「ブログを1000記事書いたら奇跡が起きるよ」
その言葉が本当かを確かめるための過程の記録

私にとっての「好き」、あなたにとっての「好き」、世間での「好き」。


誰かを好きになったり

誰かに好かれたり

そういういろいろなことがうれしくて


でも

「自分の人生を決める」


そう決めきる前の「好き」を思い出すと

体も重たく、気持ちも悲しくなる


その「好き」を否定する気なんてさらさらない


でも、その「好き」の根っこにあるのはただただまっくらでぽっかり空いた自分の心の中の穴だった


さみしい、つらい、くるしい


そういうものを埋めたくて

そういうものから目をそらしたくて


「好き」を使ってた


そのころの「好き」は麻薬のようなもので


もちろん、その「好き」だけではなく、不随する性的なことも、連絡も、デートも

 

今日改めて、ああなんていい場所に生きているんだろう、と、なんて心地良い世界だろう、と


それを実感したときに、あんまりにも幸福でその幸福さにびっくりした

 

相変わらず、寂しいのだ


相変わらず、悲しいのだ

相変わらず苦しく

つらいのだってそのままだ

 

なのになんでだろう、なんでなんだろう

 

「自分の人生を生きる」

そう決めた去年の7月末から


ずっとずっと私は「好き」の質も種類もうきうき度合も変わった

 

なぜだろう?

 

「自分の人生を生きる」と決めること


それは一種の覚悟だ

 

もう、他人の人生は生きないと

自分の価値観を否定しないと


そう決める覚悟だった


もし、そのなかで傷つけられ、傷つき、傷つけ、苦しみ、その果てに飢えて死んだとしても


体がなくなるようなことがあったとしても


それでもいい、と決めることだった

 


そう決めてからの「好き」は本当に違う


おそらく、根本が変わったのだ


それにあわせて意味の色も変わったね

 

さみしい、から始まった「好き」

それはいまだに私を傷つけることがある


もうずいぶん時間がたったのに

 

でも、それさえも、今の自分は温かく見守る


そうだね、と相槌を打つ

 

なんでだろうね


今の自分が「好き」と思うことは、自分のなかから沸き上がり、自分のなかを満たし、そして外へと飛び出ていく、溢れていく

 

それが心地良いのは、そこに「形」を求めていないからだろう、と思う


もちろん、好きと同時に、触れてみたいと思う瞬間もある

このひとに触れてみたい

そう思うときもある


そりゃ~そーだ

仕方ない、人間だもの


でも、それ以上に大切にしたい気持ちがいっぱいある


それは何かをプレゼントしたくなる気持ち

泣いてても「大丈夫だ」と信じる気持ち

お金なかったら貸したげる気持ち


なんていうかそういうものだ


そして、この「好き」の反対には別に「嫌い」がない

いったら、「嫌い」でさえ、この「好き」のなかにある

 

ようするにたぶん

最近わきあがってくる「好き」の気持ちは、世間一般でいうところの、古くから伝わる「愛」ってやつなのだろう


私はついつい世界を愛しちゃってるわけだ


あほっぽい?


あほっぽいなぁ

と自分では思います

 

でも、そんな自分だからきっと

そんな自分だとしてもきっと


誰かが同じような目で自分を見守ってくれているのを知れる気がします

 

この「好き」で自分を満たし、場を満たし、空間を満たしていくことがこれからの自分の使命で役割

そして、それと同時に、その「好き」をかき消してしまう「自分なんて」「どうせ自分なんか」「ごめんなさい」「申し訳ないです」「迷惑かけてばっかり・・・・」を減らしていくこと、なくすことはできなくても減らすこと

 

それがたぶん

これから先のテーマだね

5月末までの、私の過ごし方の話でした


どうもありがと、愛してるよん


そんなあほみたいな

まあ

あほな話でした


わはは


愛してるよ~

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そして、愛してくれて、好きになってくれてありがとう