「ブログを1000記事書いたら奇跡が起きるよ」
その言葉が本当かを確かめるための過程の記録

許さなくていい。

ああ嫌だわと思うとき。

そう思う時に、これからはこうしようって思えたことが今日あったので書き残しておこうと思います。

この記事は、特定の誰かを批判するために書いたわけじゃないです。

超自己内省の記事!

って、いっぱい注意書き書くと逆にうさんくさくなるよね。笑

どっちでもいい〜〜!

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たとえばわたしのなかで根強く残っているのは、自分が立って嬉しくて嬉しくてもう幸せの塊!みたいな舞台に対してケチをつけられたときに、本当にはらわた煮え繰りかえるとはこのことか!ということがわかった経験。

去年の話。

 

これ、誰に話してもどんなに共感してもらっても、なかなか解放できないねづよ~~い憤り。

今でも思い出すと、一回ひっぱたかしてください、となるくらい。

 

でもね。

これ、なんでこんなにひきづってるかって。わりと簡単。

 

許そうとした時間が長かったから。

 

ああ嫌だわって思ったのに「いやいやでもお世話になったし」「こんなによくしてもらったし」「そんなこと思っちゃダメだ」

そういう言葉で自分の感情に蓋をした上に漬物石100個くらいのせちゃった。

 

だから、なかで感情が腐ったんです、たぶん。

 

まだ怒ってる、怒ってる自分のこと呆れてる。

 

中途半端にゆるしたふりをして腐らせたから、相手からしてもわけわからなかっただろうな~と思ってる。

(なんでかわかんないけど友達申請きて、秒で削除したのが半年前くらい)

 

いやいやもう本当にこれ厄介で。

 

でね、掘り下げてみると「信じられない」「意味わかんない」「よくできるなそんなこと」な感じの経験だったんですよね。

 

だけど、これさ~~~~。

わたしもしょっちゅうやらかしてるんですよ。

 

棚上げして何いっちゃってんのな感じのことなんですよ。

 

でも、でも、でも、許せないんですよ。

嫌い!!!で体がいっぱいになるし、よくわかんないけどそれ思い出すと目の前のことサクサク進むいいチャッカマンみたいな感じ。

 

何が書きたかったんだっけ。

 

そう、で、この話、ぶった切るの簡単な内容でもある。

どう考えても相手が悪いし、今まで話したひと全員、どの年代のひとも「いや、相手ありえないね」と言ってくれたような内容。

 

お前が悪い!

と断罪するの、簡単なんです。

 

でもね。

今日、なんかバス停でぼんやり考えてたら考えがそこに至ったんだけど、結局はこれ、断罪したって仕方ないこと。

 

「お前が悪い」

を、論理的に説明してコテンパンにして、なんなら平手打ちして、土下座して謝ってもらったって。

 

わたしは何もそのひとに対する感情かわらないし、なんならたぶんもっと怒りはエスカレートするだろうと思うわけです。

 

でね。

なんていうか、まず大事なのは「怒る」こと。

ちゃんと最初で怒っておけば、こんなに記憶にのこらなかった。

 

そして次に、どうして怒ってるのかを紐解くこと。

わたしは信頼していただけにとても「悲しかった」んですよね。

そして、あることないこというんだろうな~と「想像」してさらに落ち込み、、、。

という感じだった。

 

ほいで、最後に。

こないだ書いた自己責任論に関する記事と言いたいことは似てるんだけど。

誰かを責めるってことはやっぱり、自分が責められることを許可することで。

 

自分を「正義」側に置くことって、自分が誰かの「正義」によって罰されることにOKを出すのと同じこと。

 

そして、それって、めっちゃしんどい。

だって人の数だけ正義がある。

だから、もうそこの土俵にはあがりたくない、これからの人生の間、ずっと。

 

だからね、だから、たぶん。

本当はね、怒ってよかった。悲しんでよかった。

 

そして、それに対して「わたしは」を主語において、もっともっと考えればよかった。

 

今ね、ここまで至れて、ようやくちょっと胸がスッとしています。

 

わたしは嫌だった、あれをされて。

 

そして、わたしは人にそういうことをしないし、してしまったらちゃんと謝る。

 

そう決めて、そしたらなんかようやく、本当にようやく、「まっ いっか」と言える気分になりました。

もちろん腐らしちゃったから100パーセントじゃないけどね。

 

だけど、めちゃきもち楽になった!

だって、だって、自分はどうしたいかが決められたし、「棚上げして何いっちゃてんの」争いも終了。

棚上げしてると思ってる自分の今までの失敗は、それらひとつひとつと向き合えばいいわけで、自分を責める材料にわざわざ持ってこなくていいわけです。

(うまく説明できてないかな・・・?)

 

そして、この経験でわたしが体験したかったのは「謝られる」ことではなく、「自分はどうありたいのか」を深めることだった。

 

つまり相手はただただ面白い材料をくれた、という結果です。

 

これわたしにとって難しいのが、年下のひとに腹が立ったことってなくて、もうALL年上の、しかも同性のひとなんですよね。

確実に自分への「聖人君子欲」が強いせいだなと思うけど、これについてはまた今度整理します。

 

自己責任論の記事、地味に反響があったので、もしよかったら読んでね!

www.pidakaparuna.space

 

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