「ブログを1000記事書いたら奇跡が起きるよ」
その言葉が本当かを確かめるための過程の記録

「はら」と「あたま」と「言葉と共に届く感情」のこと

 

ビーズをひとつひとつ通してピアスをつくった。

おととい1つ目をつくり、昨夜ねむれなかったのでもう片方も完成させた。

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もうビーズ欲はおさまり、歌欲もおさまったので、紅茶のみつつ書き起こし。でもなんだかちょっと一息つきたくてフェイスブックをぱらぱらと。二人のひとの文章が胸に響いた。

 

ひとつめは坂爪圭吾さん。

 

わたしがブログを書く理由、わたしがおはなを配る理由、わたしが予測不可能性に賭ける理由、多分、それは「そこから発生するコミュニケーションを楽しみたいから」なのだと思う。10個の偽物より、ひとつの本物を持ちたいと思う。

10個の偽物より、ひとつの本物を。 - いばや通信

わたしは、このブログを通じて「わたしはこういう人間です」ということを綴る。そして、自分が自分であることを面白がってくれるひととの間に発生するコミュニケーションを糧に、やれ「峠の坂道が厳しい」だの「汗が冷えて凍える」だの「宿がなくて死んじゃう」だの「そろそろナッツ類がなくなりそう」だの時折グハグハ悶えながら、生きていく【押し寄せていく】のだろうなと思う。

10個の偽物より、ひとつの本物を。 - いばや通信

 

坂爪さんに「嘘をついてるよ」「はらからの声じゃない」と言われたのはいつだったか、すごく前だったけど、まだ暑かったときだからけっこう前。

そこから「これは嘘か?どうか?」という的外れな考え事をし始め、それを終えたあと、わたしはまっすぐに立てるようになった。

こないだ偶然が重なって連絡してみたけど、お礼をいうのもなんだか違う気がしてしまって言えなかった。いつかまたばったり出会えたときに何か美味しいものをこっそり渡したい。こっそり。

 

「はらからの声」ではないとき、そこに混じるのはなんなんだろう。

今でもわからない。でも、「はら」なのか「あたま」なのかを考えるようになってから、声には感情が本当に水彩絵の具で色を重ねるのと似た感覚で感情がのっていることに気づき、それについて敏感になった。

 

こないだ身近なひとから、悪意といったら大げさだけれどもそれに近い何かがのった声で、わたしのカラーセラピーについて聞かれた。とっさに70名近いお客さんと出会って来たことを畳み掛けたくなる衝動にかられたけれども、「理解してほしい」「わかってほしい」「誤解してほしくない」「否定しないでほしい」という出発点から話をするのはしたくないと思って口をつぐんだ。

 

前の自分だったら、ニコニコしながら言い返していたんだろうと思う。

でも、その声にも、ただの説明ではない感情がのっている。だから、言い返さない自分になれたのが少し嬉しかった。

 

羨ましさがのせられた言葉、恨みがのせられた言葉、愛がほんのりと隠れている言葉、いろんな言葉が口と口を行き交う。今打っている文章だって指先から離れていけば誰かのもとへ向かう。

 

あのときいただいた「はら」「あたま」の視点は、わたしの人生に大切な教えだったなと、そう振り返った夜だった。

 

ふたつめは社会学の野入直美先生。

(フェイスブックは全体公開だったのでスクショで拝借。)

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なんだか胸が震えてあったかくなった。

今やれることをやる、それがきっと5年後10年後につながっていく。

 

沖縄を離れて一週間がたった。

あと6時間もすれば北海道に向けて出発する。

離れれば離れるほど、今なにがしたいのか、本当はどうしたいのかがよく見える。

ず〜〜〜っと働いてたらわからなかった。

これがきっと最後の「日常」を共有できる時間だろうと思いながら祖父母と過ごしてる。

あのとき「2泊3日とかじゃなくてなが〜くかえっておいで」と言ってくれてありがとうと、何回も思う、言う。

 

この家に生まれてよかった、この家庭環境でよかった、と思う。

わたしの生き方のルーツには血筋とかいろんなものがあって、いろんなひとの思い、くるしさ、よろこびが螺旋状につながってわたしのとこまできてる。

それがへそのおのように見えるひともいるだろうし、鎖のように見えるひともいるだろうし。

でも今はそれがなんかよろこびに見えてるので、うれしい。

 

その「うれしい」は軽やかなものではないけれど、でも、うれしいことには違いない。

ぐんぐん。