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じぶんの人生を面白くするのはじぶん

「やりたいことは、なに?」
「あなたのやりたいことがわからない」
と、言われることがちょっと前に多くあった。

言われたときは「むっ」とする。

だけれども、ある意味でその反応というのは考え事をする機会になり、その問いを投げかけられる(投げつけられる)たびに、じぶんの「やりたいこと」への意識が太く、または尖っていくことを感じている。

わたしのやりたいことってなんだ。

その問いはときにしんどい。やりたいことがないと生きてちゃいけないのか、ワクワクして生きないとだめなのか、と見えない誰かへヤサグレをしたくなるときもある。だいたいワクワクってなんだ、トキメキってなんだと途方にくれてしまうこともある。

でも、2年くらい前からその問いと向き合ううちに、なんとなくわかった。やりたいことがわからないって、ワクワクがわからないって、トキメキがわからないって、誰かの価値観に沿って生きていくことが普通だったから起きる状態だ。

最近23歳になった。もう23年生きている。でも”じぶんで決めて行動をし、その結果として失敗もしくは成功する”という経験をするようになったのは、おそらく大学入学以降だ。つまり、18歳以降。まだその経験は5年分しかたまっていない。

と、、、経験がたまる前はどのように考え行動していたかをまとめていたらすごい人生の出来事の羅列みたいになっちゃってきもちわるくなったので、省略。

とにかく「じぶんで生きる」ことから目をそらし、誰かの価値観や、”正解”に見える選択肢を選ぼう選ぼうと努力しては、身体が動かなくなり、そんなじぶんに嫌気がさしというループを繰り返していたわけ。

生きてるのもやだけど、死ぬのはこわいし、みたいな。まあとにかくしょ~もない甘ったれだった。(それを正当化できちゃう家庭の事情はいっぱいあったし、よく生き延びたねと思うところもあるけれど。)

じゃあその頃といまの自分の何が違うかって、”誰かの価値観”の皮を見つけては剥がして捨てていて、”正解”に見える選択肢を選ぼうとするじぶんの心と徹底的に向き合っているところが違う。それを繰り返すうちに、「じぶんで選んで、じぶんでその先を経験する」という経験が増えた。

成功も失敗も、どうしようもない状態になったり、ええ?こんなに!?みたいな状態をプレゼントされることをいっぱい経験するなかで、やりたいことが明確にわからなくてもとりあえずじぶんで決める大事さみたいなのはもう身体に染み込んでいるように思う。

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(取材とかCMとか舞台での演技披露とか、、、いろんな経験のプレゼント。)

言い訳ができないっていうのが曲者かな、誰のせいにもできないし、嘆きわめくこともできないし。(ときどきあえてするけれど)でも、ずっとずっと信じられないような嬉しさを体験させてもらえるようになった、じぶんがじぶんで在るというのはそれだけ大きいことなんだろうと思う。

未だにワクワクもトキメキもよくわからない。好き!嫌い!はハッキリしている。でもたいてい好きも嫌いも乗り越えて、いつも身体が先に動いてしまう。理由も意味もいつでも後づけ。身体が先に動いた「やりたいこと」はやっていて本当に面白いし、たくさんの考え事の機会をくれる。

身体がぜったいに「イヤ」と思う「素敵にみえること」もある。お金がいっぱいだったり、繋がれそうなひとが大物だったり、みんながすごいって言ってくれそうだったり。そういうことは「やりたい!」と思うのだけれど、心と頭がやりたいと思っても、身体が嫌だという、きもちわるくなったり、重たかったり、足が一歩踏み出さなかったりする。

その「なんか違うなぁ」は大事にしつつ「ああこれ身分不相応だな」とビビりながら、心は喜び頭は唸り身体は勝手にそっちの方向に進むような「こと」と向き合う。

「やりたいこと」を点で語れたらかっこいいけど、未だにやっぱりわからない。わたしにわからないことが誰かにわかるはずもない。たぶん、点でやりたいことなんてなくていい、今はまだそういうタイプではないのだ。

今はただ、ちっちゃい目の前にあるお仕事をひとつひとつ形にしたい。ひとつひとつやりきりたい。それを仕上げながら、ひとつひとつ階段をのぼり、ちょっと見晴らしがよくなったところでまた向き合いたい。だから、「やりたいことは、なに?」の答えはいつだって「今やっていること全部」でしかないのだと思う。

(そしてそれを最近否定されて、大いにへこんだ。)(能力が高かったら手を出しすぎても迷惑をかけないのだろうなぁと思いつつ、同年代の「今はいっぱい失敗しながらスキルを身につける時期だよね」という言葉に勇気づけられる。)

やりたくないことをやめる、やりたいことをやる。
ただそれだけだよ、あなたはそれができると思うよ、とニコニコしながら教えてもらった。あの日がたぶん、わたしの第二の出発点、じぶんで生きると決めた夜。

ちなみに、第一の出発点は、愛知に移り、編入した高校ではじめて「人生を自分で創る」という経験をしたとき。とても良く覚えてる。進路指導室の前で立ち話をしていたときに、生物の先生が言った。

「お前、高校卒業したらどうするんだ?」と。そのとき、びっくりして、まず生きていきたいと思っていないから適当に生きて適当に野垂れじぬみたいなことを凝縮させた返事をしたんだけれど、それに対して先生は否定も肯定もしなかった。

ただ「そうか、でも俺はお前がその道を進んだら退屈すると思うよ。」と言った。「退屈」という言葉と出会ってはじめて、じぶんの人生を面白くするのはじぶんだということを認識したのだ。

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(数年後、うたったり、踊ったり、回ったり、書いたり、働いたりしてるだなんて思ってもなかったであろう16歳のじぶんが一日10時間も!受験勉強を頑張ってくれたおかげで今のわたし。)

 

これを書き留めたのは、最近、たてつづけにお仕事の話をいただいたから。とても嬉しい。おそらく第三の出発点にきているのだと思う。つまり、「やりたいことは、なに?」への答えが変わるタイミングだ。

じぶんが大きく変わる前は心が落ち着かない。身体もちょびっとそわそわしている。

生活をデザインするタイミングともいえる、とてもこわい。じぶんなんてと謙遜して世間のせいにして政治のせいにしていろんなもののせいにして「変わらない」ほうがいいんじゃないかとも思う。どっちが良い?とじぶんに聞くと「そりゃ~~~進もう!生きてるんだから!いえい!」と答えてくるので、しゃーなしや~~と思いながら、進む。

どんな風に生きたい?
誰と一緒にいたい?
どんな場所が心地よい?
どんなひとたちと働きたい?

数年前は答えられもしなかった質問に、ホイホイと答えが出てくる。

それだけの経験値がたまったのだなと素直に嬉しく思う。

動いて動いて、立ち止まって考える。

考えたことが血肉になる頃に、また動き出すきっかけをいただく。

日々の予定がぎゅっとつまりすぎているのでついつい軸を忘れ「常識」に沿った選択を取りそうになるけれども、わたしの軸は体感だ。体感を忘れずに、どういう風にお仕事のスケジュールを組むか、よくよく見極めてみようと、そういうことを思う4月初日だった。

 

16歳のじぶんの想像が良い意味ですべて外れている今、数年後のわたしの未来も、いま想像している範囲を大きく超えてくるんだろうと、笑ってしまう。

 

ナリワイをつくる 人生を盗まれない働き方

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今日が残りの人生最初の日

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