「ブログを1000記事書いたら奇跡が起きるよ」
その言葉が本当かを確かめるための過程の記録

何を選んでも大丈夫。視点をかえてしまえば、どれもきっと。

一日のなか、別のひとから二度「視点を変えると?」という話を聞く機会があった。

これはたぶん何かのメッセージだろうと思いながら二度目の話は聞いていた。

 

一人目のひとの話は、「昼間に草原とかでセックスをすると」というわりと衝撃的な始まりだったんだけど、よくよく聞いてみると、とても面白く、たしかにと頷いてしまう話だった。

 

人間のルールなんて、日本人のルールなんて、ただただ人間が、日本人が決めただけ。

 

それが一人目のひとが教えてくれたこと。

 

大きなコンクリートの防波堤にスプレーで絵を描くことは法を犯す行為かもしれない。

でも、小さいバッタからしたら目の前のコンクリートの塊なんてゴミでしかなくて、たとえスプレーによって描かれた絵があろうとなかろうと、ゴミはゴミだ。

 

そんな可笑しい例えのなかに、なんだかきらりと本当のことが隠れていた気がして面白かった。

 

 

二人目のひとが話してくれた内容は、話した時間が違うのもあるんだけれど一人目のひとよりも長かった。

 

それは「確信、信頼、委ねること」についての話だった。

 

そのひとは自然をとても愛し、自然とともに生き、自然の中でよく笑うひと。

 

その話のなかにはとても大切なことがいくつかあった。

 

自然を愛し始めたのは小さい頃からで、自分が自然に対して手を加え、自然が喜びを返してくれる関係を今も感じていると。

自然に触れている時間がとても好きなんだと話してくれた。

 

そして、その時間、「自然」というものはいつも最善で、晴れていても嵐でいてもどんな結果も最善のこととして心の底から受け止められるという。

 

その話題のあとに、少し会話が弾み、「進路」の話になった。

話をしてくれたひとはわたしよりも年齢が上の、いわば人生の先輩。

 

「今振り返ってみると、どっちを選んでも同じことだったなって思うんだ」

そういって笑うのを、美しいなぁと思いながら見てた。

 

好き嫌いの軸、損得の軸、いろんな軸をつかって道を選ぶ。

でも、どんな軸で選んでも、何を基準に選んでも、もはや本当は「選択肢」なんてものはなくて、どれを選んでも最善にしかならなかっただろうと、そう思う、と。

 

あのとき、なんだか聞いた言葉を忘れたくなくて、背景の景色と一緒に沖縄の夏特有の湿気と一緒に、からだの中にしまった。

 

 

何を選んでも大丈夫。

視点を変えてしまえば、どれもきっと。

 

 

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わたしは今ふわふわと悩んでいて、悩む自分を面白がってさえいる。

 

なんでかわからないけれど、いろいろなニュース、考え事が、少し前にあった出来事や昔にあった出来事をたくさん揺らす。

身体の奥の方に、見つめるのに疲れてしまってしまい込んだその思い出や景色や匂いなんかがわたしをすごく不機嫌にする。

不機嫌になったあとはとてもくたびれて、いつもよりもよく眠る。

 

過去に生きる意味はないと思う。

でも、未来にもきっとないと思う。

 

「どう生きたいか」という質問には答えはなくて、それは「どう生きるか」ということでしかなくて。

 

「生きる」ということについての答えはやっぱり死ぬときにしかでないんだろうと、そういうめんどくさいことを考えてる。

 

昔あった出来事が、今の自分の環境を整えてくれている。

どの色の出来事も一つでもかければ今の自分はいなかった。

 

だからといって、感謝できるわけでもない。

ひとつひとつはやっぱり苦しかった。

 

たぶん、それでいいんだと、今日はそういうことを思う日だった。

 

ちょっとずつだけれど勝手に前に進んでいる。

ひとつひとつ目の前に現れたこと、やりたいと思ったことを形にしよう。

 

その先にきっと、たぶん、もしかすると今もやもやとしていることの答えがあるかもしれないし、ないかもしれない。

 

でも、それでもやっぱり、何かやらずにはいられない。

その衝動性だけ感じられる自分でいられたら、あとのことはもういい。

 

ゆるすとか、ゆるさないとか。

ゆるされたいとか、ゆるしたくないとか。

 

そういうことは、たぶん、もういい。

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