「ブログを1000記事書いたら奇跡が起きるよ」
その言葉が本当かを確かめるための過程の記録

体感

まだ、くらくらとしている。

なんで今日、わたしはこれを観たんだろうと自分に何度も問う。

舞台をみた。
舞台は、みるというよりも、小劇場のそれは、体験に近い。
舞台をしたというのはヘンテコな日本語だけれども。

どうして観に行くと決めたのだろう。
それはたぶん、応援している年上のひとが出ているから。
なんだか直接連絡を取るのは、返事に時間を取らせるのも嫌で、しなくなり。

ずっと前に告知をみたときは見ないと思った。
わざわざ苦手なものを観に行く必要はない、と。

苦手なもの、というのも言い方が正確ではない。
追体験をする必要はない、というのがきっと正確で。
そんなに自分をいじめなくてもいいだろうというのが、その意味だ。

案の定はじまった瞬間から、観に来たことを後悔した。
でも気がつくと、主人公の、その応援しているひとの、演じているひとの痛みを全身で感じていた。ずっと、幕が下りるまでその痛みが身体にあった。
それは、そのひとだけの痛みではなく、もっと大きな何かだったけれど、感じるので精一杯でどこからきて、実態が何かはわからなかった。

劇の途中で、ふわっと視界が開けた瞬間があった。
そのときに「もう十分に体験した」と。
もういいよ、と誰かに言われた気がした。
少し呼吸がしやすくなり、その瞬間に様々なことが腑に落ちた。

「生きろ、生き抜け」
客席の数センチ先で、大きな男の人が叫ぶ。
その声が身体の中で響いて抜けていく。

これが最後の追体験だろうと、よくわかった。
社会的な意味のある形に言語化できないでいるけれど、それがすべてだ。
圧倒的な暴力も、忘れられないことも、身体は覚えてる。
自分にとってすべてであったひとが狂っていく様も、それが外から見えない様も、びっくりするぐらい同じで固まってしまった。
でも、もういい。

きっと今日、これを観たのは”美しい創造”のヒントだったのだろうと思う。
そして、最後の、23歳からはじまる新しい段階のための最後のステップだったのだろうと思う。

まだ身体が痛くて、心をバラバラにしないためだけで立っているのもやっと。
それだけ、演技が本物だったということ。
千秋楽じゃなくてよかった。もし、そうだったらきっと終わった後、しばらく日常に帰れなかった。

もういい。

自分の業の深さに、ときどきゾッとする。
でも、そのなかに溺れてしまったら、もはや生きる意味がなくなってしまう。
溺れることなく、忘れることなく。

宗像堂のパンを食べて、戻ってこよう。
わたしは今22歳で、じぶんの手の内にいくつもの選択肢があり、この道を選んで生きている。
顔を上げ、呼吸を整えよう。

もういいと、言えるようになったじぶんとハグをして、また進む。

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"美しい創造"は、とってもとっても難しい。

でも、きっと、もっとシンプルだ。