「ブログを1000記事書いたら奇跡が起きるよ」
その言葉が本当かを確かめるための過程の記録

毎朝「その日の性(生き方・価値観・スタンス)」を選択する、自分のために。

「今日はどういう気分?」

 

男の子だと感じれば、ジーンズに足を通す。

だぼだぼのTシャツを頭からすぽんとかぶる。

 

女の子だと感じれば、ワンピースを頭からすぽんとかぶる。

ちゃちゃちゃと髪をととのえ、ときどき口紅も塗る。

 

 

生まれたときから女性の体だった。

 

FtMでもMtFでもないけれど、わたしは自分の精神性が「女性」であるか「男性」であるか判別できないなぁと思っている。

それらの境目は常にふわふわとして、その二色の色の割合は常にめぐるましく変わっているような気がする。

 

でも、体は女性だ。

 

つまり、外からみたらいつだってわたしは「女」である。

 

(誰かからの性的対象である、という意味ではないよ)

(もちろん、それも含むかもしれないけれど)

 

その外敵判断からのがれる術は持たない。

だって、外見をくるっと変えることも、声をずーっとコントロールするのもめんどくさいもん。

 

だけど、「女」であることがときどきひどく気だるく思えることがある。

 

それは、誰かの視点を気にしすぎているというよりは、自分のなかにある様々な価値観などが原因なんだろうとも思う。

でも、同時に、「誰か」のせいであることも事実だよなぁとも思う。

 

ただ「女」であるということに、いろいろなものが付随される。

 

そういうごちゃごちゃとした、誰かが用意したヘンテコな形でなんかちょっとくさい「女」という服を着ることなく、はだかのままで過ごしていたい。

ただの自分のままで生きたい。

 

そんなちっこい葛藤をさっぱりと解消してくれるのが、朝起きて身支度する時に自分が自分にしてくれる問いだ。

 

「今日はどういう気分?」

 

男の子だと感じれば、ジーンズに足を通す。

だぼだぼのTシャツを頭からすぽんとかぶる。

 

女の子だと感じれば、ワンピースを頭からすぽんとかぶる。

ちゃちゃちゃと髪をととのえ、ときどき口紅も塗る。

 

ものの数秒のその問いが、わたしにその日を生きるために必要な「空気」をくれる。

 

「男の子っぽい」格好をしているとき、ときどき言われる。

「今日は手抜きだね。」とか。

 

「女の子っぽい」格好をしているときもときどき言われる。

「かわいいね」とか「似合ってる」とか。

「女子っぽいね」もあった。

 

そういう言葉にもニコニコとして答えられる。

「今日はこっちの気分だったんだ~」の一言ですむ。

 

何を選択するわけでもなく着ている「女」という服を着ているのではなく、自分でその日どう生きるかを決めて朝家を出ている。

 

その身軽さは、同時に、自分から「性別」を基準に物事を分析する癖を取っ払ってくれる。

その癖は、意識して身につけたものではない。

小さい頃から当たり前に接してきた情報、近くにいた大人やテレビや友人たちからインプットされた「性別」についての情報から形成された。

 

「彼」は男性だから、「彼女」は女性だから。

女性にありがちな、男性にありがちな。

あのひとは彼女いるんだろうか、彼氏いるんだろうか。

女だから、母親だから、男だから、父親だから。

 

毎朝のたったひとつの「今日はどういう気分?」という問いが、そういう意味がまるでないメガネを踏んづけて壊してくれる。

 

他でもない自分のなかに、これだけ「男」も「女」もあり、とうにそれらは「女」「男」という言葉では決して形容しきれない「らしさ」であるとわかっているのだから。

 

あとはやっぱり、ちょっとずつちょっとずつ意識して日常を積み重ねることで、そういう癖を溶かしてしまうことだね。

ちょっとずつ、ちょっとずつ。

 

生まれたときから女性の体だった。

 

でも、毎朝自分に尋ねる。

 

「今日はどういう気分?」

 

男の子だと感じれば、ジーンズに足を通す。

だぼだぼのTシャツを頭からすぽんとかぶる。

 

女の子だと感じれば、ワンピースを頭からすぽんとかぶる。

ちゃちゃちゃと髪をととのえ、ときどき口紅も塗る。

 

 

身体的な特徴からばれてしまう「性別」という服は着脱できないかもしれない。

でも、どう生きるかはいつだって自分で選択できる。

 

そして、それは、案外簡単な方法で周囲に表明もできるのだ。

 

何を着るか、化粧をするかしないか、言葉遣い、態度、発信。

 

どう生きたいか、どんな社会がいいか。

 

そんなのまるで自分で決められないように思っていた12歳の自分に教えてあげたい。

 

22歳の自分がこんなに自由に生きていることを。

本当は、12歳のあなたも自由には生きられることを。

 

 

明日も朝が起きたら自分に尋ねる。

 

「今日はどういう気分?」と。

 

そして、男の子だと感じれば、ジーンズに足を通すだろう。

次に、好きな色のだぼだぼのTシャツを頭からすぽんとかぶる。

 

女の子だと感じれば、ワンピースを頭からすぽんとかぶる。

ウキウキとしながら紐を腰へ通してからお腹の前でちょうちょに結び、ちゃちゃちゃと髪をととのえ鏡をみる。

気分がのれば、眉毛もかきたし、ほっぺたにもピンク色を入れ、口紅も指すかもしれない。

 

いつだって自由だ。

 

わたしがどう生きるかは、わたしが決められる。

 

 

ちなみに、これらの「男の子っぽい」か「女の子っぽい」かという問いは、よくいわれる男性性か女性性かとか、そういうニュアンスや概念の話ではない。

セクシュアリティについて考えること、自分の価値観について考えを深めることは、なんらかの生きやすさをそのひとに返してくれる、素敵な時間だよなぁと、そんなことをいつも思ってる。

 

 

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一時間のなかにもいろんな自分は出てくる。

だから、一日の最初に決めちゃうというのはちょっと横暴なことでもある。

もしかしたら朝・昼・夜で分けたほうがいいかもしれん。

でも、まあ、とりあえずは「朝、起きてすぐ」に決めるルールにしてみてる。

いい感じだよ。

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