「ブログを1000記事書いたら奇跡が起きるよ」
その言葉が本当かを確かめるための過程の記録

家族は「あんまさい」だけじゃないから

飛行機にのって、北海道から愛知に帰る。

2泊3日の家族旅行だった、3日とも晴れて、おいしいものをたくさん食べ、でっかいどー!な北海道をいっぱい感じて面白い時間だった。

この旅は、おじいちゃんおばあちゃんが「大学卒業お祝い」ということでプレゼントしてくれたもの。

どこまでも恵まれている孫である。大学もいかせてもらって、沖縄で一人暮らしもさせてもらい、半年留年したのに卒業までお祝いしてもらってる。

 

とはいうものの、だいたい家族って「あんまさい」のだ。

ということに直面する2泊3日だった。

 

あんまさいは沖縄の方言で「めっちゃ面倒でうざい」みたいな意味だったはず。

大学に入ったばかりの頃、3つか4つ上の先輩がとても面白いひとで何を考えてるか良い意味で想像できなかったので、めっちゃくちゃな絡み方をしたことがよくあった。

そのときに「まさい」と言われて、マサイ?となったけれど、まさいの意味も親切に教えてもらった。(別のひとが教えてくれた)

 

あんはveryの意味だから、あんまさいは、そういうこと。 

なんだけど、この「あんまさい」ってなんだかめっちゃ嫌いとかそういう意味ではないみたいだ。

 

あんまさいのだ、おじいちゃんとおばあちゃんに両耳から同時に同じことを指摘されたり。

ジェネレーションギャップで、相手の知ってる仕組みとこちらの知っている仕組みが違って、誤解がもとで叱られたり。

しかも田舎のひとなのでときどき言葉もきつい。

 

でも、それって相手からしたら私も同じこと。

 

へらへらしてて、何が面白いのかわからないけど終始笑っていて、喋っていて。

気分にムラがあって、疲れるとむすっとした顔をして。

自分の知ってることを親切に教えても「それちがう」とわざわざ口を挟んできたりして。

 

年の近いお姉ちゃんと自分との間だって「あんまさい」に溢れている。

 

でも、あんまさいだから「嫌い」なわけではやっぱりないんだよ。

 

あんまさいって愛おしい言葉なのだ。

なんか、そういうことを思った。

移住した自分の解釈によるところなのかもしれないけどね。

「うざい」ではないという微妙な感覚の話。

(だけど、もしかしたら沖縄では本当は「うざ!」という意味かもしれない・・・けど・・・)

 

家族は「あんまさい」けど、その繋がりって本当にすごいこと。

どれくらいすごいかっていうと、北海道ぐらいすごい。

北海道の大きな大きな山とか、色が何色あるんだろうっていうような美しい湖とか、かっこよく飛ぶ鶴のつがいとか、木ばっかりのところを開いて開拓していった昔のひとたちとか。

それくらいすごいこと。

 

血の繋がりによって、いろんなひとが苦しんで、難しい顔をしてる。

でも、その繋がりを断ち切って生きることって実は簡単。

それをせずに生きることって、やっぱりどこまでいっても「あんまさい」のだけれども、とても尊いものだ。

そして、ありがたいものだ。

 

喧嘩もするし、泣きたくなる日もある。

誤解されてわかってもらえないことがあれば地団駄だってふみたくなる。どんどどんどんどん。

 

でも、ずっとずっと大昔、ひいおじいさまやひいおばあさま、その前の前の前のご先祖様たちからずっと続いているこの血は、一見しがらみのように見えるけれども、そうじゃない。

「あんまさい」けど好きなのだ。

あんまさいから、好きなのだ。

 

わかってもらえなくても、わかってあげられなくても、好きでいていい。

好きになれないところがあって、平手打ちしたくなる衝動にかられても、別にいい。

 

大事なのは、自分の気持ちをなるべく静かに見つめて、わざと相手を傷つけないことだ。

正しさを武器にして、相手を刺さないこと。

もしも、そういうことしてしまったら、ちゃんと謝って、好きだというのを伝えてみることだ。

 

こんがらがっちゃってもうどうしようもなくなって切ってしまった縁もある。

だけれども、それも、たぶん、いつか結べる。

 

今できてること、どれも5年前には想像できなかったこと。

だから、今想像できなくても、5年後には、もうすでに、びっくりする未来がやっぱり在るんだろう。

 

(「あんまさい」けど)大好きだよ、が今の自分の等身大で、その等身大は一見とんでもないようで、実はよい「家族」のかたちに見えてる。

このお家に生まれてよかったと、そう思ってる。いっぱいの繋がりに、ありがとう。

 

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最後の日だけさむかったよ。