NOW 500→1000

「単一」ではなく「複数」である体感

「聞いてやれない大人が悪い」「コミュニケーションの障害っていうけれど、障害にしているのはマジョリティー側」「こちらに話が通じないからといって「障害」というのはなんて自己中心的な考え方なんだ」と怒ってた先生がいたって、大学院で福祉を勉強している友人が教えてくれた。

話を聞いているうちに、昨日感じていたもやもやがスッキリと晴れていくのを感じた。わたしは「できない」ことが多すぎて、でもそれは訓練したらできるようになるようなもので、でも「訓練をする」っていうことがもうやりたくなさすぎてできなくて。

そんなじぶんにずっと罪悪感があった、みんなができることができないとか、それは怠けであって甘えであって、正されるべきじぶんの悪いところだという認識を持っていた。それをなんだか昨日は思い出していたんだと思う。

でも、そんなできないことがたくさんあるわたしは「できない」ときの心地を知っている、そしてそれにまつわる罪悪感を知っている。知識として知っているのではなく、体感としてそれを持っている。その居心地の悪さをジブンゴトとして捉えることができる。それはじぶんの良いところだなとなんだかちょっとうれしくなった。これをどう仕事に活かしていくのかはまだ全然わからないんだけど。にがわらい。

ーーー

夢を見る時、そこには単一の映像が流れているようでそのなかにじぶんがいるようだけれども、数日前から「複数」であると感じるようになった。夢の映像として経験、また記憶にのこっているのはごく一部であるということを認識し始めた。

証明のしようがないので、他のひとにも当てはまるのかどうかはわからないけれど、そういうことを認識し始めたというじぶんを面白がっている。

たいていの場合、映像として見たり記憶にのこっているものは、記憶の整理中に見る断片的なものが多い。あの発言、あの景色、あの匂いが繋がってこれらが形成されているという分析ができるようなものを覚えているようなことが多い。

だけれども、数日前本当に、今まで見た夢のなかで一番悲しい夢をみて、すぐにこれは記憶ではないと察知した。ユングの意識の階層の話にどこまで信憑性があるのかはわからないけれど、あれは無意識、しかも集合的な意識から吸い上げて見た夢だろうと思っている。

でも、それさえも「人間」としてのじぶんの一部であり、それをじぶんのものではないと捉えることは簡単だけれどもそれは何も生み出さない。この悪意もじぶんのものだと、人間のなかにある側面だと認識しているだけで、その邪なものを回避することができるはずだと信じてる。

ーーー

夢が多層的だと気づいたときに、その映像を見ているじぶん以外にもたくさんの経験をしているじぶんがいることに思い当たる。覚えている「映像」はあくまでそれひとつなのだけれども、感覚として、もっとさまざまな世界があることを感じるのだ。

ここ一週間の夢はなにぶんとても濃く、いろいろなストーリーが描かれていたのだけれども、日常のなかで思い募る遠くにいるパートナーのひとへの気持ちとか、仕事への思いとか、環境への考え事とか、じぶんとの人間関係とか、そういったものをひとつひとつ紐解いているような気がする。

身体があるときはできないことを、眠っている間にしているような感じがする。あくまで「感じ」の話だから、どこまでいっても妄想的なんだけれども。。

なんていうか、眠っている間、愛おしいひとたちがそばにいるような気がするのだ。体験としてあのこわい夢の「映像」を見ている間さえも、わたしの周りに寄せられていた思いは、とても純粋な誰かからの思いだったような。この多層的な視点に対する身体感覚は他の考え事にも波及していく。

ーーー

そう最初の話に戻ってくる。昨日は講演会を聞いた、発達障がいや「問題行動」とされる行動を繰り返す児童に対する処置を学校と作業療法士さんと地域がチームになって、どうしたら先生が考えるプレゼントしたい教育を提供できるのか、ひとつひとつ問題を解消していくという話。

わたしはとてもつらかった、聞いていて幼少期から今までのことをバーっと思い出し、大人から言われた言葉を思い出し、クラスメイトにしてしまったことを思い出し、そしてさまざまな要因がそれに絡まっていることを思い出し、とても悲しかった。

だけれども、それは一点のことでしかないのだ。本当に素晴らしいと思った、動作や認知のプロフェッショナルである作業療法士さんが入ることによって、直感的な(再現性のない)支援ではなく、ゴール(卒業)の見える支援が可能になる。そして、登場するステークホルダーがそれぞれジブンゴトとしてそれを捉え、前向きに解決にあたる。嘘抜きで素晴らしいと思っていた。

でも、嘘抜きで悲しかった。どちらも同時に起きているけれど、レイヤーが違う、視点が違う。でも、同時に起きていた感情の揺さぶりであり思考の波であった。

そして、これは精神的なところと、現実的なところというくくりではなく、この支援もひとつのレイヤーであり、別の視点として行政の役割があり、さらに国家レベルでの政治もそこに関与している。さまざまなひとが登場し、さまざまな役割がある。

その構図を捉えること、思考ではなく身体で、それを捉えることが少しできるようになっている。それは「批判」を上手に使いこなせるようになることに繋がる。問題点を放置するか解決するかの選択にも役立つ。

ーーー

どの点にアクセスしたいかはじぶんが選べる。何を見るかはじぶんが選べる。どの点を選んでもよく、どの点からでも何かを良くすること、何かをエンジョイすることは可能なのだ。そこには優劣もなく、ただ複数が同時に存在しているというその事実だけがある(事実っていったってとても内在的なものだから証明できないんだけれども。)

面白い考え事だった。たぶん、今、ポストモダン的なところから、現代に移り変わる変遷のなかにいるのだと思う。それはもう少し勉強しないとしっかりひとに話せるようにはならないけれど、そういうことなんだと思う。

お金や働き方、パートナーシップ、いろいろなものが「アップデート」されようとしている、その動きの繋がりの先にある「モダン」がたのしみで今生きている。より良くなる、それだけを信じて、今目の前のことをただただやっていこうと、そういうことを今思っている。

f:id:pidakaparuna:20180808091235j:plain