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「ブログを1000記事書いたら奇跡が起きるよ」
その言葉が本当かを確かめるための過程の記録

ついでにわかった生きてる意味についても長いけど書いた!

 

そう、でね。

一番自分のなかで大きかったのはこの気持ちと向き合えたことでした。

 

だって、別に私は有名でもない、あのひとやあのひとのようにセンスがあるわけでも、上手な文章が書けるわけでもない。記事数だけ増えてプレビュー数が増えるわけでもない。ラートの仕事が増えるわけでもない。カラーセラピーの仕事が増えるわけでもない。記事数に比例して何か自信がつくわけでもない、能力もさほど伸びない。

生活にしてもそう。 今の暮らしを続けていても何にもならない。特段何か能力がついているわけでもなく、お金を稼ぐのが上手なわけでもない。目標もないし、目的もない。ものすごくやりたいこともわからない。毎日のなかの手に入れられる楽しさだけを手に入れて、面白いものに「参加」しているだけ。

ブログを書く目的がやっとわかった(中編) - 0→1000

 

こんな感情が自分のなかに存在していたこと、情けなくてたまらないけれど。

 

そして、叔父が折々繰り返し私に言った言葉の意味を本当に理解しました。

 

お前の人生を誰かのせいにするな。

何があったとしても、それは自分の責任だと思え。

人のせいにして逃げるような大人になるな。

自分の人生を自分で決めて生きろ。

 

中学の頃に事情があって母のもとを飛び出し、高校の頃に父と暮らしはじめ、その父とも高2に上がるタイミングで事情ができ別れ、祖父母に引き取られ。その後、日常的なしつけをしてくれたのは祖父母、金銭面や具体的な進路についての相談に乗ってくれていたのは叔父でした。

 

周りを見渡せば、いくらでも自分よりも事情が複雑なひともいれば、もっとひどいめにあったひともいる、とか、日本から目をはなせば世界には口に出すのも憚られるような状態で暮らしているひともいる、とか。

そんなことを必死に何度も思って自分に頑張れ頑張れと言っていたけど、どうしても「なんでじぶんが」「どうしてこんな目に」「やりたいこともないし死んじゃいたい」と、まあ甘ったれだけど、そんな思いがずっと消えなかった。

それが一日16時間を超える日もあるくらいに勉強した受験生活の毎日のなかで、だんだんと薄れ「死ねないってことは生きていかなきゃいけないんだ」と思うように。

 

いやまあひどい甘ったれだなと思うんですけどね。

でね、大学に入ってからも、ラートと出会ったり、最後のバイト先であるトポに出会ったりして、白石美和さん(びわっちさん)との出会いからカラーセラピーの資格を取って、そこからひょんなつながりでいろいろな方と出会い、話をして。

 

そんなかで、自分がどれだけ強がっていたかを思い知ったわけです。

「もう大丈夫」「もう普通だから」「もうちゃんとできるから」と何度もいろんなひとに褒められたり、自分から言ったりしていた私が初めて「でも本当は、、、」と言いかけてる自分と出会ったのが、このブログだった。

 

ブログを始めてから、素直に言葉が出てくることを繰り返してから。

 

どれだけ自分が寂しかったか。

どれだけ自分がつらかったか。

どれだけ自分が我慢をしていたか。

そして、どれだけ自分が迷惑をかけていたか。

そして、その迷惑を文句ひとつ言わずに受け止めてくれた家族に、どれだけ愛されていたか。

 

そして、本当にありがたいことに家族がプレゼントしてくれた「大学時代」を通して、私はどんな人生を生きるも自分次第だということを知ったわけです。

 

ラートは誰かに頼まれて始めたことじゃない。

誰かの役に立てることでもない。

お金がもらえることでもない。

進路に必要なことでも、有利になることでもない。

 

政治学もそう。勉強したからといって何かになれるわけじゃない。

資格が取れるわけでもない。

 

心の在り方についてだってそう。

勉強してトライ&エラーを繰り返したところで、だれの役にも立たない。

何かお金になるわけでもない。

進路がそれだけで決まるものでもうまくいくものでもない。

 

でも、私は4年間のうち、多くの時間をそれらに割いた。

 

意味があるからそれに費やしたのではない。

ただ、楽しくて、ただ、好きだったから。

それだけの理由で、ほとんどの時間を上の三つに使いました。

 

でも、周りの同じようにそれらに時間を費やしてるひとたちよりも全然何も上手になれなかった。ラートも、論文を書くことも、心の在り方でさえ。

(心の在り方の上手下手ってなんだよと突っ込みつつ)

 

そうやって周りと自分を比べながら、一番上で引用したさっきの記事で書いた自分の言葉、これを繰り返し繰り返し自分の中で育てていたわけです。

 

だって、別に私は有名でもない、あのひとやあのひとのようにセンスがあるわけでも、上手な文章が書けるわけでもない。記事数だけ増えてプレビュー数が増えるわけでもない。ラートの仕事が増えるわけでもない。カラーセラピーの仕事が増えるわけでもない。記事数に比例して何か自信がつくわけでもない、能力もさほど伸びない。

生活にしてもそう。 今の暮らしを続けていても何にもならない。特段何か能力がついているわけでもなく、お金を稼ぐのが上手なわけでもない。目標もないし、目的もない。ものすごくやりたいこともわからない。毎日のなかの手に入れられる楽しさだけを手に入れて、面白いものに「参加」しているだけ。

ブログを書く目的がやっとわかった(中編) - 0→1000

 

三つのこと、ラートと政治学と心のこと、そしてこのブログ、毎日の生活。

そのなかで私は大したこと学び取れなかった。上手になれなかった。

んだけど、でも、でも、でも!

すごく愛された。

好かれたり、嫌われたりはその都度あったし、今もあるけど、そんなの意味を持たないくらいに私は愛されて、大切にされて、生きてることを喜ばれた。

 

そう、生きててよかった!

ほんとに生きててよかった!

 

だから、もう、最後の気持ちに刺さってた欠片を抜くことにしました。

抜くまで、痛くて、抜いた後もしばらくそこは痛むのだろうけど。

 

あーありがとうと思います、今までの経験ぜんぶに。

それらは全部私だけのもので、それは特別です。

良かったことも、悪かったことも。

 

ちょっと気持ち悪いかな。

でもね、ほんとによかった。

 

だから、もう逃げるのをやめることにします。

言い訳をいっぱい見つけて、それを握りしめるのをやめます。

やりたいことに対して、いじわるな継母のようにいちゃもんつけるのもやめます。

 

全部どうにかなってきた、これからも全部どうにかなるんでしょう。

 

「今」は何者にもなれないかもしれない。

でも、たぶん、きっと、今目の前にあるやりたいこと、しっかり全力でやっていけば、もしかしたらその先に「何者」になれる未来があるのかもしれない。

そして、「何者」になれないまま死んだとしても。

私の人生は、これだけの人に愛され、家族に愛されたものだったのだから、もうすでに意味があった。

 

私はそれを体験しに生まれてきた、ことがもうわかっています。

毎日のなかでそれを知ります。

さっきも最後にこう書きました。

 

私は魂の存在を信じていますし、この場所に生まれてきたのは何か意味があることだと思って生きています。 そして、その理由は「身体性」にあるのではないかと最近思うんです。 魂だけの状態である何かであった私は触れることができない。 触れることができない、存在することが、何かを表現することができない。 それはとても寂しく怖く悲しい状態で、とても虚しかった。 だから「体験したくて」「表現したくて」「触れ合いたくて」生まれてきた。 たぶん。

ブログを書く目的がやっとわかった(中編) - 0→1000

 

私は本当にこれを体験しにここにきてる。

いっぱい愛し、いっぱい愛され、それを伝染させること。

 

そのために今までの経験が必要だった。

傷つくことも、傷ついているひとを知っていることも、そのために必要だった。

 

やっと、いつ死んでも構わないのだ、というのが分かった気がします。

おじいちゃんおばあちゃん、お姉ちゃんより先に体を手放すのは間違ったことだから、しっかりと体調管理しないといけないけれど。

 

さあ、生きねば。

 

私本当にこの時代にこの場所にこの家族の元に生まれて、この場所までたどり着いてよかった。

本当によかった。

 

読んでくださってありがとう。