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生きていくことの根っこにある寂しさについて

今日は、那覇で働いてた。

不思議なご縁で、いろいろな知ってる人が代わる代わる訪れ、子どもたちが笑い、たのしい一日だった。

(イベント中なの忘れて子どもとはしゃいでしまって、申し訳なかった。)

(前も同じことがあったのを思い出し、・・・ってなった。・・・である。・・・・。)

 

でも仕事を終え、パートナーの家にいつも通り帰ったあと、久しぶりにやや喧嘩のようになり、パートナーのアパートを飛び出し、自分のアパートの部屋へ。

徒歩3分の距離。

前に泊めたひとたちがきれいにしてくれていて、びっくりした。

でも、落ち着かず、すぐに居心地が悪くなる。

 

ひとりで部屋にいるとだめなのだ。

なんだか空っぽな気分になってしまう。

根本的に寂しがりなんだろうと思う、気持ちがだんだんと斜めに傾き、そのシーソーさえ壊れてしまい、足元がぐらぐらする。

 

前は、「一人でいられるようになる」ことに憧れて、半年くらいパートナーから離れたことがあった。

結果、すごいモテた。

 

それはそれで楽しかったのだけど、なんだか表面的な気持ちのやりとりや、世の中の「恋愛」の順序にのっとって行われるそれは面倒でかったるく、すぐに飽きた。

そしてなんのことない顔をしてひょっこり彼のもとに戻った。やっぱりしっくりくる。

 

こないだ彼が出張でいなかったとき、朝の6時まで、好きな場所で好きな人たちと飲んで騒いで踊って歌った。

だけれども、酔えば酔うほど駄々をこねる子どものようにかまってほしくてしかたない自分がでてくる。自分を見てほしい、触りたい、抱きしめていてほしい、そういう気持ち。

 

小さい頃、父親の膝の上に座りながら、もしくは祖父の膝に座りながら、心の底から安心していた「それ」を求めているのだろうと、よくわかっているつもりだ。

だけれども、何分身体が大きくなりすぎてしまった。いつのまにか「くっつく」はあの頃と違い「性」と切り離せないものになってしまった。自分がいかに違うと言い張ったところで、相手がそうだったらそう、という難しいところだ。

 

そういう面倒くささなくお互いに身体を預けられるのは、パートナーか、子どもか、赤ん坊か、動物、木、地面、海。

それがいいか悪いかとか関係なく、ただそうだということ。

にしても、久しぶりに自分のなかにある空っぽさを感じて笑ってしまった。みんなもどこか抱えているんだろうか。年を重ねた先にも同じように抱えているんだろうか。

 

生きていくのは、とても楽しい。だけれども、ちょっとこわくて、いろいろ億劫になることもある。

だけど、それを忘れてしまうくらい夢中になれることにときどき出会い、そんな風に頭の中で逡巡していた考え事さえ忘れてしまうほどの鮮やかな感動にときどき溺れ、そういう喜びがあるから生き続けている。

 

この寂しさは、別に家族との関係から生まれたものじゃない。もっと昔からあった。物心ついたときにはもうそばにいた感情。根本的な、根源的な、根っこのところにある寂しさ。

これはこれできっと贅沢な感情なんだろうと、なんとなくその貴重さを知っているような気もする。

 

来年の4月には、どんな気持ちで生きてるだろか。

パートナーが物理的に近くにいない季節が、音も立てずにだんだんと近づいてくる。その日どんなに寂しさを感じても、一緒に眠れば朝にはまた元気になれる。そんな関係がなくなってしまう。

 

じゃあ、その関係を持続させるためだけのために、沖縄を出るかというと、そんな欲求もさらさらない。

今感じる「鮮やかさ」は、今目の前にあるものたちが発している色だから。そこに在る鮮やかさをないものにして、すがるようにして逃げるようにしてこの島を出るのは、本当にやりたいことではない。

 

だからたぶん、来年の4月、とっても寂しいし住むところは変わっているだろうけれど、その寂しさと同居しながらゆっくり前に進む自分が生きている。

それはちょっと楽しみだ。

 

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