「ブログを1000記事書いたら奇跡が起きるよ」
その言葉が本当かを確かめるための過程の記録

授かりものとはいうけれど

思ってることも考えてることもいっぱいあって、その多くは「はたらく」ことについてだったり、「誰かを好きになる」つまりパートナーシップに関するところだったりする。だからどうしたというわけではなく、昨日出会ったひとが「考えるのが趣味みたいな」と形容していたのと似ているんだと思うけど、やっぱりちょっと違うかもしれない。

考えるというよりも探求に近い、探求、もぐってけずって次の形を見つけるための「考える」である。

生きていくのはしんどい、身体のなかに入っていなきゃいけないというのだけでもしんどいと、少し前に出会った不思議な男の子が話していた。(彼は臨死体験を4回くらいしてる。)わたしは臨死体験をしたことがないので、彼のきもちはわからなかったし、その「ふわっと」を体験するのはちょっとこわいなとびびった。

生まれてきて死んでいく。当たり前のように繋がれた当たり前ではないこの命、わたしはあとどれくらい生ききることができるんだろう。だなんてきれいな言葉にまとめてしまうのは簡単だけれども、だいたいの日常においては「くっそ死にてー!」とか当たり前につぶやいている。

生理が3ヶ月きていない。こんなとこに書いていいのかわからないけれど、きっちり避妊はしているので、万が一かもしくは忙しすぎて子宮からダウンしている状態なのかもしれない。どちらにせよ病院に行くべきだとパートナーが主張しているので、おそらく次のお休みに病院に行くことになる。彼のほうがわたしよりもわたしの身体を知っているからだ。

さて、もし赤ちゃんができていたとして、という仮定をしてパートナーと少ししっかり話をした。あくまで「少ししっかり」な話。「ひとつしか選択肢ないでしょ」と彼が言ったので、おろすのかな、と考えたけれど、「もう卒業もしてるし、おじいちゃんおばあちゃん的にも大丈夫じゃない?」と話を続けてくれるのを聞いて、ホッとした。

おろしたくない、と思っているじぶんとの出会いはわりと強烈なインパクトをわたしに与えた。子どもというのは可愛いし、大好きだ、と恥ずかしげもなく思うけど、それは、彼らの中に凝り固まった価値観や観念がないから好きなのであって、=自分の子どもを持ちたいと思う欲求は一切持っていない。

むしろ「自分の子どもを持ちたい」というのはなんだか歪んだ要求のように思えて、嫌悪感すら感じてしまう。そこにはわたしの偏ったものの見方があると思うし、まわりの素敵なお母さんたちにはとても伝えられない醜い思いだと、いつもなぜか反省している。

でも「おろしたくない」と思ったのだ、と反芻する。おろしたくない、と。それは物理的に、ある意味体感的に感じ取ったじぶんの本音だった。ふたつ道があるときには危ない橋をわたりたがる節があるので、それに似た欲求なのか?と思ったけれども、それとも違うらしい。

おろしたくない、と思ったのだ。わたしはあのとき、あの車の助手席で、彼とわざと目を合わせず外を向いて彼の返事を待ちながら、たしかに「おろしたくない」と思った。でもまあ次の次の日に大喧嘩して「ふざけんな!」と怒られたときに、絶対にこのひとの子どもができていませんよーに!と天に向かって手を合わせたのだから適当な本音だなとも思うけど。

子どもを産むのがこわい、という気持ちではない。ただ、「なんで産んだの?」と聞かれるのがこわい。まだ赤ちゃんができたわけじゃないのに、そんなじぶんの思いと向き合いどんぶらこどんぶらこと思考の川を下っている。

「なんで産んだの?」それを尋ね続けているのは、幼いじぶんだということはもう随分前から気づいてる。床の上体育座りで窓の外を眺めながら、ただそう思っていた小さいじぶんと背中を合わせる。体重を預けて揺らしてみる。

なんで産んだの、に対する答えを見つけられない間は、まだ赤ちゃんには来ないでほしい。こんなじぶん面倒くさくてわずらわしく感じるときもあるし、子どもを産むというのは当たり前に素晴らしいことであると思っているけれど、ことじぶんが、となると、そう思う、という話なのである。

わたしの赤ちゃんがもうすでに宇宙のどこかに存在しているとしたら、ほとほと呆れているだろうと想像する。「まったく困ったカーチャンだぜ」と首をふるお調子者の気配がする。わたしと彼、もしくは彼女が出会うのはどれくらい先になるんだろう。

もし、もしもそのときがきたら、思いっきり「生まれてきてくれてありがとう」を伝えられたら嬉しい。一周回って「わたしのために産んだのだ!」と開き直っているのかもしれないし、「お前はこの宇宙のね・・・」と壮大な作り話を伝えるかもしれない。それはそれでありかもしれない。

当たり前に子どもを授かり当たり前に出産し当たり前に子育てする時代に生まれていたら、考えなかっただろうか。それとも考えていただろうか。数年前はわからなかったけれど、今わかっていることで、ひとつだけ確かだと思えるのは、わたしに赤ちゃんができて、その子が大きくなることを、今まわりにいる大人のひとたちは全員じぶんのことのように喜んでくれるだろうということだ。

少し前に大好きな大人のひとから「あなたに出会えたのは、わたしの人生のすばらしいギフト」といってもらったときにそれは「確か」になった。そして、その確かさはコインの表のようなもので、裏にあるわたしの体験としても、結局、同じようにまわりにいる子どもとの出会いを喜んでいる。

だからなんだというわけではないんだけれど、なんかあんまりこの考え事は健康的でないなと思うから、もっとシンプルに生き物として生きられる未来が50年後にはあるように、一歩一歩進んでいこうと、やっぱりどこか壮大なことを今日も考えるわけでした。

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