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生き方ぜんぶが発信で、生き方ぜんぶが表現だ。

「創造は余白から生まれるよね」

という言葉に深く頷きながら、いつも暮らしている地域からうんと遠い山の中、昨日は若い人たちと一緒にいた。

忙しさにかまけて日常の言語化を諦めると、こんなにも簡単にするすると脳みそからその日あったことは抜け落ちて、気づいたら年を少しとっている。

忙しいのは良いことじゃない。目的を忘れ目標に振り回され、きづいたらとても遠いところに漂着する。

忙しいって、そのなかにいる間はまるで「怪獣たちのいるところ」に出てくる怪獣たちみたいに喜んで踊ってくれるのに、そこでの学びを終え、いざ旅立とうとすると同じく彼らのように「食べたいくらいに好きなのに」と声を荒げて引き止められる。

忙しいのは良いことじゃない。目的を忘れ、目標に振り回され、気づくと年を取ってしまう。

 

「今」この瞬間にただ在るというのが、今の自分が知っている限り、一番の本質なような気がする。たくさんの大人のひとが本質について語り、たくさんの本が本屋さんには並んでいるけれど、体感を伴って「本質だ!!」と言えてしまうのは、ただそれだけ。

「今」この瞬間にただ在る、ただそれだけ。

 

それってまるっと自分を抱きしめるともいえるし、いじけてる自分の横に同じようにうずくまり肩をつついてみるのとも同じだし、大笑いしてる自分を指差してまた一緒に大笑いするのとも似てること。

 

今この瞬間にただ在る、それだけで息がしやすい。

 

人にはそれぞれの役目があるんだなということを、大勢のひとに会うと強く感じる。大勢のひとに会って場を眺めているとハッキリとそれが感じられる。同じように自分の役割を知れるようになったのはつい最近のこと、なんのためにその場に呼ばれるか、なんのためにその場にいるか、それがわかるとき本当の意味で力を発揮できる。

 

洞察力も、言語化のちからも、こみあげてくる愛情のかたまりみたいなものも、全部、目の前のひとがもっと幸せになるように使わなければ意味がない。

何もかもをわかったとしても、いろんなことを把握できたとしても、それを目の前のひとを傷つけることに、目の前のひとの足を引っ張ることに使うのだとしたら、それは意味がない。

目の前のひとの感情が自分の一言によって揺れ動くのは面白いかもしれないけれど、でも、意味がない。

 

目の前のひとに愛をもって、今の自分がみえる範囲の限りのことを伝える。そしてその伝えた先にまた広がる景色をお互いの言葉でより詳細に描いていく。その工程ってどうしてこんなにワクワクしてしまうんだろうって、昨日、どうしても会いたかったひとと話をしながら思った。

そしてどうしても会いたいとあんなに思っていた感情さえ今は落ち着いているので、本当にお役目というのがあるのだろうなと思う。掻き立てられるようにして、黙って座っていることができずについ駆け出して、つい会いにいって、初めて会ったのにまるで裸で向き合う。言葉を紡ぐ。

その紡いだ糸は、コミュニケーションによって織られていき、気づけばひとつの大きな大きな布になって場を包み込む。その布は、中島みゆきの歌にあるように、誰かを包んだり励ましたりする。色が変わっても、形が変わっても、匂いが違くても、その布はなくならない。

 

もっともっと誠実に在りたい。もっともっとそのままで在りたい。

もっともっと今この瞬間に立っていたい。もっともっと本当で在りたい。

もっともっと強く在りたい。もっともっと弱く在りたい。

もっともっとそのままで、もっともっと駆け出していきたい。

もっともっと広い世界を見渡して、もっともっと誰かと出会いたい。

 

まだまだ、かっちょ悪いけど、男も女も超越してひとりの人間として誰かと接することさえできないけれど、すぐ好きになってなんだかやっぱり苦しいけど、それは、それ。これはこれ。

 

4年間し続けた選択から一歩のいて、初めてとった新しい選択肢は、まるで2017年全部の時間へのご褒美のような時間をくれた。

「感性のままにいけ」という、信頼するひとの言葉がまだ耳にのこってる。

感性のままにいこう、2018は、爆走!だね。ありがとう。

 

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これわたしの顔はおぶすだけれども、この絵は本当に美しかった。

額を当てたときに「もっと走れ、もっとそのままで走り抜けろ」と言われた気がしたよ。

もっともっと走る。生き方ぜんぶが発信で、生き方ぜんぶが表現だ。