「ブログを1000記事書いたら奇跡が起きるよ」
その言葉が本当かを確かめるための過程の記録

生きている理由を「外側」に求めていたこと。

 

 

夜だからもうまあいっかと考えても、すっきりせずもやもや。

 

ラートのことは大好きで、沖縄に来られてよかったと思う大きな要素のひとつ。

もちろんラートを通して出会えたひとも、いただいた経験も本当に宝物のように思ってる。

 

でも、なんていうかわからない。

 

Movement2015でラートをもっと有名にしたいと話した自分。

琉大祭で大勢のひとにラートをしている自分を褒められたときの自分。

こないだたくさんの新入生の前で演技をした自分。

 

どの自分に聞けば答えがでるだろうと、ぐるぐると考えてる。

 

今よりももっとうーんと若くて(今も若いけど)

何もかもが不安で、いつも歩いてる地面がぐらぐらと揺れてるような気がしていた大学一年のとき。

ラートに出会えて体操部に入って、たくさんのものを得た。

 

それのおかげで今の自分がある。

 

すっごくラートに感謝してる。

ラートに通じて出会えたひとにも。

 

ラートのことはまだ好きだ。

 

でも、なんだろう、なんか違う。

 

なんか違うんだよなぁ。

 

それは、その出会えた喜びを一生懸命に表現したくて参加したいろいろなことや大学との相談事、いただいたチャンスやスペシャルな経験。

 

ほんとに、なんだろう。

すごくすごく心の底から感謝していて、写真を振り返ってみれば、本当に本当に嬉しそうに笑ってラートのなかにいる自分と出会う。

 

取材をしていただいたときに撮影していただいた写真もとっても気に入ってる。

 

だけど、わたしはなんていうかラートを利用しすぎてしまった気がしてて。

「自分」をつくる何か、「自分」になってくれる何かがずっと欲しくて。

 

ずっとそれがなくて寂しくて、それでわかりやすく派手な「ラート」に飛びついてしまったような気がしてて。でも、結局それは外側から与えられる理由ばかりで、だから大会でもずっと中途半端な結果しかのこせなかったんじゃないかと思ってる。

 

真剣なんだけど、どこかストイックになりきれない自分をずっとずっとずっと責めてたし、今の部活の状況についてもすごく自分を責めてる。

 

責めたところで何も解決しないし、大きな世の中の流れもあるとそう思ってはいるけれども。

 

ラートのことはまだ好きだ。

 

いただいているパフォーマンスのご依頼もちゃんとやりきりたいと思ってる。

写真の撮影のお話だって、ちゃんとセッティングしてって思ってる。

楽しみにしてくれているひとがいっぱいいる教室の話も動かさなきゃって思ってる。

 

でもなんか、ラートのことを考えてるときの今の自分はすかすかしててなんだか寂しくなってしまう。

 

本当のことは内側から溢れてくる。

 

パフォーマンスをさせていただいているときのそれは、みんなの嬉しそうな声とか顔とか、そういうのはやっぱり大好きだ。それは今もはっきりわかる。

特に子どもたちの表情が好きだ。

そして、それにつられるようにどんどん子どもみたいな表情になる大人の顔も大好きだ。

 

どうしたらいいかよくわからないときはたいてい答えがもう見えてる。

 

わたしはただ、ラートという言葉を発する時、その言葉を聞く時、たくさん無理をしてたくさん自分を責めながらどうにか頑張ってた大学2、3年の時期のことを思い出してしんどくなってるだけだ。

 

外側に生きる理由を求めすぎてつらくなってた時期を思い出してるだけだ。

 

まだときどき「movement見ました!はるなさんに入れました!これからも応援しています」って言ってくれるひとに出会う。

「はるなちゃんのラートが好きだよ~」って言ってくれるひとにも出会う。

 

嘘なく嬉しい。つい抱きしめてしまうくらい喜ぶ。

 

本当はいつだってラートのこと大好きだ。

 

でも、今は、今内側から溢れてくるがままにするお仕事の数々が楽しくて、でもその「内側」に意識を向けるのは簡単にはできなくて、とてもとても注意深くそれをやってるから、こわい。

 

まだ、こわい。

 

また外側に生きる理由を求めてしまうっていうのがやなだけだ。

 

そして、ラートは、それを通じて出会えたひとや経験がいっぱいあって、それは今の自分をたくさん形作ってくれたから、またそこに戻りやすい。

 

今の自分にはまだ「人のために」は嘘だ。

そういうとき、たいてい自分のなかにあるのは「これをしたら愛してくれるだろうか」「これをしたら認めてもらえるだろうか」という下心だ。

 

内側から溢れ出してくるやりたいことは「自分のために」だ。

たとえそれで喜ぶひとが誰もいなくても、それでも誰かの喜んでくれる顔を想像しながら、自分の求めるハードルを自分で超えていく良心のかたまりのような喜びだ。

 

ラートについて考える時、気持ちがざわざわとして、膝を抱えて泣きたくなるような気分になるのは、ラートに飛びついた自分のことをまだ許せてなくて愛せてないから。

 

そして、そんな自分が、実際に言われたこともあるけれど、応援してくれているたくさんのひとを裏切り続けているようなそんな気分になるからだ。

 

本当は、ラートのことが今だって大好きだ。

そんなことははっきりわかってる。

 

わからないふりをしたいのは、どう関わっていいのか想像もできてないから。

 

どうしたいのか、もう少し時間をかけて考えたい。

もうちょびっとだけ、答えを延期して、動いてたい。

 

時間が経てば、自然とまた「楽しい」だけでラートをしてた最初の頃、一番最初、大学一年の春のような気持ちでラートと向き合えるような気がしてる。

 

今は、まだ、無理だ。

 

今は、やっとできるようになってきた「内側」から考え事や行動をスタートする癖をもう少し自分に染み込ませたい。

 

簡単に「外側」に理由を探す自分に戻りそうなタネである側面もあるラートはまださわりたくない。

大好きな人たちが困っている顔を見たら、そんなのすぐ、戻ろうとするに決まってる。

 

失うものは多いだろうか。

もう失っただろうか。

 

わからない。

 

もうちょっとで、準備ができると思う。

 

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