「ブログを1000記事書いたら奇跡が起きるよ」
その言葉が本当かを確かめるための過程の記録

血のつながり、血ではないつながり。

今日は、わたしの人生を変えてくれた大人のひとりであるひとのお家で、その子どもたち3人とお留守番。

頼まれたのは、昨日かな、とても嬉しかった。

ああ信頼されているんだなぁと、子どもたちとの関係性みたいなところと、お家のなかに入れるところ。

 

いっぱい一緒にはしゃいで、夜中にジュース買いに行ったりして、そいで今やっと電気を消したところ。

ほんとに心根の良い子どもたち。

お互いに支えあって3人で、喧嘩もするけど、連携プレーがさえてる。

ごはんつくるところから、片付けから、寝る準備まで。

 

わたしがいるからといって気をつかうわけでもなく、かといって無視するわけでもなく。

居心地の良い時間を過ごさせてもらった。

(お風呂までいれてくれて、からだが今もぽかぽかしてる。)

 

 

血のつながり。

血ではないつながり。

 

そのどちらもに助けられて今のわたしがいる。

 

14歳で家を飛び出しちゃって、そのあと助けてくれたのは血のつながりではないひと。

その2年後には、血の繋がりによって、とても返せないほどの応援をもらった。

 

もちろん、その間も、たえず支えてくれようとした学校の先生たちや先輩後輩、友人たち。

 

どれかが欠けてたら、どこかの言葉がなかったら、今の自分はいない。

それって、なんだかとてもすごいことで、これはきっとみんなそうなんだろうと思う。

 

 

前に、こういう風になりたいというのを言語化した。

 

www.pidakaparuna.space

 

今、いつも思うのは、今かかわっている10年くらい歳が離れているこのひとたちが、遠慮なく頼ってくれるひとになりたいということ。

超わかりやすく言えば「お金ちょうだい」っていってもらえるような。

「死にたい」って話してもらえるような。

「ここに行ってみたいんだ、これがやりたいんだ」って語ってもらえるような。

 

そんなひとで、関係性でありたい。

 

自分のこどもが授かれても授かれなくてもどちらでもいい。

愛情を傾けられる先はたくさんあって、それはひとの形をしていなくてもいい。

 

自然にも、食べ物にも、環境にも、大地にも。

わたしの愛情はいくらでも注げるのだ、ということをときどき感じて、すごく嬉しくなる。

 

 

血のつながり。

血ではないつながり。

 

そのどちらにも助けられ、傷つけられ、支えられたのは、きっと何か意味があったのだろうと、そう思って今も生きてる。

 

 

家族をつくる、ひとりのパートナーのひとを愛する。

それもとっても素敵なこと。

 

だけど、しっくりきてないなら仕方ない。

 

しっくりくる「家族」に出会えるといい。

いま、大切だとおもうひとたちを、ちゃんと大切にしきれるといい。

 

できるだろうけど!

 

血のつながりが本当に大切なものだと知っているから、血のつながりではないつながりがとても尊いと教えてもらったから、だからきっと、みれるものがあるはずだと、いつだってそう思ってる。

 

なんども言葉にして、なんどもひとに伝えて、なんどもひとりで考えて。

きっと、できるはずだと、きっとなにかあるはずだと、そう思いながら、子どもと並んで眠る。

 

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自分の子どもでも、自分の子どもじゃなくても。