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思っていることを言う、思っていないことは言わない。

大粒の水滴がとめどめなく流れるシャワーを浴びるように、素敵に生きてる人生の先輩方からの言葉を浴びる、ご褒美のような2018年の6月最終日。

今日という日を通してたくさんのことを受け取ったけれども、そのなかでも重要だと感じたのが「言葉」つまり、口から出すもの、手から出ていくもの、身体的なジェスチャーも言葉に含まれるかもしれない、とにかくじぶんから意図的にだすものと、じぶんが無意識に抱えているそれを一致させること。

ぎゅっと伝えてしまえば「思ってることを言う、それ以外は言わない」になるのかな、嘘をつかないというのも近い。そして、どのように思うか、思いたいかというのはひとりひとりに委ねられていて、その選択は自由なのだということ、この2つがとても大事なんだよなぁとしみじみしたのだ。

前者のそれはわりとシンプルでわかりやすいのではないかと思う。「赤」と思っているなら「赤」と口に出す、もしくは「あか」「アカ」表現はなんでもいいけれど、本質的なところを曲げて表現しない。はらのなかでは「青」と思っているのに「赤だ、赤が大事だ」「いや~アカだよね」「アカになりたい」と言っていたら、なんかこう、居心地が悪い。

青だと思ってるのに、「はるなちゃん、赤が大事なんだよ」と言われたら、ああそうなんだね、と思いながら頷いたらいい。無理して同感の意を示そうとするから、笑おうとする頬のはしが歪む。ただ、まっすぐに相手の顔を眺めながら、そうですね、と肯定すればいい。共感と同感は違う。

それに対して純粋な疑問がわいたなら「なぜ赤ですか?」と尋ねればいい。「こういう点で青と思いますが」とじぶんの意見を加えてもいい。そこで生まれる意見のぶつかりは新たな視点の発見につながったり、お互いにお互いの座標をはっきりさせることにもつながるからそのやりとりは有意義だ。

でも、相手を説得したいとか、じぶんの意見を押し通したいという思いがあると少しヘンテコなことになる。相手のそれは相手のそれ、じぶんのそれはじぶんのそれで、それぞれじぶんのなかで肯定を済ませておくことって意外と大事なことなのだと、最近の居心地良いコミュニケーションを思い返しながら思う。

それで、後者のそれなんだけれども、そしてこちらの方がどちらかというとより重要、モアインポータント。

前に前に新たな土地へと進みたいと思う「放牧派」のひとがいるとする、それに対して、別の派閥、ゆっくりとその土地を豊かにしていきたいと願う「滞在派」がいるとする。その派閥にはそれぞれのメリットがあり、それぞれのデメリットがある。そこに優劣はつけがたく、そもそも別に存在する浮いてる島のようなものなので、お互いがぶつかることを願わなければ大した衝突も起きない。

そして「放牧派」「滞在派」それぞれ、どちらも尊い道であり、そのどちらを選択してもその一生は豊かなものであることをすでに保障されている。

身体のなかで、じぶんは「滞在派」であると認識している、でも世の中ではなんとなく「放牧派」がちやほやされているように一見見えたりする。(逆もありえる)

そうなったときに、じぶんの内側では「滞在派」であることにしっくりきているのに「放牧がしたい!放浪したい!変わりたい!」と口に出すと、そこで身体の内側・外側に対流が生まれていく。うまく循環しなくなっていく。そのドロドロとした不気味さは人に伝わってしまったりもする。

それぞれの生き方を極めたら、その先できっとその豊かさをシェアできる瞬間がくるのだと想像する。別にどっちでもいいのだ、ポケモンのレッドにするかブルーにするかイエローにするか、はたまたピカチュー版にするかみたいな違いでしかない。そのどれを選んでも、少し違うストーリーだったとしても迎えるエンドも一緒で、かつ、道中で得られる学びも同じものなんだろうと思う。

というようなことを考え、もう嘘はつかないと改めてじぶん自身に誓い、身体の内側に流れているそれと外側にまとうそれを同一にしていくと誓う。

でもまあ、居心地の良さって、一回めっちゃ居心地悪いの体感してからのほうが極めやすいから、不快って意外と重要なサインだったりするのだ、だから、いっぱい不快を経験できてよかったなって今までのじぶんに思う。

とにもかくにも、スペシャルな6月最後の日で、そして平成最後の夏がいよいよ明日から始まると思うと身体がうずうずしてくる。うずうず。たのしいことをいっぱいしよう。面白いことをいっぱいしよう。ブルーハーツ魂で生きていくのだ。

もう変わらなくていい、ただ思い出していくだけだと実感する日だった。

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