「ブログを1000記事書いたら奇跡が起きるよ」
その言葉が本当かを確かめるための過程の記録

コミュニティという言葉は便利すぎて厄介

わたしが北中城でみんなとアメナルミチをつくろうとしているのと同じように、名護でぐしけんはワカゲノイタリ村というのを素敵なメンバーとつくりあげようとしている。

(ほんとに素敵、家たててみたり、家の前のコンクリ剥がしてみたり、いい。)

 

昨日もなんと2時間!びっくりでしょ2hoursも電話していたわけですよ、あめーじんぐ。

彼はとてもエネルギッシュで、彼といいつつ、ひとつ年上の先輩です。

ニコニコ笑う様子がとても可愛くて、出会う人を軒並みメロメロにする能力を持っています。

なんだか「つい」応援してしまう何かを持ってるので、その才能にときどきやきもちを焼くことも。

 

一週間に一度くらい電話をする。

「コミュニティづくりってなんなんだろう」

「どうしたらいいんだろう」「どうしていきたいんだろう」

 

具体的な悩みを相談し合うことも多いけど、根幹はそんなところにあるような気がしてる。

 

昨日の電話で、それぞれの場所で参加者全員が生計を立てられるようにしたいわけではないということがはっきりした(と思う、わたしはそうだった。)

そして「お前いいよな!」と褒められたのは、言葉が生き生きとしているところだった。嬉しかった。

 

「アメナルミチの何がいいの?」と尋ねられて、少し間をあけたあとに「場」と答えた。

場そのものが好きなのだ、特別な素材で塗られた壁、琉球畳、気持ちのよい吹き抜けになっている天井、外の月桃がよく見える広々お風呂。植えられたばかりの木々のあるお庭、裏のすすきの森、井戸のあるバナナの林。全部が好きで、不思議な話だけれども、場がわたしのことを好きなのも感じるのだ。

(変な話だけどさ。)

 

コミュニティをつくるってどういうことなんだろうね。

まだなにでも成功していない私達がやるって何の意味があるんだろうね。

 

わからないだらけ、道に迷いっぱなしの我々を支えひょっこり導いてくれる先生の言葉が胸に光を灯してくれる。

「誰も登ったことがない山をつくろうとしてるんだよ」

 

「コミュニティ」って本当に便利な言葉。

何をする場で、どうしたくて、なぜ集う。

 

14才の頃、たしかに胸の中にあった理想的な「つながり」への夢。もっともっと遡れば7,8才、山の中豊かな川のそば、大きな人も小さな人も混ざって心を開きともに眠った夜。

「コミュニティ」その言葉のぼやぼやとした余白に甘えてどこまでいける。焦っていたとしても進んでいる、根が深くのびている。

 

2ヶ月前、ああこれが今のわたしの向き合うべきことだとわかったとき、何を考えていた?どう思っていた?3ヶ月後、23才になる自分は何を感じる、どう思う?いつも答えを未来と過去に求めがち、でも本当はそうじゃない。

 

今の自分だけが知っている、本当のこと

今の自分だけが感じている、本当のこと

 

舞台や音楽と一緒なのだ、なくても生きていけるはずなのに、ないと世界がとたんに退屈になる何か。それが「偶然」できる人とのつながりだろうと思う。

その偶然を演出できるのは、やっぱり「コミュニティ」だ。

それはつまり「場」だ。

 

居心地のよい場をつくる

居心地のよい場を演出する

居心地のよい場を持続させる

 

コミュニティをつくるというのは「場」を創出することだ。

「場」を創出することは、出会いをつくり、癒やしを提供し、当たり前に自分に還れるための自然とともに在ることだ。

 

もっともっと考え事を可視化させて、もっともっと人に伝えられる形に。

2017年、最後のトンネル、きたな。

 

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ちょっと前に名護で出会ったみんな

みんなとコミュニティ祭りをやろう!という情熱に似た何かは、良い刺激としてまだ体の中にある

ちなみに一番みぎがグシケン。