「ブログを1000記事書いたら奇跡が起きるよ」
その言葉が本当かを確かめるための過程の記録

一日ふり〜DAYだった

「発信は研究発表と思ったらいいよ」という言葉をFacebookの誰かのシェアでぼんやりと見た。

 

少し何かが腑に落ちたような気がする。今、ブログを読んでくれているひとはほとんどが知っているひとか、知っているひとの知っているひと。(のようだ。)でも、収入につながっている記事はどれも検索から来てくれた「知らないひと」が読んで買っていってくれている。だから本当は、もっとお金を稼ごう!と思ったら、そういう記事をいくつも増やしていったらいいのだけれど、なぜかできない。この「なぜかできない」は曲者で、とても厄介なものだ。だけれども、実は至極まっとうな感覚で、ただ単にやりたくないだけ。

 

でも、それでいい。

それがわかれただけでも、500回近くブログを更新してみてよかったなと思う。

そして、そこからがスタートなのだろうともなんとなく思う。

 

「いつ考えているの?」と、近しいひとから質問され、少し考えた。いつ考えているのだろう。というよりも、考えていない時間があるのだろうか。ない気がした。あるとすれば眠っている間と、ひとと話している間、これを書いている間、わたしは考え事をしていない。つまりアウトプットをしている時間だ。アウトプットをしている時間は何も考えていないみたい。それも当然のこと、食べながら吐くことはできないし、起きながら眠ることもできないし、歩きながら止まることもできない。

 

しばらく前に「お前の発信が尖りすぎていないか確かめる方法は簡単だ」と叔父に習った。「童話を考えてみろ、誰も傷つかない童話が書けるか」そう聞かれて、そのタイミングは4月ごろだったと思うけれども、とてもじゃないけれどそんな優しいものは書けそうにない発信ばかりしていた。こうあるべきではないか、こうしないといけないのではないか、そういう硬さを持った価値観を自分のなかにあることを確かめ、そしてそれを破壊するためにそれを言語化するというよくわからないプロセスを経ていた時期だったからだ。

(だから、どんな発信も無駄ではないと思う。失敗はあれど、それも全て情報として非常に価値があるので、それらの失敗は決して収穫ゼロとはいえない。)

 

今わたしが童話を考えるとしたらどんなものだろう。

とてもふわふわとしていて捉えどころのないメッセージばかりになってしまうような気がする。ただ生きているだけでいいを22年間の人生のなかでこれだけ感じさせもらっている時期は初めてだからだ。今まで出会ったいろいろな愛のあるひととの思い出を、お仕事へと向かう行き帰りの時間に振り返り、浸る。あのときこう言ってくれた、あのときこうメールが来て本当に絵を描いてプレゼントしてくれた、あのときあそこへ連れていってもらった、「あなたは何も悪くない」と言ってくれた。

 

すご~く前、まだ大学の近くで働いていた頃に「してもらってばかりだな」というようなことを(おそらく)皮肉で言われた。そのときは「がちょびーん」となった。がちょびーん。びっくりしてがっかりして落ち込むを一言で表してくれる便利な言葉だよね。そう、がちょびーんだった。でも今はそう思わない。たぶんニコニコしながら「本当にねぇ。」と笑ってしまう。あのときは、ちょっと引きつりながら「そんなことないですよ」とお返事した気がする。いや、そんなことあるだろとしかツッコめない。

 

もっともっと昔は「してもらうこと」が大好きで、そうしてもらえるように振る舞い、動くことが自然と癖になっていた。そんなの振り返れば3歳の頃からそうだった。だから「よろこび」だとか「うれしさ」を表現することには長けていたし、それは全然悪いことじゃないと思う、周りのひとも嬉しくなるからだ。純粋だったかと振り返ればNOだけれども。純粋じゃなさすぎるものって一周して純粋だと思うので、これもまた別にいい。そうしないと生きていけなかっただろうと思うし、そうすることでしか生きられなかった時期というのが人生のなかにあってよかったと思っている。

(だから、子どもが子どもだと思ったこともないし、純粋なもの、完全なものとして子どもを見たこともない。みんなひとりひとりの人間で、あのちっこい身体いっぱいで考え感じて動いていることをもっと大人は尊重するべきだと今でも思う。これは親にならないと変わらない価値観かもしれないね。)

 

話したかったこととそれちゃった。

そう、今は空気を吸って吐くように「してもらうこと」だらけのなかに生きていて、それは「してもらうこと」が大好きだったときにもらっていたそれと少し色味がことなっている、いや物質そのものが異なっているような気がしてる。そこにもともとあるのに、さらに欲しがって手に入れたそれと、そこにもともとあるを味わい尽くすのとでは天と地ほどの差があるみたいだ。そこまでじゃないかも。

 

そして、それはカラーセラピーで会いに来てくれるお客さんたちもみんなそうで、みんな自分が何か豊かなもののシャワーを浴びて生きている感覚があるよう。もしかしたら、そういうものを感じているひとが周りにたくさんいるのかもしれない。そしてそれは「ない」と思っていたあの頃や、「ほしい」と喉から手が出るほど思っていたあの頃の経験があるからこそ感じられる温度なのかもしれない。

 

だから、どの経験もよかっただなんて、どの経験もしたくてしてるなんてありきたりな言葉をお客さんにかけることも、周りにいるひとに届けることもしない。それが終わるのをただ待とうと、じっくりと腰を据えて目の前のことをやり終えようということを伝えている。振り返らなければ「その経験はしたくてしたんだね」という会話はできない。わたしだって今も何かの渦中にいる。それに対して「したくてしてる」だなんて思えない、思わない。それでいい。

 

だからこそ、「今」を生きる価値があるし、その先にきっとその今を喜んでくれる自分との会話が待っている。

 

そしてこの「今」を生き切る連続の先に、描いている社会を生きている自分がいる。最近の暮らしでより鮮明になっているキーワードは、居場所、まちづくり、広義的な意味でのユニバーサルデザイン、誰もが皆当事者であること、政治、自立的経済、愛すること(フロムの)、音楽、色、はたらくこと。

 

結局、これらのキーワードというのは3歳の頃からほとんど変化していない、あの頃関心をもち、大人に話を聞き、本を読み始め、小学生の頃から学んだ知識的なものとそれらのタネが融合し、さらに水をやるためにしんどい経験をわざわざし、愛知へ移り祖父母と1年間暮らし世代を超えたコミュニケーションについて考えたり、姉と1年暮らし、ときどき一人で暮らし「生活」を考えたり、そこから沖縄にきて、いくつか芽を出し始めたタネもあれば、まだ音沙汰のないタネもいて、というような。

 

なんにせよ、いつ花を咲かすかわからないタネばかりだけれど、いつか咲くからタネとして持っている。

(この信頼感は、朝見た新聞の広告の本の話がその日に会話で出るとか、チラ見した雑誌のインタビューのひとの話が会話で出るとか、よくわからない偶然によって場を切り抜けられた経験からきてる、ちっこくめんこい信頼感。)

3歳から興味関心の矛先がぶれていないというのは自分としては面白く、「うつろいやすい」ことをよくいじられるけれども根本的にはそうじゃないんだよなぁと心の中で言い返している。表面をみたら言い返せないようなやり散らかし方なので仕方ないとも思ってる。

 

どの活動も、これらのキーワードにつながっている。きっとこれからもそうなのだろうと想像する。

ひとと話していると、特にカラーセラピーのお客さんと話していると、それらの点が繋がって一箇所へと向かう様が見えたりするが、自分のこととなるとなんだか「我」が強くてなかなかうまく見えない。人の力を借りなさいということだね。

 

なんにせよ、まだまだ人生中盤にもさしかかっていないくらい。24時間に例えれば、身支度を終え出かける場所を目指す途中くらい。何歳で死ぬかはわからないけれど、今は今の暮らしを楽しもうと思いつつも、なんだかだんだんと心の奥の方から沸々とした何かがくるのを感じているので、もうちょっとアンテナ広げてみようと思う久しぶりの一日ふり~DAYなのでした。

 

一日ふり~DAYって大事だね。

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次のお休みは、ローケーキ食べにいきたいなぁ。