのせいにしない」と決めたときから突然家族はわたしにとって枷やしがらみではなくお守りや追い風になった

ご先祖さまたちの連なりの端っこにわたしがいて嬉しいし光栄だと思ってるよ

おばあちゃんのことを考えるとおなかがぎゅっと縮まって、とても不安になることが最近2回くらいあった

でも、その不安を感じ終えたら肚がきまった

いつそのときが訪れてもいいように、もっともっと密度濃く生きること、今のままでお別れはイヤだ

ネガティヴな覚悟も、いくとこまでいけば勝手に転換して大きなエネルギーをくれるもとになる

いくつか時期と目標の決めごとをして、くよくよモードを終えられたことを今とても喜んでいる

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昨日食べた生ハムたち

最高の美味しさだった!

そう、ここ最近のテーマは「感性」だったような気がする

日々たべものやのみもの、ひとびとや言葉との出会い、景色への埋没、そういうものを通して心は耕されていく

朝、ドラムの教室の先生であるエツさんが言った

才能は誰にでもある、ただそれが発芽するかどうかはわからない

大切なのは感性だ、頭がいいだけではいいしごとはできない

どの仕事にも感性を生かしなさい

それはまわりまわってその場を、組織を、空間を豊かにすることになるのだから

感性って、この社会ではまだまだ邪魔になるように思うけど、そうではなくエッセンスとして入れ込むものと捉えるとなかなかいい

お仕事への考え事のアップデートが起きた気がした

誰かが本気で作ったものや、どうしてもやりたくてやったことは、やっぱり素晴らしいよなぁ

そういうもので暮らしを埋め尽くしたい

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ハムおいしかったなぁ

昨日は怒涛の創業相談続きで、合間にプロジェクトをすすめながら広報とお金の始末もするという脳みそフル回転DAYだった

hugスチームでからだをあたためてもらってようやく緩み始めて、最近あった出来事をげらげら笑いながらみんなに話した

なんだかさらにふわっと心も体も楽になって「なにか成仏したみたい」とぽつり言葉にしたら、幽霊って結局念なんだよねって話になり、、、「念って、今のこころと書くんだよね」😳😳😳

大事なのは今だね

ひとのせいにしないこと、じぶんで決めて生きること、それが大事だ!と改めて思う

この世は面白い、もっといろんなことできるね!

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猫になりたい / 年に三度は大吉

このお家はほんとうに居心地がいいなぁと思いながら猫になったような気分で寝そべって窓の端に見える満月を眺めていた。

テレビから聞こえる吹き替えの声は賑やか、みんながあまりにも簡単にキスしたり頬寄せたりしている。

文化が違えばスキンシップの意味合いも変わるのだなとゲラゲラ笑いながら大まじめに考えていた。こないだの全裸監督から受けた衝撃も時とともにだいぶ落ち着き寛容になる。

性的なスキンシップってほんとうに大切に思っていなくたってできることなのだ。残念だけど。やれやれと頭を振って立ち上がる。

ああお仕事終わらないと思いながら寝不足続きボロボロと荒れていく肌さわりながらごめんねと思う。

もっといい感じにスケジュール組みたいんだけど、どうしたらいいのかわからないんだもんとため息ついてしまうよ。

それでも隙間隙間の時間にとても幸福を感じる、お仕事も幸福だけれど、また種類が違う幸福だよね。

昨晩は結局4時半に寝落ち、お仕事終わらなさを嘆きながら朝のそのそと起き出して2人分そうめんを茹でた。お味噌とめんつゆを溶いてすりごまを加えて冷や汁をつくる。

冷蔵庫にあったピーマンをポン酢で炒めて、ぱぱぱと朝ごはん。 

朝日がしっかり差し込む部屋でソファにもたれながら、ああ四月からこんな場所で暮らしたいと願う。 

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パタパタと車に乗り込み、今日で展示が終わってしまうキムホノ展へ。マグカップの指を入れる部分への考察から、モノの本質を捉える遊び心を学ぶ。

泊めてくれたひとと別れ、お互いの主成分がほとんど同じ、とても似ているのに何か違うひととドライブ。

ほんとうはお仕事終わらせて心置きなく遊びたかったと思いながら、お互いの音楽の趣味までぴったりと合う様子に彼が「前世でもともだちだったのかな?」というから笑ってしまった。

可愛い言葉、前世でもともだち。

来世もよろしくと心のなかでお返事した、、、と思ったらギュインと曲がる車。

「お参りしよう!」と笑いながら神宮へ連れ去られる。こういうところが好きだと思いながら「ありがとう」と言う。満月の日にお参りできるなんてとっても嬉しいこと!

そして突然ってとってもロマンチックだ。

お参りしていつものようにありがとうをお伝えしたら「落ち着いてお参りしなさい」と笑われて「ひとりひとりのひととの出会いを大切に、今のまま役目をしっかり果たしなさい」とよく知る人の声が心のなかでした。

わかった!ときちんとお返事して引いたおみくじは大吉。

恋愛の欄が面白くって、ひとりで苦笑い。

神様ってよく知ってるよね。 

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「へいへいわかったわかった」とお返事しながら、大好きなloopへ。

お互いの大切な人について話したり、お仕事の話をしたり、結婚観を話したり。

会話ってなんでこんなにたのしいんだろう!と人間に生まれたことを大いに喜んだ。

会話ってとても奥深い。

話しているようで話せていないことの方が多い。受け止めているようで受け流していることやそもそも勘違いしていることも多い。

彼と話しながら、ここ最近少し落ち込んでいた理由がわかってスッキリした。

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相手がちゃんとわたしを見てくれていたと誤解していたと気づくことほど寂しいことはない。この傷はしばらくわたしに痛みを与えるだろうと覚悟した。

ひとと話しているようでじぶんと話していたらいつまでも孤独だ。孤独にも多様に種類があって、そのうちのいくつかは人生を生きるうえで必要な孤独だけれど、そのうちの多くは不勉強や不真面目、弱さや逃げのせいの孤独。

つまり出会いを大切にできていないから起きる孤独。相手を利用してしまったことへの悔しさ。

傷だと思ったことはそのままブーメランでわたしに返る。相手に傷つけられたのではない、わたしはわたしを傷つけたのだ。

わたしはどこまで本当のことを伝えていただろうか。わたしはどこまで本当に聞こうとしただろうか。わたしは、、と深く潜っていく。

こうやってひとつひとつ後悔しながらコミュニケーションは上達していくのだきっと。

愛するということ 新訳版

愛するということ 新訳版

 

すこし浮かび上がって心に決める。

誰かの像を心に作らない。わたしはわたしとして在り、目の前の人を目の前の人として受け入れる。

批判も批評も必要ない。

ただそのひととして受け入れる。

とても寂しい出来事はとても大きな学びをくれる。loopを出てお天気雨な空模様を眺めながら、わたしはとっても嬉しかった。

どんなに寂しいことが起きても時が洗い流してくれる。どんなに悲しいことが起きても季節が変われば心も変わる。

こないだ実家に電話をかけて知ったニュースはとても悲しく、わたしはそれへの恐れに少し絡め取られかけていたけれど、もうきっと大丈夫。

喜びも悲しみも握りしめず、目の前にあることを大切に生きていく。できるはず、できるはずとじぶんを励ましている。

生きていくのだ!

境界がぐらぐら / 散歩に口実が必要なタイプ

気圧のせいだったのか、あちらにいる家族や大切なひとたちが気にかかって落ち着かなかったのか、昨日はじぶんと外側の境界線がいつもより不確かな日だった。


“触ってもいいひと”と“触られてもいいひと”というのがなんとなくいるのだなとじぶんについて常日頃観察しているとわかる。


境界線が曖昧な日はじぶんがここにいるのだという感覚が薄い。じぶんの枠がゆらゆらとしていてなんだか心許無い。


そんなとき、ちょっとしたスキンシップにわたしは救われていると思う。子どもから手を伸ばされてするお別れのタッチ(しなさいとされるものはあまり好きじゃない)、さらりと握手、久しぶりだねとハグ、ぽんと頭に置かれる手のひら。


昔は朝も夜も一緒にいるひとがいて、いくらでも触れ合ってじぶんの線を感じられたけれど、今はそうではないからこの日の過ごし方はすごくむずかしい。


昨日は久しぶりにとても強く境界が曖昧だったものだから混乱しながら一日を過ごして、混乱が強くなりすぎていつもより3時間も早く職場から帰り、帰り道もぐらぐらとして送ってくれたひととの会話もままならなかった。


大人になるまではもう少しかかりそうだなんてぶつぶつ呟き反省しながらとうとう立ってさえいられなくなって寝転びながらめまいのなか今日の日にさよならと思ふ。


目がさめるとまだあたりは暗く、身体は久しぶりに何時間も眠ったあとの清々しさで溢れ、境界線は戻ってきていて「わたしはわたしだ」と思いながら身を起こした。


何時か携帯の画面で見ながらベランダに出れば空がほんのすこしだけ白んでいて、同居人の寝息が壁越しに聞こえる。


仕事しよう、そう思って身支度もそぞろパソコンを開いた。


一段落してベランダに出れば雲に金色がまぶしくうつる。朝のこの時間が暮らしのなかで一番好きだとうっとりしながら仕事を中断して外を歩く口実を探す。

 

「カフェラテ飲もう」と決めて玄関に散らばるサンダルに足をひっかけた。


歩きながら妄想する、もし男と女がない世界だったら昨日のスキンシップは?とか。それから記憶を少しめぐる。あのときの言葉は腹が立つなこのやろー覚えとけー!とか、昨日の帰り際雑じゃなかったかなぁ...とか。


歩きながら体温が上がってくるとだんだん記憶は整理され終わって、まあいいかと落ち着く。なるようにしかならないしすべて良きようになる。


心がしーんと静かに落ち着いて朝と溶け合っていく。

 

なんだかホッとしたのか、今度は心ゆくまで思いっきり抱きしめられたいなぁと朝からそんなこと思って照れくさくなって帰り道。

やっぱり東京へ行こうかしらとまだ比較的融通がきく12月のスケジュールに目をやる。

触ってもいいひとも触られてもいいひとも安心して触れられるひととは違う。

今のわたしに必要なのは揺さぶられる刺激ではなくてお仕事がんばる土台になるような安心。


とはいえもう夜明けから朝に変わり境界はだいぶはっきりしてしまったので、今さら誰かの存在を強く求める気分にもならない。

あなたが思っているよりもわたしは大人で、わたしが思っているよりもわたしは子どもだね。

さ、お仕事の続きしよう。 f:id:pidakaparuna:20191013071332j:image

コンビニのカフェラテはLAWSON推し

 

 

わたしを諦める / 酸っぱいブドウと甘いレモン

 

3日ほど溢れるものは濁流のようなのに言葉にならない期間が続いていた。

言葉にしようとしてもすぐにずれてしまうので何度も書いては消してじぶんの今を見つめていた。さっきようやくなにかが腑に落ちて、やっとどう在るかまた決め直すことができた。

そうしたらなぜ今このように生きているのか、そしてどのように生きていくのかハッキリしたので書き出すことにした。

わたしはどこまでいってもわたしを見つめ、その都度その都度軌道修正を重ねていくことでしかこの世界を生き抜けない。

 

  1. 突然何かを失うということ
  2. 酸っぱいブドウ、甘いレモン
  3. 振り子の人生
  4. 老化と進化
  5. 生きる醍醐味

 

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突然何かを失うということ

欲求が叶わなかったとき、暴力的に感じる突然さによってなにかが奪われたとき、じぶんではどうしようもないことを理由になにかを失ったとき。

人生にはときどきそういうことが起きる。

今までも何度もそんなことはあった。

どの夜もその後数ヶ月数年もわたしはそれ以前の暮らしや状態への欲求を抑えこめず怒りと嘆きに身を壊されかけていた。

そんなときに、どういう姿勢をとるか。

これより先はないと思っていた20歳を軽々飛び越え、沖縄での暮らしも6年目。

ようやく叔父や祖父のいう「来るもの拒まず、去る者追わず、そういうものだ仕方ない」という家訓(のようなもの)の意味を理解し、今のじぶんの最大限を生きることを選べるようになった。

嘆きも怒りもなにも生まない。それは徐々にわたし自身を蝕み健康な思考を奪いやがて心を殺す。

酸っぱいブドウ、甘いレモン

しばらく前にどこかで聞いた酸っぱいブドウと甘いレモンの話が浮かぶ。

「あんなの欲しくなかった」「あれはどうせ酸っぱいに違いない」と欲しいのに手が届かないブドウを諦める狐の寓話。

そして、ほんとうは酸っぱいのに「甘い甘い」と喜んだふりを重ねながらレモンを食べる例え話。

今のじぶんを最大限に生き切る。

この2つの話はそれができているか?とわたしに問い直す。問われるような出来事に遭遇してしまったこの数日を終えてわたしはもう一度決めた。

酸っぱいレモンを食べるときは酸っぱいと感じていることをきちんと自覚し、ほんとうに食べたいものはブドウなのかを見つめたうえでほんとうに欲しいなら取りにいこう。

そして食べてからそれが酸っぱいのか甘いのかを判断しよう。食べるまでは解釈してはいけない。それは相手の背景を知らないのに批判してはいけないこととよく似ている。

つまり、ブドウが取れないことを正当化するために酸っぱいと決めつけるのではなく、わたしが今求めているのはブドウなのかをじぶんと世界に問いながら生きることを選ぶということを決めた。

振り子の人生

じぶんを正当化するために欲しいものが得られなかったことをよしとするのではなく、欲しいものが得られなかった経験を通してわたしが欲しかったものがなにかを学ぶ。

その繰り返しを重ねていくうちにわたしという振り子の揺れが中心へと収束していく。振り子の揺れ全体が人生であり、振り子を俯瞰できる全体がこの世界だ。

振り子の座標はひとつひとつの経験と同義。

わたしがほんとうに欲しいものがなにかを理解したときにそれをちゃんと手に入れられる器になっているために、わたしは今大げさに揺れる振り子そのものとして生きている。

その振り子の揺れ、片方の極を俯瞰している立場で味わうたびにその中心からの距離とエネルギー量から中心には何があるのかを推測する。

経験すれば経験するほど知っている座標は増え、ときどき起きる風、つまりポジティブもしくはネガティブなアクシデントによってまた振り子はエネルギーを得て違うリズムで新たな距離を生みながら揺れる。

ポジティブかネガティブかは重要ではない、大切なのはそれによってもたらされるエネルギーの絶対値だ。

わたしはわたしで在ることしかできない。この振り子がなくなる日はこない。いつ中心点を悟るのかもわからない、死んで初めてわかることも多かろう。

ただわかることはわたしはこのわたしでしか在れないということだ。

老化と進化

わたしはわたしでしか在れない。

それは変えようのない事実だ。わたしは今世を終えるまでこの身体この顔この声で生きていく。一日を終えるごとに身体は朽ち顔は皺だらけになり肌は萎み声は掠れていくのかもしれない。

しかし反対に内面は日々富んでいく。

一日一日の経験がわたしに学びを与え、その学びへの思考を深めることで脳は進化し、新たに取り組む仕事や出会いで認知の回路は拡大し続ける。

それは誰にも奪えないわたしの財産となる。

その財産はわたしを通して然るべき方法で然るべき範囲で共有され、人間の文化的な進化に超わずかかもしれないけれど貢献する。

それこそが今日を生きている意味で、それは今の社会のルールで生産的かとか価値があるかとかにも判断されない。

この広い時間軸のなかで何がいつどのように役に立つようになるかなんて、わからないのだから。

生きる醍醐味

わたしのなかにある感覚に沿って、湧き上がる生々しい感情に沿って、すべての偶然が教えてくれる知識に沿って、わたしはわたしの人生を創り上げる。

それこそが生きる醍醐味なんじゃないのかと感じている。この感覚なくしては生きている瞬間全てが表現だなどとは口が裂けても言えない。

こないだのラートのステージを見てくれたひとのなかに数名細やかに感想を伝えてくれた方がいらした。

登場した瞬間に泣いてくださったという。

回っているのを見てなんてたのしそうなんだと共鳴してじぶんもたのしくなったという。

今書いていても身体が熱くなる。

それこそわたしが真に求めているものだろう。

生きる醍醐味は日々をあますことなく感じながら積み重ねていくこと、そしてそれを凝縮させ形を変えこの世界へと放つこと。

ハレの日に行われることはすべてケの日のためにありケの日に行われることはすべてハレの日のためにある。

わたしの日常はすべて時折訪れる大勢の人とシェアできる瞬間のためにあり、その瞬間はまたわたしの日常すべてのためにある。

この感覚を忘れなければ大丈夫だと思う。

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初めて言語化できた喜びが溢れている。

わたしはわたしでしか在れない。

その健全な諦めだけがこの先を照らしてくれる光になる。わたしはわたしでしか在れない。

それは今のわたしが認知できるよりはるか大きなスケールでとても力強い事実なのだと思う。

当たり前に地球の上にいるひとりひとりがその力を持っている。生まれた時から死ぬまでずっと。

わたしはわたしでしか在れない。

それだけが今のわたしに必要な真実である。

そしてもうひとつ大切な事実はこれから先の現実を切り開く術はすべてわたしがわたしでしか在れない今生きている目の前に並んでいるということ。必ず。