「ブログを1000記事書いたら奇跡が起きるよ」
その言葉が本当かを確かめるための過程の記録

もう人を好きになりたくないと思う夜に

誰かを好きになるたびに、もう誰のことも好きになりたくないなぁという思いを積み重ねている。誰のことも好きになりたくないし好きという感情を感じたくないし、そういうものも全部忘れてしまいたいと思う。一種のセンチメンタルであって、眠ってしまって朝になればもうその後悔を忘れて別のなにかや誰かに恋に落ちるのだけれども。

ひとを好きになるのは喜びだと、誰かを好きになるってワクワクすると話してくれた素敵なひとがいた。いいなぁと思ったのをよくよく覚えている。とてもピュアでキラキラした感覚だと感じた。

わたしのなかには好きがたくさんありすぎる。それは出会ってすぐ、もしくは会話の途中に飛び出た言葉、ふとした瞬間の景色のなかにある表情、そういったものをきっかけに始まる。でも、そもそも、歩いていてあんまりにも美しいブーゲンビリアに出会ったとき、誰かが大切に積み上げた石垣を眺めるとき、じぶんの何倍も何倍も生きてきた大木にふれるとき、同じような体感がある。

ああ好きだ、と思う。それは、リスペクトに近いなにか。わたしと違う時間の感じ方をして、わたしと違う愛情を持っていて、わたしと同じ未来をたぶん描いているという自己中な感動と共に。ひとに対するそれも、実はその体感と大差がない。

同じように身体のなかにゆっくりと感動が広がっていく、すばらしいと思う、そのひとの人生、生き様、そして今この瞬間のこのひとをつくりあげている今までの出会い、出来事、すべてに心震えたとき、もう好きだとしか形容できないなにかを抱く。一瞬のなかにぎゅっと詰め込まれたそのこころの動きは、形を伴うとすればとても深い愛情で、それを身体のなかに抱いているとなんだかぽかぽかとして、そのぽかぽかはわたしの身体だけにとどまらず、ハグをした誰かや、手をつないだ子ども、触れた土や木々にも伝わっていく。

相手のなかに同じ体感を見つけた瞬間は喜び、大きな喜び。でも、それがあからさまに濁るのが、所有に関する考え事が始まった瞬間だ。その概念がなければ、子どもに伝えるように、自然のなかで伝えるように、歩きながら伝えるように、好きだとただシンプルに伝えられる。

好きと思い、思われることは本当に嬉しいし、たくさん一緒にいられるとなお嬉しい。でも、それが同時に起きると、片方のひとが寂しくなったり、別のひとが悲しくなったりする。それは意図するところと違うので、一生懸命好きになったり関係が進行するのを我慢したりする。

ポリアモリー(複数のパートナーシップ)を用いてこの感覚をひとに説明を試みたこともあったけれど、それもうまくいかなかった。とても近いのが、とてもとても近いのが、今のパートナーが言った「みんなのだもんね」という一言だ。誰のものでもない、ということはみんなのもの、その感覚をほんとうにほんとうに好きだと思ったし、その言葉を発する彼の顔がまたとても綺麗だったので、それも心にのこっている。

これが若さ、年齢のせいならば、そうであってほしいと思う。当たり前に年だけは取れるのだから、年齢に応じてこの感覚がなくなればいいと思う。そうすれば好きだと伝えてくれるひとのことを傷つけずにすむし、傷つけたあとの顔をみて傷つくこともない。

とても美しいことだと思う、ひとりのひとを愛しぬき、そのひとの隣で年を重ねることは、とても美しいと思う。結婚も面白いと思う、別の家族と交わりを持ち、物理的に家族が増えるのだから。

わたしはできないと思う、結婚はあまりにも制度がちゃんとしすぎている。別のひとのことも好きになってしまったとき、そして関係が進んで一緒にいる時間を長くしたいと思ったとき、相手もわたしも裁かれ、裁く相手も傷つくといういらないおまけ付き。絶対ムリだ・・・といつも思う。結婚。

どうしても学校に行けない日があるように、どうしても卒論が書けなかったときのように、頭でどう考えてどうじぶんを律そうとしても、心がひとを好きだと思うのだから仕方がない。好きだったらセックスがしたいわけではないし、そういう関係になりたいから好きだと思うわけでもない。好きだったとしても指一本触れられたくないと思うこともあるし、ずっとそういう関係は持たないまま隣を並んで歩いていたいと思うこともある。

まだ、じぶんでもどうしたらよいかわからないから、好きだと思ったひとに冗談めかして好きだと伝えることしかできない。ハグをするときにそれを相手にわたすことしかできない。パートナーのことを傷つけたいわけでもないから、いつもいつもギリギリのラインのところでパッと身を引くか、相手に嫌われてしまうかのどちらかだ。

でも、もうそれでいいような気もする。ただ、曲者なのが、好きだと思った相手が別の誰かと単一的に特別な関係を結ぶ、と決めたあと、とっても寂しくなるところだね。相手も同じような感覚で好きな人がいたら、それはむしろ嬉しいんだけど誰かを理由に会えなくなると、とても寂しくなる。

うーん。。。3月末、5年一緒にいたひとがそばを離れる。物理的な距離があく二人の関係がどうなるかなんて想像もできない、したくもない。だけどもう寂しさを出発に誰かと時間を積み重ねることもしたくない。

こういう価値観になっているのは幼少期の親子関係による影響では、ということをとてもとても好きになったひとから言われたけれど、たとえそうだったとしてもその問いはナンセンスだ。わたしが生きるのはこの人生だし、それ以外の人生をわたしは感じることができないのだから。

でもま~~やっぱりあれかなぁ、年齢とともに薄れていくに一票かな。
だとしたら、”おばさん”になる前に素敵な人と、と前は思っていたけれど、前に”おばさん”と思っていた年齢のひとたちが全然おばさんに見えず、かつパートナーと出会ったりしているのをみると、じぶんの思いを縛り付けて律し、誰かとシンプルなパートナーシップを築くことに執心しなくてもいい、と素直に思える。

うむ。
ここまで書いて何回もじぶんで読んで、やっぱり今はこのままでいいって思う。
それでいい、ゆっくり進みながら勝手に変わる。誰かが変えてくれるのかもしれないし、気づいたら変わっているのかもしれない。そんなのわからないから、今はやっぱり身体いっぱいでひとや、場所や、自然を好きだと感じたい。

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