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「さとり」から逃げる

ときどき、深く深くじぶんの底の方に降りていく感覚がある。

深く深く、そこには「誰か」や「何か」がなく、ただただまっさらに「じぶん」がある。

降りていくことを忘れ日常の忙しさにかまけていると、気づけば生きている実感を失っている。

「あれをやらねば」「これは明日まで」と締め切りに追いかけられながら、乾いていく。

 

じぶんの表面から発される言葉や声も好きだと思う。

日常的なコミュニケーションをたのしくさせてくれるし、飽きない。

でも、それはあくまでも、かけらに過ぎないとも。

 

深く深く降りていくと、やがて静かに横たわっている「じぶん」と出会う。

まっさらさらさら。

日常のなかにかけらとして散りばめられているそれが、しっかりとひとつになってそこにいる。

「輝く」という言葉を用いずとも、ただ静かにそこにあるそれはひかっている。

 

湧いてくるものを言語化し、口から出したり、身振り手振りを加えて人に伝える。

伝えやすくするために形を整える作業で、入りきらなかったニュアンスは削られる。

削られたそれはパラパラと地面に落ちて、やがて消えてなくなってしまう。

 

横たわったじぶんとまっすぐに対峙する。

なくしてしまったと思っていたかけらがなくなっていないことを知る。

かけらがかけらであることに意識を向けることに意味がないことを知る。

どんなに小さなそれも、わたしであることには変わりない。

 

「本当のじぶん」で生活することが真にただしいこととされがちだけれど。

そうでもないんじゃないかと思う。

「本当のじぶん」で生活をしてしまったら、何も楽しめない。

ずっと微笑みを浮かべていられるから。

大きな喜びも、大きな悲しみも、大きな切なさも、大きなたのしみもある。

でも、混ざりきってしまったあとの感情ほど、味のしないものはない。

 

そこに行き着くことが、まるで人生の目的のように話される。

でも、そうじゃないと思ってる。

誰だって、いつだって、深く深く降りていけばそこで出会う。

いつもそこから見守っている。

まわりのひとを少しだけあたためるのにちょうどいいだけの温度を発しながら。

 

いつもの暮らしのなかに散りばめられたかけらこそ、本当のじぶん。

深いところでまっさらに横たわる「じぶん」はそれがぎゅっとまとまって、ぱっとひろがったもの。

 

失敗も成功も、悔しさも喜びも、嘘も本音も、愛も憎しみも、あたたかさもつめたさも。

すべて、すべて、すべて。

 

分離してしまったようにみえるものを、ひとつひとつ繋ぎ止めていく。

点が線になり、大きな絵を描く。

生きている間は見えないその絵の影をなぞりながら生きていく。

 

ハイなときは忘れがちなこの感覚を、ときどき思い出すために、きっとわたしは具合を悪くする。

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去年の今日の記事。よいね。

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