NOW 500→1000

自分の言葉で発信する&SNSに投稿する行動の根本にある2種類の欲求

表紙の色合いが黄×水の線という可愛いデザインだったからかなぜか惹かれてしまい『「自分の言葉」で人を動かす』という本を読んだ

読み終わった今、表紙を改めて眺めると「伝えたいことはたくさんあるのに言葉にできないあなたへ」という小さなキャッチコピーがついている

「自分の言葉」にとことんフォーカスして、どうしたら”レンタル言葉”ではなく自分自身の血の通った文章が書けるようになるのか(思いつけるようになるのか)、具体的なアドバイスがたくさん載っている一冊だった

 

「自分の言葉」で人を動かす

「自分の言葉」で人を動かす

 

特に印象にのこったのは2つでこんな感じ

いち、「教えたい」ことを書く

教えたい・・・誰かに言いたくてたまらない、言ったあとそのひとが喜びそう、喜びが伝播しそうな「伝えたい」情報

に、感嘆詞から感情を見つける

感嘆詞というのは「わあ」とか「ふーん」
文章が生まれる直前に浮かぶ感情の状態がそこからわかる、それはじぶんの(もしくは目の前にいるひとの)感情の原点がわかる、どのような感情をその対象にたいして抱いたのか分析できたとき、言語化は比較的容易になる

作文を書くのが苦手な子どもが身近にいるひととかにとっても良い一冊だろうなと思う(論文レベルになるとちょっと違うかな?でも論文やレポートのテーマを見つけられないひとにはヒントになるかも・・・)

ここまで読んで「お!」と思ったら買ってもらいたいと思うんだけれども、でも、何が一番良かったかって「あなただから書けることがある」という強いメッセージとの出会いだなって思う

「あなただから書けることがある」

「あなただから発信できることがある」

「あなた」という視点が、その位置が、その座標に意味があると言われたときに、ひとは(わたしは)とても安心するし、ああ生きててよかったなぁと思うし、その座標に活用性があると言われると、ああ生きていきたいなと思うから

その視点を見つけるヒントが、今回の本でいえば「感嘆詞」とされている言葉、感情の源、非常に体感的な、コンマ秒レベルで起きる反射的な感情のタネであるのも面白いよね

そして、その感情のタネが他者、じぶんではない存在、つまり世界に向かって矢印が向いたとき、そこに「教えたい」という欲求が生まれ、その「教えたい」が承認欲求とはまた別のもの、ピュアなものだったとき、そこにあるのは「この世界がより良くなるきっかけになる」という確信ではないのかなと思うわけです

近頃、じぶんのFacebookの使い方がほとほと身体的なレベルで嫌になってきていて、その嫌悪感の発端は、書いて何かを伝えるという動作が起きる前段階で生じている欲求が大きく二種類に分類できると気づいたことでした

その気付きは、パートナーと1週間の生活を半年ぶりにともにしたときに訪れました

おはようとおやすみを誰かと共有できるとき、わたしのなかでは極端に「不特定多数の誰かに聞いてほしい」という欲求が限りなく0に近い、逆に「どうしてもこれをあのひとに伝えたい」という欲求が高まっていったわけです

その様子から、普段のFacebookへの投稿の行動を支えている何らかの欲求には、いわゆる「承認欲求」とラベリングされがちな(わたしはもっと人間として根源的な欲求だと感じている)この世界で今日わたしは確かに生きていたのだという事実確認と、今回の本でいうと「教えたい」にあたる、あのひとがこれを知ったらきっと何かの役に立つのではないかという欲求の二つがあると気づきました

この気付きはここに留まらず、この「誰かに教えたい」の「誰か」をひとり、ふたりに設定せずに、◯◯のポテンシャルを持っているのにも関わらず~~な理由によって”今”△△の状態にあるひと、と「状態」で限定することができるのではないか!という気づきへと進化・・・

もちろん日常的に「ねえ!今日こういうことがあったよ!今日もこういう風に生きていたよ!」と誰かに生存報告を確認してもらう(ある種暴力的に)ことも精神衛生上とっても重要なんだけれども、其の一方で、本当に伝えたいことのターゲットを明確にすることは、よりその行動に効果をもたらすために重要なんだなと肚落ち!

というわけで、そういう風に発信の編集を舵切りしていこう!と決めた日でした、いいね!