ぼんやりと夏の終わりを感じながら、歩く。
ゆるやかに空の色が変わっていく様子に心が踊る。
大切な人の旅立ちの日にちを知ると、その人と今当たり前に過ごせる時間があたたかいものに変わる。別に、普段一緒にいるひとだっていつどこへ行くかもわからないのに、「知る」だけで意識が変わる。
ずっと当たり前に日常が続くことへの執着が強いなと自分を見下ろす。
でも、それが悪いことなわけではないなと見つめ直す。
大切な人に「大切だ」と伝える。
好きな人に「好きだ」と伝える。
伝えて何かしたいわけでも、伝えることで何かになれと思うわけでもなく、ただ伝える。
すべての出来事、出会いには意味があって、あまりにも意味がありすぎるものしかないので、その意味を探すことは一周して無意味だなと思う。そのなかでもやっぱり、人との出会いは格別に意味が強く、その意味は無意味とも思えるほどの量のメッセージのなかでとりわけ強く人生を揺らす。
あのタイミングであの人に出会えなければ。
あのタイミングであの場所に出会えなければ。
まちがいなく今の自分はここにいない。こんな自分にはなれていない。そう思わせる出会いがある。それはポジティブな出会いだけではなく、ネガティブなものもある。
全く好きではないひとに体を触られた経験のあとに、好きな人に体を触れられることの幸せを知るように。湯水のように与えられるお金を使ったのちに困窮し、何もかも無くした後、やっと積み重ねることの重要さを知るように。
自分とは違う考え方で自分の身体や表情や仕草を「記号」として捉え行動するひとがいることを知る。その一方で、自分の考えや感じ方を慮りコミュニケーションを取ってくれるひとがいることを知る。
反対のようにみえる出来事はどれも、大切なことを教えてくれる。
意味のないものなんてなくて、でもあまりにも無意味なものがないので、意味を掘り下げることのほうが無意味なように思える。
そのままをただそのままで受け取る。
言葉も、経験も、出会いも、奇跡も、メッセージも、失敗も、成功も。
今この瞬間にも、所狭しといくつもの未来が浮かぶ。
同じように、ぎゅうぎゅうと過去も浮かぶ。
今の生き方次第で、感じ方次第で、考え方次第で、それに即した未来が選ばれ、それに沿うような過去が選ばれる。過去も未来も出来事への解釈でしかなく、その解釈が変わっていくようなイメージだ。
だからこそ、今を信頼して身を委ねたとき、こんなにも生きていることは嬉しいのだろうと思う。そして、その状態にあるとき、人からの声は選んだものしか耳に入らない。誰に傷つけられるかさえも自分が選べる。誰かからの声で傷つくのだとしたら、それは自分が自分の自分への思いや仮定によって傷ついているだけのこと。
その枠の中から一歩出れば、本当に自由な景色が広がっている。
信頼して身を委ねることを知るために、今まではきっと一度全てを握りしめ抱え込み呻くような「反対」を知らなければならなかった。
でも、もうそういう時代は終わり始めているし、実際もう終わったのだと思う。
これから先は、勝手に自由になり、勝手に幸せになる時代なのだと、そういうことを思う日だった。
そして、それを思わせてくれる大切な出会いに感謝しながら、わたしはわたしらしく在ろうと思う間も無くわたしでしか在れないのだという当たり前のことを実感する日でもあった。
良い日だった。ありがとうと思う日だった。