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対極を内にもつ

じぶんのなかには常に相反するじぶんがいる。
それは真っ黒と真っ白の対峙とはまたニュアンスが異なる、光と闇というのもしっくりこない。いうならば、成熟しきっているが”億劫”を感じる老人と、未成熟ではあるが”活発”な幼い子どもという感じであり、その両方を眺める”視点”がつまるところの「わたし」なのだ。

「わたし」のなかに浮かんでは消える考え事の数々や、「わたし」の身体に生じるさまざまな感情、「わたし」の脳みその奥にある記憶の海に沈む出来事たち。そのどれもが”視点”のわたしにとってはさほど味わい深くなく、熱中も感じない。別々にあるそれはパラパラとしていて、刺激が強くても弱くても感動が薄い。
ただ、視点の「わたし」が唯一面白いと感じるのは、視点であることも忘れて出来事に溺れ、子どもと老人ふたりの声をサラウンドで聴きながら目の前の景色のなかに在ることだ。
つまり、考え事-感情-出来事がひとつになっているとき、そこには熱中という言葉をつかって然るべき状態があり、それはたまらなく楽しくて、まさに生きる醍醐味という言葉がしっくりくるような気がする。

「わたし」はそんなとき面白すぎる小説や映画のなか、きづいたらその世界の中で呼吸をしている、そんなハイな喜びを感じているわけだ。

しかし、そこに在り続けると今度は胸焼けを覚える、なんだか飽きるのだ、全身で感じ全身で考え全身で動いていくこと、それはハレの日のようなものでずっと続くとエキサイティングではあるものの辟易としてしまう。
そのヘトヘト感を和らげてくれるのが、思考であり感情を感じることであり記憶を愛でる作業なのだと思う、その行程を楽しみやすくするきっかけにスポーツや読書、音楽などがあるような気さえする。
意識的に考え事-感情-出来事をつなげている超感覚のスイッチを切るのだ、ぱちんぱちん。

このブログはまさにそれ、スイッチをゆっくりと切り、子どもと老人と”視点”としてゆっくり対話をする。これは対話でありながらその両者に対して受け身であるのではなく、子どもの声を体験し、老人の声を体験しという非常に複雑な対話である。

そういえばこれに近い経験を生身の身体を伴って経験したことがある、「共感ワーク」だ、最初聞いたときは正直気持ち悪い響きだなと、つっぱりたての高校生ヤンキーみたいな感想を抱いたのだけれど、よくよく聞くと、「共感」という意味が理解していたものと違った。
共感とは、ともに感じること、それは同意ではない、肯定も否定もせずただそのままを受け流す、コミュニケーション版合気道みたいなものだった。ちぎっては投げちぎっては投げる柔道型コミュニケーションとは異なり、相手のエネルギーをそのまま利用して受け流し、決して攻撃体制をとらない不思議な話の聞き方だった。

そして、これをデフォルトでやってしまう女のひとにこないだ東京滞在している間に出会った、なんだこのひとはと出会った瞬間からその姿のうつくしさにもう惚れこんでいたのだけれども、話をしてみてこれまた納得、ああこのひとは「共感」を地でやっているのだと感心した。
(感心したって上から目線のように聞こえるけど、ただただ言葉を感じていくと、そこにあるのは穏やかなリスペクトだと思って使っている、言葉に縛られずに言葉とともに豊かに生きるためには、その言葉の意味をじぶんの色で定義し直すことが重要であると最近よく考えている。)

ブログを読んでくださっている方にはダダ漏れだと思うけれども、わたしはとことんじぶんという人間への興味感心が強く、わりかし他人に興味を抱いていない方ではないかとじぶん自身について推測している。
他人に熱烈な興味関心を抱いているフリをするときも、そのフリの先にはじぶんへのより深い理解があるからそれを行なっているのだと思う、優しくもないし厳しくもない、不思議な性格だと思う。
どんなにひどいことがあって傷ついてもどこかでそれを面白がり、どんなに悲しい出来事が起きても全身でそれを感じ、またそれを表現していくことで生きてきたし、これからもそうやって生きていくんだろう。

その理由は、じぶんがこの人生をこの身体でこの座標で生きていることには「意味がある」という説を採用しているから、これに尽きる。
これがはっきりと言語化できるようになったのはわりかし最近のことで、それ以来何度も何度も言葉にするが、わたしがわたしでなくていいなら、ここに生きている理由はないのだと、言葉を前に置くたびに感じている。

日々生じる考え事-感情-出来事の連なりを体験し尽くし、その骨までしゃぶるようにして味わい、また他人のそれとの差を比較ことするからじぶんというものを明らかにし、それを面白がる。
この一連の流れは、俗にいう「じぶんさがし」なのだろうか、まあそれでもいいかと思う、いいではないか存分にさがそう、さがすという言葉はあまりぴったりではない、そこにあるのだから、探検、いやいや潜る、いやいやうーん「じぶんもぐり」うーん・・・

・・・「哲学家か!」そう腑に落ちた様子の最近できた友人を眺めて、ひとりとても喜んでいた、ここ数ヶ月で何度言われただろう、その言葉を味わう、哲学家、てつがくか、テツガクカ、いい響きだしとても気に入った(ちなみにじぶんの才能がわかるストリングスファインダーの能力ランキングトップも「意味づけ」だ、なんだその能力と大いに笑った、意味づけ、なんてハッピーかつアンハッピーな能力だろう、いい!)

いつだって、じぶんのなかには相反するじぶんがいる、幼ないが好奇心でたっぷりの楽観的な子どもと成熟しているが動くことへの怯え満載の悲観的な老人、ふたりが同居するこの人生をなかなか気に入り始めている。
彼らは代わり番こに、矢継ぎ早にものすごいスピードでおしゃべりをする、そういえば二人とも男性なのも面白い点かもしれない、じぶんのなかにある思考の傾向を擬人化しても、ひとりも女のひとにはならない・・・なぜ?

考え事は尽きない、出来事が尽きない限り、それに付随して流れる感情が干からびてしまわない限り。
明日もたくさんたくさん脳みそは動くだろうし、心も動く、新しいひとと出会いまたその相手を好きになり悶絶するのかもしれない。

ブログが1000記事に到達してもひとつもこたえはでていないのかもしれないね。
でも、どの記事にも一貫して書かれていることがある、それが「わたしがわたしでなくていいなら、ここに生きている理由はない」、これは「わたしがわたしであるから、ここに生きている」と同意だ。

そして、わたしをわたしたらしめるのは、考え事-感情-出来事をつなげ続ける超感覚であり、今の状態にあわせて同時に形成されていく未来の出来事と過去への解釈、子どもと老人の同居という精神性。
それらが存在していることが明らかになるのは唯一、すべてのつながりをただ眺める”視点”を持ちながら他者や動物や自然や創造物などという異なる存在とコミュニケーションをとること、これによって、それらとじぶん分の差異によって初めて「わたし」は、ここに存在していることが明らかになる。

このように最初から全ては”内”にあるのだけれど、それを認識するためにはあらゆる”外”が必要という構図を見つめると、この世は上手にできているなとついついその精巧さに感心してしまう。
この構図がある限りひとは死ぬまで必ず孤独だけれども、その孤独は、本当の意味での孤独ではない、ひとりぼっちになどなれやしないのだ、ひとりぼっちであった場合、ひとりぼっちを認識できないのだから。

大切なものをどこかに置き忘れああもうと那覇をあちこち探し回りながら、ウエサクの満月の日の朝、ゆいれーるの駅で太陽のひかりを浴びたときに考え感じ眺めていたこと、言葉にするとこんな感じだった。

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写真は、その日の夕方に撮った夕焼け。