「ブログを1000記事書いたら奇跡が起きるよ」
その言葉が本当かを確かめるための過程の記録

パソコンへのサヨナラ&号泣の夜

 
パソコンが悲鳴をあげていて、あらあら、と思う
もう5年目に入ったもんね、今までどうもありがとう
よく働いてくれたなーと思い返す
一年生のときの1万字のレポートも、二年のときの初めて書いた企画書も、三年のときには大学に20万円支援してもらうための要望書をまとめて、movementの優勝をくれたプレゼンづくりもやってくれたね
3万字弱のゼミ論も、こないだの卒論も、みんな助けてくれたのはこのパソコンだった
 
よくよく考えると100万円くらいは稼いでくれている、ありがたいパソコンちゃんだ
20万円で3番目のサーファーの叔父さん(かっこいい)が入学祝でプレゼントしてくれたので、80万円も利益(わたしからしたら100万円の利益)をくれたありがた~いパソコンちゃんだ
 
よく働いてくれてありがとう
デスクトップごちゃごちゃでごめんね

立ち上がるのに15分くらいかかるようになって、キーボードが誤作動を起こすようになって、ネットの接続不良が増えて
ワードが数分置きに落ちたり、そもそもいろんなファイルがうまく開けなくなったり
突然の再起動はしょっちゅうで
あらあら、と思いながら、さよならだなと思った

新しいパソコンを本当に親切にくださった方がいて、それは24日に届く
(くださったつーかおねだりして買ってもらった、まさかのまさかである)
もうすぐだ
すごく楽しみ、うきうきとする

最後に何か一つ、思い出に残しておきたいなぁと思い、いつ魔の再起動が始まるかびくびくしながらこれを書き始めてみた

しかし、ブログを更新するのはなんだか久しぶりのこと
どんな感じで書いてたかも忘れちゃった
 
それに、なんていうか、いろいろと難しいこともいっぱいあったりしてね

ブログの書き方ひとつ、フェイスブックの投稿ひとつを意外とひとは見てくれているということを最近知り、書き方で不安にさせたり、不快にさせたり、かといってそれらの記事で「元気がでたよ」と連絡をくれるひともいたり、よくわからん世界だ
(時々、取材依頼もあるんだから、これまたよくわからん世界だ)

結局ネット上になにひとつ「本当のこと」なんてなくて、そもそも文章というのはそういうもので、ひとりひとりの解釈のよるところが大きいと思うので、またそこも難しい話だなとも感じるけれど
 
どちらにせよ、だれかを不安にさせるために、だれかをいやな気持ちにさせるためにブログを書いているわけじゃないしなとか
(もちろん、だれかに元気を!とか、勇気を!とかそんな気持ちでも書いていない)

なんていうかそういういろいろなことを考えていたら書けなくなったのだ

プチブログノイローゼみたいなものだ
いちいち自意識過剰ゆえ仕方ないと思うんだよね
 
、、、そういう気持ちの流れはあったのだけれども、実はブログの文章というのは、長く書けば書くほど「離脱率」といって、途中で閉じてくれるひとは増える

パソコンちゃんの調子もなんだかよいみたいだし、せっかくだからその離脱率をちょちょいと利用して、今の気持ちの整理を、書き残しておきたい
(と思って書いていたらまんまと5000字になった、あわわわわ)

さて、そもそも、こんな道理は通らないだろうけれど、このブログは別に「誰かのため」に書いているものではなく、1000記事書いたら奇跡が起きるよという言葉を信じて書き始めた自分のためのもの

それがアクセス数が思っていたよりもずっと伸び、いろいろなひとに喜んでもらえ、お仕事を運んできてくれたりとするようになって「他者性」が入ってきた
 
それもうれしかった

それでも自分のためのブログだからと言い張るのだったら、紙の日記を書いてもいい話で、だけどそれだとなんでか続かない、面白くないんだよね
あと手書きだとよりポエムっぽくなってしまうので、読み返しても何がなんだかようわからんのだよね、困る
 
だから文章としてその時点での自分の考え事をのこせることや、それを誰かが読んでくれる、それも少ない人数ではないひとたちが読んでくれるというのが面白くてブログは続いていて
 
お仕事の依頼とかね、そういった二次的な反応も面白くて続いていて

でも、やっぱり気持ちとしては「自分のためのものだ」という意識が強いというのも本音で

まあだけど、かといって、そういうほかの人の視線を完璧に無視してしまうのもなんだかリテラシー的にいけない気もするし

やっぱり誰かを嫌な気持ちにさせたくて書いているわけじゃないんだよなぁっていうところに戻っていくわけだったりする

それでなんだっけ、今の気持ちの整理だ

(もうこの時点で、かなりの人数のひとがそっとブラウザを閉じてると思いたい)
((なんていう言い訳が通るわけもないかとも思いつつ、、、))
 

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なんていうか、正直な話を書くと、いつもカラーセラピーで「自己肯定感」をあげるコツや、自分の人生の選択軸を自分に戻す練習法とか伝えているんだけれども、わたしも別にそれが完璧にできているわけじゃないっていうような

そういうちょびっと恥ずかしい話になる

つまり、久しぶりに声を上げて大泣きしちゃったのだ

「もーーやだーーーーー」

って言って泣いたあとにこれを書いてる
 
あ、でも、カラーセラピーのお客さんたちだったらたぶん「よかったー」とか「なくのもいいんだもんね」とか、そういう感じのこと言ってくれるんだろうなぁ
みんな優しいんだよなー
 
ちなみに夏いちばんっていう沖縄限定であろうビール?発泡酒を片手に、肴は特に用意せず、ぐびぐび飲みながらこれを書いてる

お酒はそんなに強くない
1,2年のうちはよく飲んでたから、かなり強かった気がするんだけれども、いや、強くないのに酔いつぶれて強いふりをしていた気がするんだけれども、最近はめっぽう弱い

おいしいごはん屋さんで、すばらしくおいしいお酒をちょびっといただく、みたいなのが増えたからだ
ばかみたいに飲まなくなった

そうすると耐性がへるのかね、弱くなる

一缶飲むだけで気持ち~くなるというのは、まあある意味コストがかからない、お得な感じもするよね
 
それでなんだっけ
そう、久々の大泣き、自分でも困惑してしまった
 
「生きてくのってなんでこんなに難しいんだーーー」

って言って泣いた

「さみしいんじゃーーーーー」
って言って泣いた
 
本当に楽しい毎日を過ごさせてもらっている
いろんなひとのおかげだ

3月は、一気に自分のなかに潜り、深く深く潜り、いろいろなことを感じ、考え、整理しという期間だった
あれはあれで自分に必要だった
 
4月、もうすぐ終わるが、大学も始まったり、カラーセラピーのご予約もたえず入ったり、書き起こしのお仕事も変わらずご依頼いただけたり、nugeというセクシュアルマイノリティーについて考える団体の新しいプログラム作りに企画として入ったり
 
そして新しいのが「天成る道」という持続可能な暮らしの実践場というか、お母さんたちには自分たちの好きなことを思う存分エンジョイしてもらってかつそれが経済的な豊かさにつながるような仕組みづくりみたいな、子供たちは自然のなかで遊べるような、そんな場所づくりに携わり始めていて
 
それがまーもうほぼほぼ起業なんだよなぁ
どんなビジョンがあるのかヒアリングして、可視化してっていう、全然能力不足なんだけれども、重宝していただけるのがうれしく、その場所に入り浸ってるのよね
 
で、泣いたのは、たぶん
なんていうかまあ普通に考えてキャパ越えだよね

そこに四か月くらい放置しちゃっていたラート教室の話があったことに気づき反省したり、、、

もうなんていうか、今日はとにかく気持ちの流れが忙しかった
 
そして、それでなんだっけ
とにかく大きな声をあげて泣いたのだ
 
研究室の先生に「思いっきり泣くのって贅沢な時間なんだよ」と教えてもらったことがあったけれども、本当にそうだと思った

泣くだけ泣いたら開き直れた

だって能力足りないんだもの
もっともっとやりたいけれどできないことのほうが多い

だってさみしいんだもの
結局みんな大切な居場所はほかにある
それは、自分が昔した決断ゆえの感情だし、そんなの仕方ないよ
それのおかげでたくさんのひとに愛されているのも事実で、びっくりするような(パソコンをプレゼントしていただくとかね、おねだりしたんだけどね!)
そんな愛にも恵まれていたりする

家族だって気にかけてくれているし、友達もいる
パートナーだっている

なんていうかでもなんか
こう、根本的に「帰れる場所」というのがどんどんなくなっていくのを、こう砂の城がね波に削られていくような感じで、気づくとずいぶんなくなってしまったのを22になってすごく感じて
 
22になったんだからしっかりしなきゃ、みたいなね
無意識に「さみしい」と思う自分を責めてたんだよね
 
お母さんたちとよく関わるようになって、叱られたり喧嘩したりもするんだけど、それでも愛情にいっぱい包まれている子供たちに「いいなぁ」って思ってた自分のことも無視してたしね

そして、その一方で「若いのに」とほめていただくことが増えて
そこの葛藤が本当はすごくあったんだよねぇ
気づかなかったんだよねー

だって、寂しくてできなくてかっこ悪くてうまくいかない自分がいるのが本当だ

あーーー書きながらすっきりする

これあんまりよくないんだろうけど、でもやっぱりこう、なんていうかすっきりするんだよね
書くとその分の考え事が外に出て行ってくれるんだよなぁ

そして、これを読んでくれた人が、メッセージとかで「自分もこういう経験があって、こう思ったりする」とか「そうそう同じ気持ちになったことがある」とか言ってくれるんだよね

それってなんだかうれしいんだよねー
もう仕方ないよね、そういうもんなんだもん
 
そう、なんだっけ

そーなのそーなの
もっとやりたいんだよ
もっとできると思うし

でも、まだ、できない
まだ、これからなんだよね
 
「やりたいことで生きていく」とか「好きなことで生きていく」っていうのは何か具体的な「好き」に埋もれて暮らすことを指しているわけじゃーないんだ

自分のなかの感情に敏感になって、しっかりとアンテナ張って、そうやって生きていくということ

嘘を減らしていくってことだ
 
と、私が思うっていうだけの話であって、みんなにそうしたほうがいいよ!というニュアンスで書いてるわけでも、だれかにこうなんだよ!って所信演説してるわけでもない

ただ、こう思ったよっていうだけのこと
 
誤解されれば悲しくて
それが言葉足らずだからと言われれば悔しくて

結局、「一生懸命やってるね」と誰かに言われたいだけなんだねと自分に気づいたりもして

そして、その言葉はすでに誰かにいっぱい言ってもらっていた言葉だったりするんだよね

もう少し自分を満たさないと、まだまだなんにもなりやしない

誰かのため、と、自分のため
そこを間違えると、すごい失敗につながっちゃう

損得を考えて動くと、思わぬ悪い結果が起きてしまうみたいなもので
 
もっと、もっと、もっと
もっと生きたいようには生きられる

別に、今のことがだめでも、次がある

次のことがだめでも、次の次がある
 
答えは自分のなかにしかないもんね

自分を満たすためにだれかの言葉を、先に用意していた形でほしがると、目の前の相手は疲弊しちゃうよね
ごめんねと思う
 
そうじゃない
もっともっと自分で自分を満たせるようになりたい

コップの水は減ったり増えたりする
みちみちていけば、勝手にあふれて、たくさんのひとにそれが行き届くようになる

焦らなくていいんだ
一歩ずつでいいんだ

っていうかもう頑張らなくていいんだ

失敗したなら謝ったらいい
またリスタートしたらいい

形がだめだったなら整えればいい

「やりたいこと」なら、あきらめずに真剣に取り組めばいい

できなくなっちゃったなら、真剣に謝ればいい
そして、相応の償いをしたらいい
 
いるだけでいいよと言われているのに、頑張りすぎるからいけないね
いるだけでいいよと言われたら、素直にそれを受け取って、そのうえでやりたいこと、できることをしていけばいいんだ
 
実践あるのみだねぇ

まだ泣けるけど、なんだかすっきり!

どんなに大変ないろいろなことが起きたって、いつだって自分が一番自分の味方でいよう

さみしいのは一生続くよ

それでも、そのさみしいに「そうだね」って言える自分でいよう

さみしいっていって「なんでさみしがるんだばか!」って責めるから悲しくなるんだー

肯定は、ほっんと大事じゃの~~

ビールもなくなったし、眠ろう

読んでくださってありがとう
またぼちぼち書き始めるので、1000記事まで楽しんでもらえたら、せせら笑ってもらえたら、やや面白がってもらえたらうれしいです

は~、ちかれた 明日はピクニックです
晴れろ~~~~
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