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Twitterより Facebookが好きな理由

ぜんぶのお仕事にもう手が伸びず、まぶたとまぶたがくっつきそう。

ああ、今日が終わるんだなと実感する。

眠る前、ほんとうはこんなこと考えてる、こんなこと感じてるって言葉にして、またそれを好きなひとと会話するなかで深めたいけど、悲しいかな一人暮らしなのでできない。

電話はたのしいんだけど、たのしさより触れられないさみしさが少し上回るから、好きだけど嫌いだ。

そのさみしさを紛らわすようにたくさんのひとの切り取られた日常や、考え事の見えるFacebookを眺めている。

行間が読み取りやすいので、TwitterよりもFacebookが好きだ。ちなみにTwitterは言葉が少なく、ずっとそのひとのツイートを眺めていないとそのひとの言語が読み取れず、結果表面的な情報の羅列に見えてくるので好きじゃない。

Twitterはとても良い情報の収集源だというひとにときどき出会うけれど、わたしはマーケターではないので、帰属する集団が予想できるTwitterが情報源である必要はないように思う。

得意な人や、中毒な友だちがひとりふたりいれば、とんでもなく流行っているものはわかるし、今はひとのツイートを引用して記事を書くメディアもあるので、ピンとくるようなものは流れてくるようになっている。

いらない文字を身体にいれすぎると身体がよどむ、Facebookはフォローをどんどん外しているので、好きが詰まったものになっている、とても同質的なひとのものばこりなので、情報源になどなりやしない。

ただただ癒しである。好きなひとの話、見たもの、考えたこと、次会うときに話したいことがたくさんできていく。

しかし、その一方で同質的なものばかりが目に触れる状態は好ましいものではないという視点もじぶんのなかにある。

それを補ってくれる、つまり異質なものと出会うきっかけは仕事がくれる。違うひと、違う業界、違う言語、いくつもジャンルの違う仕事が日常に組み込まれている面白さはそこにあると思う。

つまり、セレンディピティが生まれやすい。

また、意識的に異質なものと出会うことを続けていないと、翻訳能力も落ちる。なにかひとつ特化したものがあるタイプの人はたぶんそれでも問題ない。

でもわたしはそういうタイプではないので、翻訳能力が錆びつくのはあまりよいことではない。というわけで、本屋でうげぇと思うタイトルの本にもとりあえず手を伸ばすようにしてる。

今日、洋服屋さんをあとにするとき、オーナーのひとがさらりと、愛してるよ!と声をかけてくれた。びっくりして振り返った。愛してるよ!の響きの持つ照れくささを越えて、よし、生きていこうと思った。

わたしも愛してる。

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