「ブログを1000記事書いたら奇跡が起きるよ」
その言葉が本当かを確かめるための過程の記録

こわいまま生きる。

「自分に嘘をつかないこと」

そして、「訪れる出来事をそのまま受け止めること」

それを沖縄のさきっちょで二人の人生の先輩から教えてもらった。

海にぷかぷか浮かびながら、空に描かれた大きな虹を眺めながら「こわいなぁ」と思った。

 

7月はPortland直伝まちづくりワークショップをはじめ、×Googleのデジタルマーケティング講義のプレゼンづくりや、今回のお泊まりと、「良質」なインプットの時間が多かった。

こないだ書いたこの記事のできごとも7月。

 

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面白い情報や、やり方が自分のなかに生きた知識として吸収されると共に、放っておいて見ないふりをしていた想いと向き合う日々が続いた。

イベントの連続で、つまりアウトプットの連続でハイだった6月に比べ、7月はなんだかあっという間に過ぎてしまった気がしてる。

 

放っておいて見ないふりをしていた想いというのは、なんていうかやっぱりどこまでいっても自分自身について。

そしてそこにいろいろな材料がくっついてめんどくさい考え事になっていたものを、いろんな大人がひっぺがしてくれたような感じ。

ひっぺがされたあとにのこった感情は割と素直で、かつ単純、とてもシンプルなものだった。

 

何人もの大人との会話のなかで、耳のなかにのこる言葉がある。

「生きる」ことについてのもの。

「仕事」についてのもの。

「住処」についてのもの。

「感性」や「表現」について。

そういった類のことに意識が向いている。

 

くるくると言葉が踊るまんなかで、ひとり裸で立っているような時期だった。

うまく言葉にできなくて、言葉にできない自分を面白がりながら、でもどこかひどく寂しかった。

 

いろんな大人のなかに、父をみて、母をみて、祖父をみて、祖母をみて、姉をみて、妹をみる。

それは自分の家族という意味ではなくて、単純に役割としての名前として。

ひとのなかにはこれだけ様々な面があるのかとドキドキする。

 

さっきまで父親の顔をして笑ったひとが、今は男のひとの顔をする。

さっきまでは妹だった彼女が、今はまるでお母さんのような役割をこなす。

 

それをただただ観察しているわたしは、やっぱりなんだか大きな輪から外れている気がして、少し居心地が悪かった。

 

海に浮かびながら感じた「こわい」というきもちは一体なんだったんだろう。

大きすぎる海がこわかったし、はじめて海に触れた日のことを覚えていないのもなんだかこわく感じる原因だと、久しぶりの海にびびっていたくせにお母さんに抱かれ次第に慣れたあとは、泣いていたことなど忘れてきゃっきゃとはしゃぐ2歳を見て思った。

 

海はなんだか大きすぎるんだよなぁ。

そして、いろんなものがいすぎる。

 

ぷかぷかと浮かびながら「こわいなぁ」と言ったら、耳に自分の声が水と響いて不思議な感じだった。

 

みんななんでもできる。

みんななにもできない。

 

海はこわいけど、こわがったままでいたら、大人のひとが話してくれたような宇宙みたいな景色は眺められないまま。

大きな大きな回遊する魚をしたから見るなんてとても綺麗だろうなと思ったけど、少しでもスポットがずれたら船に拾ってもらえないと聞いて、お腹がひゅんっとなった。

 

たぶん、生への執着が強いんだろうと思う。

自分なんぞが生かされていることにとまどい、でも死ぬのは嫌だと思ってる。

そういうめんどくさい自分がいる。

 

でも、こうやって文章にして、今の自分のある一部分を可視化するだけでも、だいぶ。

まあめんどくさいけど、それはそれでいいんじゃない、というような気分になる。

 

きっとたぶんおそらく、癒し終わるということはないんだろうと思う。

それは道ですれ違うひとみんなそうなんだと思う。

それぞれにはそれぞれの苦しみがあり、それぞれの喜びがある。

 

ひとの数だけ生き方がある。

まちの数だけ在り方もある。

 

きっと大丈夫だ、そう思う。

でも、やっぱりこわい、そうとも思う。

 

だけど、とはいえ、こわいまま立ち止まって、そのまま年をとるのは性分に合わない。

転びながら、かさぶたつくりながら、めんどくさい自分に茶々をいれつつ進む。

そのなかで、またどこかで、海からのぼっていく太陽を眺めてつい手をあわせる瞬間がくる。

 

「自分に嘘をつかない」は、今のわたしに当てはめてみるとすごく単純な話だった。

わたしはこれから生きていくのが、何にも所属しない期間を迎えるのが、周りのすごいひととは違うのが、そういうのがこわい。

子どもを身ごもるか身ごもらないかわからないのもこわいし、今のパートナーと離れるのもこわい。

生きていくために必要な稼ぎをちゃんと得ていけるかもこわいし、気づかぬうちに遠くにいきすぎて友達がいなくなっていたらとも怖い。

 

でも、そんないろいろこわい自分がめんどくさいけど、大切と思う。

それはなんだか、去年の自分にはなかった感覚で、そのちいさな感覚だけがあたたかい。

 

そのあたたかな感覚を思い出すために、わざわざいくつかの失敗を手に入れたのだとしたら、それもなんだかあほくさくて、ちょっと笑えた。

 

こわいまま、わたしはじゅうぶんに生きている。

こわいまま、わたしはじゅうぶんに生かされている。

 

こわがりだからこそ、たぶん、そのこわがりを超えて「つい」やってしまうことに意味を見いだせる。

 

こわいまま、生きよう。

 

そう思う7月だった。まだ、少しある7月のうちにいろいろなことに片をつけようと思ってる。

読んでくれてありがとう。

 

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8月がたのしみ。